其の五
この山里の村の、その奥深く――そこに、樹木が鬱蒼と生い茂る深い森があります。
お天道様が中空高くのぼっても、陰々として、不気味な妖気が立ち込める、そんな気味の悪い森が……。
なかんずく、不気味な雰囲気を醸し出す一本の大木ーーそれが、この森の深奥に生息しています。
実はこれ、桃の木で、不思議なことに千年に一度だけ、その実に人の子が宿るという、いい伝えがあるそうです。だとすれば、文字通り、驚き桃の木山椒の木……ですね。
この木に前回、実がなったのは、いうまでもなく、千年前です。そのときに生まれた子が、やがて、世界の西方へと旅立ち、そこで奉教人の祖になったともっぱらの噂です。
ただ、残念なのは、彼の死後、その弟子たちが残した価値観が、たとえば天使と悪魔という、その二つだけだったということです。
ほんとうは、東方の世界にある『真ん中』という、三つ目の価値観が大事だったのです。
どうしてそれが大事かというと、二つの価値観という粗い目では、世界のすべてが救い取れないからです。
それはさておき、それから、千年。もちろん、こん回も、この摩訶不思議な大木には、元気な子を宿した実がなっています。
ただ、こん回は、ちょっと奇妙なのです。どういうふうに奇妙かというと、こんな具合です。
いつもなら、この大木には桃の実はひとつしかならないのです。
それが、今回はなぜか、三つもなっているのです。これは、奇妙というほかありません。
もちろん、それぞれが人の子を宿しています。したがって、やたら大きくて、やたら丸いので、ある人は、おぞましくてしょうがねぇ、と眉をひそめたり、また、ある人は、実においしそうじゃ、と頬をほころばせていたりするとか、しないとか。
もっとも、さぞや毒気を抜かれることでしょうね。そんな大きな桃が三つも同時に流れてきたら、そこで洗濯しているおばあさんはーー。
三つの桃の実が、いよいよ、熟したようです。
でもだからといって、三つが三つ、いっせいに落下するわけではありません。
まずは、そのうちのひとつが、落下します。木の真下にある清水へ、ドボンと大きな音を立てて。
すぐに、その桃は川の流れに乗って、どんぶらこっこ、どんぶらこっこと、下りはじめます。
これを、川上の村でくらすおばあさんが拾います。
奇しくも、川で洗濯している折、この桃が、ふわり、ふわりと目の前に漂ってきたからです。
これを見た瞬間、おばあさんは、おや、まあ、と目を、目玉がまぶたの外へ出そうになるほど、大きく見開きました。
けれどすぐに、そうじゃ、おじいさんへのお土産にするとしよう、と手を叩いて、よっこらしょと拾って、いそいそと家に持って帰ったのでした。
間髪をいれず、二つ目の桃が清水へ落ちて、川を下りはじめます。
もちろん、川上の村のおばあさんはいません。ちょうど家で、おじいさんと桃を切っているさなかなので、それは、まあ、当然といえば当然です。
そこで今度は、川中の村にくらすおばあさんが、それを拾いました。
状況は、やはり、川上の村でくらすおばあさんのときと同様です。したがって、あえてここで説明するまでもないことなので、詳細は省かせていただきます。
ただ、このとき、川中の村でくらすおばあさんも、川上の村でくらすおばあさんと同様に、桃を家に持って帰り、それをおじいさんと一緒に切ろうとしていた、ということだけは頭の片隅にでも記しておいてください。
さて、それから、わずかな間のあとで、三つ目の桃も同様に川を下りはじめます。
もちろん、この桃は、川上と川中の村を通りすぎてしまいます。
ほら、だって、二つの村では、あれでしょう。
おばあさんたちが、拾った桃を家に持って帰っておいしそうにいただいているさなか、もとい、桃のなかから出てきた赤ん坊を見て驚いているさなかーーなのですから。
したがって、この桃は、川下の村に向かって、どんどん、流れていきます。
そうして、いよいよ、川下の村へと流れ着きます。
ところが、です。
実はこの村にも、川で洗濯するおばあさんは、あいにくいないのです。
もう、お気づきのことと思います。そうです、この村は、例のおじいさんとおばあさんが愁嘆場を演じた、まさにその村なのですから。
こうして、そこにいるはずのおばあさんがいないことで起こる、もうひとつの、桃太郎伝説。
さて、だれにも拾われなかった三つ目の、この桃――これは、はたして、どこへと流れていくのでしょう。
そうして、この桃はだれに拾われ、そのなかにいる子は、いったい、どのような運命を辿るというのでしょう。
それとまた、三つの実の子どもたちは、どのような邂逅をはたすのでしょうか?
つづきを、乞うご期待