其の十一
「おまえだって、そう思ってんだろ」
「え!」
「食べがいがありそうな桃だ、ってさ。それで、品定めしてたんだろ」
「し、品定めって……」
彼女は、すねたように口をとがらせ、つづけていいます。
「それじゃ、まるであたしが食い意地が張ってる女みたいじゃないか」
へ!
覚えず彼は、目を点にしてしまいます。
張ってねぇっていうのか。人一倍張ってるくせに――ということばは、けれど、恐ろしくてとても、口には出せません。
うっかり口を滑らせて、それで、いままで幾度となく痛い目に合っているからです。それを思えば、とても……。
同じ轍は踏むまいと思っているので、代わりに、彼はこういいます。
「どうせたぶん、こう思っていたんだろ。これ、食べられるんだろうか、とか、もし食べたとしたら美味しいんだろうか、とかさ。しかもそういう目をして、こいつを垂涎で眺めてたんじゃないのかい。え、どうなんだい」
そんなふうに、彼はいたずらっぽい目をして、カマをかけるのです。
うっ……。
彼女の目が一瞬、泳ぎます。
どうやら、図星だったようです。
「そ、そういわれれば、そうだったような……だからといって、そうじゃなかったような」
彼女は、姑息にも、お茶を濁そうとします。
でも彼女は、動揺を隠すことは出きないのです。
きっと彼女は、まっすぐな性分をしているので、隠し事などは一切できないのにちがいありません。
「なんだよ、図星かよ」
さも可笑しそうに、彼はほくそ笑みます。
「わかったよ、それはみとめるよ……けどさぁ、ほら、あたし、オツムの回転がからっきしじゃない。だから、ややこしいこと考えながら品定めしてたら、しだいに、具合が悪くなって、しまいには、そんな自分に腹が立って、それで……」
いい終わらないうちに彼女のことばを遮り、彼は「へへ、そりゃ、おめぇらしいや」と、皮肉な口調でいいました。
「と、とにかく、そういうわけで、半ば捨て鉢な気分になって、このままほったらかして帰っちゃおうかって一瞬思ったんだ。で、でもさぁ……」
「でも、なんだよ?」
「なんだか、妙に興味が湧いてきちゃってさ」
「興味? どんな?」
彼女は、宙空をジッと見つめて、しみじみとした口調でいいます。
「あのね……そう、この桃はいったいどこから、この波打ち際へと流れ着いたんだろう、とか、こんなに大きいのにどうして、いままでだれにも見つからなかったんだろう、とかーーそしてなにより、もしかしたら、こいつ、あたしに拾われたくて、ここに流れ着いたんじゃないの、とかね」
そこで彼女はことばを区切ると、桃に視線を移して、それをぼんやりと眺めるのでした。
「なるほどなぁ……」
間髪入れず、うなずいた彼も、彼女と同様に、桃をぼんやりと眺めて、口をつぐんでしまったのです。
白い砂浜の上に一瞬、なんともいえない沈黙が降ります。
白い砂浜一帯には、やはり、潮騒が静かに音を立てているばかりです。
その上を歩いていた二匹の黒い蟹はもう、どこかに消えてしまったようです。
しばらくの間、その静けさの中に、二人は、ひっそりと沈んでいたのでした。
「あたしねぇ、思うんだ」
その沈黙を破って、彼女が口を開きます。
「偶然にも、この桃、こうして、わたしたちが見つけたんだけれどさ……これって、ひょっとして、偶然じゃなくて、なにやら浅からぬ因縁ゆえの、あれだったんじゃないのかなって」
「あれって、なんだよ」
「え、あれは……あれだよぉ」
「だから、なんだって訊いてるの」「…………」
といって、彼は知っているのです。彼女が、なにをいいたいのか――。
なのに彼は、彼女の悟性の欠陥をいいことに、意地悪して、わざとからかっているのです。
だとしたら、とても悪い旦那さんですね。 でもそんなことをしたら、あれですよ。あとでしっぺ返しを食らうのが世の習わしですよ。
後悔先に立たず、とはいみじくもいったもので、先に立ってくれれば、あとで、ほぞを噛むことはないのです。
けれど、そうならないのが、現実のややこしさというもの。
とかく、現実は一筋縄ではいかないようです。
この人、ほんとうは、あたしがなにをいいたいかわかってるんだ。そのくせ、いまいましいたらありゃしないねぇ、まったく――舌を打ちたいような気分をどうにか押さえて、彼女は、なるべく表情を変えずに、さらっとした物いいでいいます。
「まあ、それは、いったん、こっちに置いといて――それより問題は、これよ。このいっぷう変わった桃をどうするかよ」
だしぬけに桃に顎をしゃくって、彼女はいいます。
「どうって、どうすりゃいいんだい?」
彼もどうしていいかわからずに、そう切り返します。
「そうねぇ……ひとまず、家に持って帰ることにしようよ」
そういって、彼女は、だから、ね、というふうに、彼の顔を覗き込みました。
うん⁈
思わず彼は、目を瞬きます。
え、お、おいら……おいらが、こいつを抱えて、家に持って帰えれってか?
そういう目つきをして、彼は、彼女に訊きます。
もちろんさーーというように、彼女は黙って、鷹揚に、うなずきます。
文句はいわせないよ、というような毅然とした光を、その瞳に宿して。
ほらね。さっそく、しっぺ返しを食ったようです。 やはり、彼女は、さっき、意地悪されたのを、いまだ根に持っていたようです。
やれやれ――ため息ついて、彼は力なく首を振ります。
一度こうと決めたら、梃子でも動かない彼女です。だから、ため息をつくしかほかないのです。
やむなく、彼は、波打ち際にたゆたう桃を、ひょいと持ち上げようとしました。が――。
こ、こいつは、やけに重いじゃねぇか。とてもじゃないが、おいらにゃ、ムリだ……。
思わず、彼はこころの中で悲鳴をあげます。そうして、なさけなそうな顔で、彼女を見ます。
そこは、永年連れ添って来た伉儷です。たちどころに、彼のこころの声を、彼女は理解します。
「なさけないねぇ、まったく。ほら、どいて、どいて」
そういって、彼女は、彼に代わって桃を持ち上げようとします。
がしかし、思いのほか重たいのです。
こりゃ、たしかに、重いねぇ。なまじいな力じゃ、到底持ちあがらないよ。
こころの中でそう彼女はつぶやくと、渾身の力を振り絞って、ふたたび、桃を持ち上げます。
それにしても、『何か』が入っていそうなーーそう思わずにはいられないほど、この桃は、むやみやたら重いのです。
うん⁈
彼女は思わず、ハッとします。
やっぱり、『何か』が入ってるんじゃないか、と。
なぜなら、彼女はいま、桃の中で『何か』が動いた、ような気がしたのです。
いくらなんでも、それはーーけれど彼女はすぐに思い直します。
たぶん錯覚だよ、と自分に強く言い聞かせて。
それから彼女は、よっこらせ、と桃を持ち直し、額に汗しながら、重い歩みを、それでいて、どこか弾んだ歩みを、わが家へと向けるのでした。
つづく