俺とあの子とおっさんと
――今日こそ、阿納さんに告白する。
誰も居ない放課後の部室。秋晴れの空を透かす窓ガラスに己の姿を映し、本日何度目かの宣言を心の中でする。
彼、折原達也は恋をしていた。お相手は彼が所属する「宇宙開発研究部」に同じく属する、阿納 小鈴。お互い生来異性と気軽に話ができる性質ではなかったが、ここまで一年半、共に部活動を行うことで、そこそこの絆を構築できたと思う。少なくとも、異性の中では一番……いや、仲が良いという分類に属するまでにはなったと自負している。
達也が彼女を意識し始めたのは、ちょうど一年前。文化祭で達也・小鈴の一年ペアが作った発表がなかなかの人気を博し、先輩から褒めてもらったことがある。初めての高校の文化祭、慣れぬ異性との共同作業。とにかくかっこ悪いところは見せられないと張り切ったものが認められ、彼女と顔を見合わせて、柄にもなくハイタッチをしたのだ。その、軽やかな音を立てて触れ合った一瞬、達也には電気が走ったかのようだった。
彼女に触れた手のひらを起点とし、達也の身体を頭の上から足の先まで駆け抜ける電流。あれが何だったのか未だに知ることはできていないが、それ以降彼女の顔を見れば動悸が激しくなり、顔を見なければ今何をしているだろうと考えるようになったのは確かだ。好きな色、照れた時の指を握る癖、ほんの少しのことでも彼女のことを知れると嬉しい。
そうやって想いを重ねながら何度も月と太陽を見送った。そんなある日の帰り道、ああ、自分は彼女のことが好きなのだと、夕暮れ空を見上げて唐突に理解した。恋しい、と自然に口をついて出た。
そこからまた暫くして想いを伝えようと一念発起した夏――から季節は廻り、今は天高く馬肥ゆる秋。
決してその間何もしていなかったわけではない。伝えようと向かい合い、タイミングを見計らい、気配を探り、星の巡りを見、吉兆を見、あらゆるものを見定め続けた結果の今日である。
今日は小鈴と二人きりで文化祭の相談をする予定だ。二人きりの放課後の部室。他に邪魔の入ることがない、告白になんともお誂え向きの状況だ。昨日も同じ状況だったけれど。達也は自らを鼓舞するために、握った拳で自分の胸を叩いた。
それに達也としては、今日だけは逃せないと、そう思っている。これ以上ないくらい真面目な顔で、ガラス越しに秋晴れの空を見上げた。
「遅くなってごめんなさい、掃除当番で――」
決意を固めた達也の背後で引き戸が開けられ、小鈴の柔らかな声がする。
とうとうこの時が来た。動くなら今しかない。行け、達也!と心の中で雄叫びを上げながら振り向く。
「阿納さんっ、突然だけど俺――!」
勢い込んで声を上げながら振り向いたその先。扉の間口に立ったままの小鈴が居た。小鈴のはずである。小鈴以外のはずがない。
「阿納さん……?」
「なぁに? 折原くん」
こてりと小首を傾げる小鈴の肩口で、二つに分けて結ばれた黒髪が揺れる。達也は己の目を強く擦り、また相手を見る。目の前に居る者は紛れもなく小鈴だと思うのだが、なんだろう。半分おっさんに見える。
何を言っているんだとお思いだろうが、そう描写するしかないのだ。小鈴の右半身は、いつもの彼女が目を瞬きながらこちらを見ている。それに対して左半身は、バーコードハゲ、無精ひげ、だらしなく伸びきった白のタンクトップにももひき姿の、今や昭和を描いた映像作品でしかお目にかかれないようなスタンダード・おっさんに見える。そのおっさんが軽く胸に手を置き、少し内股気味に立ち、まさに小鈴が今していそうな左半身ポーズをしている。
一体どういうことだ! 小鈴の左半分がおっさんになってしまった!
