其の九
ところで、彼女の顔は、いっぷう変わった色をしています。
というのも、思いなしか青みがかった色をしているのです。
どうしてでしょう?
あ、ひょっとして、あれじゃない。
こんな抜けるような空の青さの、その下にいるから、それでじゃない?
いえ、ちがいます。
あ、だったら、あれだ。
途方もなく、大きい、この妙な桃についてあれこれ考えているうちに、しだいに、気分が悪くなって――それでじゃない? だって、さっき、それにちなんだこといってたもの。
い、いえ、それもちがいます。
実は彼女、もとより、そういう色の顔をしているのです。ま、そういうと、身も蓋もない話になっちゃいますが……。
それはそうと、さっきから、気になる人物が目にとまってしょうがないのです。
土手の上です。そこから、波打ち際にたたずんでいる彼女のことをしきりに窺っている、そんなあやしげな人物がいるのです。まるでストーカーのような……。
男です。彼女と同じ三十がらみとおぼしき。
では、なぜ、その人物は、彼女のことをストーカーまがいに窺っているのか?
という疑問が、当然、湧いてきます。
もし、彼がほんとうにストーカーだとしたら、話はまた、ややこしくなってしまいます。
いつになったら、桃太郎は登場するんだい、って感じで……。
たしかに、それは、大いに気になるところではあります。
ありますが、実はまだ、ほかにも気になることがあるのです。
それというのも、彼女同様に、この人物の顔の色も、いっぷう変わっているのです。
彼女とちがって、彼の顔は、赤みがかった色をしています。
どうしてでしょう?
あ、これは、あれじゃない。
件のおじいさん同様に、真っ昼間から酒を煽って、ほんのりと赤ら顔になってしまった、それでじゃない?
いえ、ちがいます。
え、あ、そう……あ、だったら、あれだ。
日焼けしたんだ。それにちがいない。ほら、だって、抜けるような空の青さから、お天道様の陽の光が燦々と降り注いでいるもの。だから、ね。
い、いえ、それもちがいます。
これもまた、身も蓋もない話になっちゃいますが、もとよりこの人物の顔も、そういう色なのです。
赤い顔の男と青い顔の女――実をいうと、この二人、なにを隠そう、夫婦だったのです。
夫である彼は、昼食を済ませると、土手の上を、ぶらり、逍遥していました。
しばらく歩いていると、波打ち際にだれかいるぞ、ということにふと、気づいたのです。
土手の上から眺めていると、その人物はだれかと対峙でもするかのように、腰をかがめて、波打ち際にたたずんでいるのです。
ちょうど、そう、『何か』とにらめっこしている、そういう感じで。それも、わりと長い間。
なんだか気になるので、彼は、その人物をまじまじと見つめました。やがて、そこでふと、気づいたのです。
ありゃ、うちの山の神じゃねぇか、と。
そう気づいた彼は、けれど、身じろぎもせず、そこに、ジッとたたずんでいる彼女を目にしているうちに、素朴な疑問が湧いてきたのです。
にしても、あいつはあそこで身じろぎもせず、いったい、なにをしてるんだ、と。
そんなふうに、彼が疑問に思ったとしても、なんら不思議はありません。
なんといっても、この彼女、とりわけ短気な性分をしているのですから。したがって、いつまでも、ひとつ処に身じろぎもせずたたずんでいるなどは、きわめて稀なこと。
もしもこれが、市場かなんかだったら、話は別です。それが、たとえば肉屋や魚屋、あるいは、八百屋などの前だったら――。
そこで、一心不乱に、彼女が品定めをしているのは極あたりまえの風景でして、別段、めずらしくもなんともないのです。
それも、うんざりするくらい長い間、食い入るように見つめているものですから、周りの者はたまったもんじゃありません。
でもあそこは、ただの波打ち際じゃないか。
ふにおちないという表情をして、彼は思います。
あいつが品定めをしたいものなぞなにもないはず。おかしい。これはおかしいぞ、としきりに首をひねって。
そうこうしているうちに、彼は、ひょっとして、と別の想像さえしてしまうのです。
めったにないことをしてたら、この抜けるような空の青さから、にわかに篠突く雨が降ってきちゃったりして、というふうに。
それが、さも可笑しかったとみえて、彼は、その空を見上げて「あはは」と笑うのでした。
がしかしすぐに彼は、幼子がいやいやするように、強く、首を横に振ります。
またしても、別の想像がふと、頭をよぎったからです。
事実は小説より奇なり、っていうからな。むしろ、なにが起こるかわからないのが、現実の世界だ――こうして、もうひとつ別の想像をした彼は、こういうつぶやきの名残を土手の上に置いて、脱兎のごとく、そこを駆け下りるのでした。
「おいら、濡れ鼠だけにや、なりたくねぇ」
土手を駆け下りた彼は、やがて、彼女のほど近くまでくると、そこで、いったん、立ち止まります。
そこで、乱れた呼吸を整え、それから、抜き足差し足忍び足で、そっと彼女に近寄ると、その背後に立ったのです。
その上で、彼女の肩を――男勝りのいかつい肩を、わりと強く、ピシャ! と叩きました。
もしこのとき、こうして、彼に肩を叩かれなければ、彼女は、白い砂浜の明るい静けさの中で、独り、いつまでも波打ち際にたたずんでいたことでしょう。
彼女はそれほど、非常に、興味深く、この桃をしげしげと見つめていたのです。
けれども現実は、ゆくりなく、背後からそっと忍び足で、彼女と桃の間に入ってきました。
これには、さしもの男勝り誇る彼女も一瞬にして毒気を抜かれ、ほとんど、飛び上がったのです。
不自然な沈黙が降りてきます。
ただ、その静けさのおかげで、潮騒が、いっそう、耳にここちよくふれます。
相も変わらず、白い砂浜の上を、一匹の、いえ、二匹の黒い蟹が、トコトコと歩いています。
もちろん、海から風が吹いてきます。
あくまでも長閑な昼下がり。
その波打ち際。
そんな中、すっかりうろたえた彼女は、ひどく冴えない顔つきで、呆然と、白い砂浜の上に立ち尽くしていたのでした。
つづく