其の十
といって、男勝りを地でいく彼女のことです。
わずかな間のあとで、彼女はもう、ふだんの自分を取り戻したようです。
ただ、めずらしく、頬はまだ、見るからにこわばったままです。いくら男勝りといっても、やはり、そこは女子なのでしょう。
その表情のまま彼女は、悠っくり、首をめぐらせます。
「な、なんだぁ、おまえさんかぁ……」
そこにいたのは夫でした。それと知れた彼女は、ほっと胸をなでおろし、ようやっと、屈託のない笑みを浮かべると、つづけて、こういうのでした。
「もう、びっくりするじゃないか。生きたここちがしないってぇのはこのことだよ、まったく……」「…………」
がしかし夫は黙って、ただ彼女を見つめているだけです。「あら、おまえさん。どうして、口つぐんでるのよ」
なぜか夫が黙っているので、彼女はけげんそうな顔で、ことばをつづけます。
「それに、その目なによ。おめえにしちゃ、ずいぶんとおどろくじゃねぇかって、そんな目しちゃってさ。失礼たらありゃしないねぇ」
そういって、彼女は唇をとがらせます。
「だって、その通りじゃねぇか……おまえが驚いてるほうが、おいらにとっちゃ、よっぽど驚きってもんよ、へへ」
彼は、肩をすくめて笑ってみせるのでした。
「な、なによ、いうに事を欠いて。ほんとうに失礼しちゃうわねぇ……あたしはねぇ、なにもおまえさんに肩を叩かれたからって、おどろいてんじゃないんだよ」
「へぇ」
わざとらしく、驚いてみせて、彼はいいます。
「じゃ、いったい、なにに驚いてるっていうんだよ」
「あたしゃ、てっきりねぇ……」
そこでことばを区切った彼女の顔が、にわかに曇ります。
なにかおぞましいことでも、頭をよぎったのでしょうか。
浮かない表情のまま彼女は、ことばを、こう継ぎます。
「近ごろ流行りの、あれかな、って勘違いしちゃったんだよ。それで、すっかりうろたえちゃったってわけだよ」
なんだか、いいわけのようにも聞こえます。けれど、あながちそうともいえないのです。
なぜなら、彼女が、そう口にするだけの根拠が、事実としてあるからです。
さて、その根拠とは?
それというのも、この村では最近、若い乙女ばかりが襲われるという、そんなもの騒がせな事件が頻繁に起きていたのです。
若い乙女ばかりを狙うとは、なんとも非道で不埒な行為です。
こういう道理にもとる輩には、天網恢恢疎にして漏らさず――ということで、きっと、いずれ、天罰が降ることでしょう。
ただ、あれです。道理で、男勝りを地でいく彼女が、すっかりうろたえていたはずで
す。
ふふ、でも、それってさぁ……。
含み笑いで、彼は思うのです。彼女に気づかれないように、そっと、顔をそむけて。
――たいがい、若い乙女が狙われてるんだ。としたなら、おめえなぞはなから襲われることはねぇってことよ。それに、あれよ。おめえを襲った日にゃ、かえって……。
それを想像しただけでも、背筋がゾッとします。
なんといっても、彼女は気性が激しいことこの上ないのです。そんな彼女を襲うものなら、酸鼻を極める大惨事に見舞われてしまう懸念すらあるのです。
そればかりではありません。
いま、こころの中でつぶやいたことばを、うっかり口走ろうものなら――後難を恐れて、思わず彼はおじけづくのでした。
かといって、そうした気配などおくびにも出さず、彼はさらっとした口調で、改めて、素朴な疑問を彼女にぶつけます。
「けれど、それにしたって、どうしてまたおまえはこんな波打ち際で、にらめっこでもするような格好して身じろぎもせずたたずんでいたんだい?」
「え、ああ……」
だしぬけに桃に目をやり、ひとりごとのように、彼女はつぶやきます。
「だって、これだもの」
それをぼんやりと眺めながら彼女は、力なく首を振ります。
だって、これ? って、どれよ⁈
彼女の眼差しの導線をなぞった彼は一瞬、絶句します。
見ると、途方もなく、大きい桃が――ついぞお目にかかったことのない桃が、波打ち際にたゆたっているのが目に入ったのです。
これでは、彼でなくても思わずことばを失ってしまうことでしょう。
どれぐらい無言でたたずんでいたのか、やっとのことで、彼は口を開きます。それも、ひどくしゃがれた声で――。
「も、桃か?」
「たぶん、そうじゃない」
やや憮然として、彼女はぶっきらぼうに返します。
「へぇ、まこと桃だとしたなら、こりゃ、驚き桃の木なんとやらってやつだなぁ……へへ」
おどけた調子でそういった彼は、ちょっと不謹慎だったかなぁ、とでも思ったのか、改まった口調で、こう継ぎます。
「それにしても、あれだよね。これが、ほんとうに桃だとしたなら、さぞや食いがいがありそうだよね」
女房に劣らず、旦那も食い意地が張っているようです。
だとしたら、あれですね。
似たもの夫婦って、ヤツですね。
つづく