達也はあんぐりと顎が抜け落ちんほどに口を開け、彼女を凝視する。そんな不躾な視線を向ける達也に対し、小鈴は多少尻込みする。
「どうしたの?」
「どうしたって、阿納さんがいったいどうしたんだ? おっさんが――」
扉を挟んで向かい合う二人でお互いに狼狽えていると、廊下から小鈴に声がかかる。
「小鈴―! また明日―」
「うん、ばいばーい」
達也の位置からは見えないが、少し離れた廊下の先を彼女の友人が通過したのだろう。小鈴は左足を一歩引いて身体をそちらに向けると、おっさん側が手を振った。これは流石に友人からツッコミが入るだろうと達也は期待したが、予想外にも二人は和やかに声を交わすとそれで終わってしまった。
半分小鈴と半分おっさんがまたこちらへと身体を向ける。
「折原くん、入っていい?」
肩に下げたスクールバックの紐を握り直し、小鈴はおずおずこちらの様子を窺う。達也は慌てて「もちろん」と声を上げ、彼女を部室に招き入れた。バックを置いて定位置に座る半分小鈴半分おっさんを観察する。
先ほどの挨拶をしていた反応からして、恐らく廊下の友人にはおっさんは見えていなかった。少なくともいつも通りの挨拶を交わして終われるくらいには、おかしな所のない小鈴が見えていたのだろう。廊下の人物からは遠くておっさんが見えなかったのではないかという可能性は、恐らくないだろう。なぜなら、小鈴は自分の体に対して左側に挨拶を返していたからだ。今小鈴の左半身はおっさんだ。廊下の左側から彼女の姿を見たとしても、そこには内股のおっさんが立っているとしか見えないだろう。
そう考えると、今彼女の左半身がおっさんに見えているのは達也だけの可能性が高い。彼女自身が変じたのではなく、達也の目の方がおかしいのではないか。
再度強く目を擦ってみる。半分小鈴半分おっさんがバックからノートを出している。
気分転換に炭酸ジュースを飲んでみる。半分小鈴半分おっさんが不思議そうにこちらを見ている。
不思議なものを見せられているのはこちらである。達也は泣きたい思いで後ろを向くと、ひんやりとした窓ガラスに知恵熱を出しそうな頭を押し付けた。
そのままの体勢でうつろに目を開けてはっとする。今小鈴は窓ガラスに向いて立った達也の背後、こちらに正面を向けて座っている。そのガラスには全身がいつもどおりの小鈴百パーセントが映っていた。慌てて本体に目を向けるが、そちらはまだ半分小鈴、半分おっさんだ。そして再度ガラスを見れば小鈴百パーセント。
ガラスには映らないこのおっさんは一体何だというのだろう。達也はぼんやりとガラスに映った小鈴を見ながら考える。 ――そういえば、有名な映画で、幽霊はガラスや鏡に映らないという演出があった。達也はオカルトに明るいという訳ではないので、それが一般的に言われていることなのかはわからないし、これまでの人生でそういった超常現象的なものを見たこともない。
――うん、これは自分の気のせいということにしよう。達也は一つ微笑みを浮かべると、おっさんは見えないことにすると決めた。そんなことよりも、彼女に想いを告げることの方が重要だ。おっさんなんてそのうち見えなくなるだろう。
「ごめん、どうでもいいこと考えてた」
「面白いこと?」
「や、ほんとにどうでもいいことだから」
ばつが悪そうに頭を掻きながら、達也も小鈴の正面に着席する。
この部室は、壁際に宇宙開発関係の雑誌や本が入った小さな棚と向かい合わせに二つ並んだ長机と六脚の折りたたみ椅子、小さなホワイトボード、それらが収まった小さな部屋が全てだ。
宇宙開発研究部は最近まで五名在籍していたが、夏の終わりとともに三人の先輩方が引退し、今や達也と小鈴の二人きりだ。五人が揃うと狭かった部室も、二人きりだと広く感じる。
「それで、ちょっと話したいことがあって」
「なに?」
達也は机の上で握った両手に視線を落としながら、口を開く。震える右手を左手で押さえるが、その左手も震えているのでちっとも収まらなかった。これを小鈴に気づかれてやいないだろうか。
「阿納さん、俺――」
今こそと決心し、顔を上げて――おっさんと目が合い、達也の決心は霧散する。
だめだ。やはりどうしてもおっさんが目に入ると気が散って告白どころではない。
「今年の文化祭でやりたいことって、何か考えてる?」
「え?えっとね――」
がっくりと肩を落としながら、達也は話の方向転換をしてごまかした。
この半分おっさんは、事あるごとに小鈴の左半身がしていそうな動きを一緒にする。半分小鈴がノートを開けば一緒にページをめくり、半分小鈴が笑えば口元に手をやる。瞬きまでする。傍から見ているとおっさんが女子高生の真似をしているようにしか見えず、観察していると段々腹が立ってきた。
