雪の日
からからと玄関の扉が開く音がして、男はそちらを見遣った。
家の鍵を持っているのは男のほかには一人しかいない。
そのもう一人というのが今まさに玄関に突っ立ち、にこにこと笑いながら黒い服の白い斑点を叩き落としている青年である。
「傘はどうした」
「使いませんでした」
青年は男の姿を認めると、殊更嬉々とした表情を浮かべた。
そうして黒い鞄から、やはり黒い傘を取り出した。
別段不幸事があった訳ではない。
それは今朝のこと。
青年より一足早く起きだしてテレビジョンを見ていた男が、今日は珍しく雪が降るかも知れんと青年に告げた。
青年はそうですかと答え、態々黒い服を引っ張り出してきたのだ。
無論、男は青年を窘めたが、青年はにこにこ笑うのみで、男の注意を聞き入れなかったのだ。
「傘は使えと言ったろう」
「怒り、ましたか」
青年はそこで初めて気まずそうな表情を浮かべた。
男は首をかるく横に振った。
「何か事情があったのか」
「ええと」
「黒い服と、傘を差さなかった理由だ」
「いいえ、特別な理由はありません。ただ……」
青年は頬を人差し指で掻きながら言い辛そうに口を閉じた。
男は何も言わずにじっと待った。
青年は漸く一言述べた。
「白く、なりたかったんです」
男は意味が解らないと言いたげな顔をした。
そんな男を見て、青年は恥ずかしそうに俯いた。
「昨年も、雪が降りましたよね」
青年は俯いたまま言った。
男は、昨年雪の積もったのを思い出した。
何の用だったろうか。
二人並んで歩いていたら、雪が降ってきた。
道端で遊んでいた子供達は雪を食べようと躍起になって、魚のように口を開閉したり、跳ねたりしていた。
雪はたちまち積もった。
「貴方の黒い髪に、雪がたくさん付いて。黒い土が、真っ白に染まって……ああ、綺麗だなって思って」
「黒が白くなるのが、か」
「はい」
「だから黒い服を着て行ったのか」
「はい!」
青年はまたもとの笑顔を取り戻して返事した。
男はくつくつと笑いだした。
青年はきょとんとした。
男はいつも無表情で、笑うことなど滅多にしない人であった。
「あの」
「くくっ……」
「笑わないでください」
悄然とした青年に男は慌てて否定した。
「いや、お前のことで笑ったんじゃない。心配していた俺が可笑しくてたまらんのだ」
「心配。私を、ですか」
「ああ、そうだ」
突然全身真っ黒な服を着て行くなど、不可解極まりないではないか。青年は何らかのメッセイジを自分に示しているのではないか。
一人煩悶としていたという男に、青年は益々茫然とした。
「何もなくて本当に良かった」
男は微笑んだ。
「おかえり」
青年は、男の口から初めてその言葉を聞いた。