「おっさんがよぉ……」
気が付くと恨み節が口から洩れていて、小鈴が聞き返す。達也は慌てて手を振った。
いけないいけない。告白ができないのであれば、せめて部活の話は真面目にやらねば。
この学校は四名から部としての活動を認めており、それ以下の人数は同好会として扱われる。二人だけになってしまった宇宙開発研究部も当然警告を受けており、あと二月の間に四名以上に部員を増やさなければいけない。部から同好会へと降格すれば、予算もこの部室も失ってしまう。そして一番恐れるべきは、「宇宙開発研究部」という寄る辺をなくした時、この二人の関係はそれで終わるだろう、ということだ。元々気まぐれに集まり、宇宙のことを好き勝手に語るだけの部活動だ。それを同好会になってまで続けるとは、残念ながら思えなかった。
一月後に控えた文化祭で、何としても注目を集めて部員を獲得したい。春にスタートダッシュを決め損ね、いまいち楽しい学生生活を送れていない一年生や、あわよくば来年度入学を考えている受験生にも網を放ちたいと考えている。
「私はね、宇宙デブリについて取り上げたいなって思っているの。ほら、前にケスラーシンドロームが起きかけた事件があったでしょ?」
「いいね。確か今は、民間企業がデブリ除去に乗り出そうとしてるよね」
「そう! 実は私、JAXAかそこに就職できたらなぁって思ってて」
極力小鈴の右半身だけに注目するようにして話す。おっさんはどうしても視界に入るが、上手くピントを合わせずにいきたい。
これまで小鈴の半身がおっさんになったとしか言いようがなかったが、達也はとうとう目撃した。二人が文化祭の話で盛り上がり始めた時のことだ。
『へくしょおぉぉい!』
小鈴は二人の話し合いを右手でノートに取っていたが、唐突に左のおっさんの上半身が傾ぎ、大きな口でくしゃみをした。そのあまりの声量に達也は驚いて身を固くする。おっさんがくしゃみをした鼻を左腕で擦ると、それまで全く見えていなかった小鈴の左半身が現れる。彼女の左手は変わらずノートの上に置かれていた。
おっさんは小鈴の左半身からずれたまま、『ちくしょうめ』だか『べらんめぇ』だか言いながら、頭を振って頬を揺らす。おっさんがずれた部分からは正しい小鈴の左半身が見えていて、達也は思わず表情を明るくした。原理はよくわからないが、おっさんが巨大なくしゃみをしたことで、小鈴とおっさんが分離しようとしている。
「よし! このまま離れろ!」
「え?」
またも急にわけのわからないことを口走る達也に、小鈴は眉を顰めた。
『――おい、お前。そこの男子。お前、俺のこと見えてんだろ?』
「は⁉」
「え?」
本当にもう、何がどうなっているのか理解できない。さっきまで小鈴の左半身に徹していたおっさんが、今や彼女の肩辺りから首が生えたような状態で、あろうことか達也に話しかけてきた。
「ど、どうしたの。折原くん」
もはや小鈴は達也に不審な視線を投げかけている。
「ちがう、ちがうんだ。あの、そこの、おっさんが……」
何が違うのかなんて、口走っている本人ですら解らない。
明らかに挙動のおかしい達也をじっと見た小鈴は、一つ硬い笑顔を作ると口を開く。
「――ちょっと、お手洗いに行ってくるね」
そう言って椅子を引くと、まさに「ぬるり」といった様子で椅子に座ったままのおっさんと立ち上がった小鈴が分離した。
「ああ、え、違うんだ。違うんだ……」
机に崩れ落ちる達也とおっさん百パーセントを残し、小鈴百パーセントはスカートを揺らして部室を出て行った。
「あんた、一体何なんだよ。何で阿納さんにくっついてんだよ」
小鈴のいなくなった部室で、達也はおっさんを睨みつける。対しておっさんは嬉しそうに眉を上げた。
『おっ、やっぱり見えてたんかぁ。いやなに、暇すぎたんでその辺を歩いてた女子に重なって同じ動きをする遊びをな』
「ふざけんなよ!」
相手が何だかよくわからないが、暇だからってすることではないだろう。果たしてそれは遊びなのか。小鈴に変な下心があって付きまとっていたのではないか。気が付けば頭に血が上って机を叩いていた。
『いやー本当にやることがないんだよ。誰も俺のこと見えねぇし、声も聞こえねぇときた』
「はぁ⁉ あ、あんた、一体何なんだよ⁉」
『俺か? あー…幽霊ってやつだよ。多分な』
――ああ。ずっと考えていたことを本人から申告されてしまった。
『部屋で酒飲んでた筈なんだけどなぁ。急に胸が苦しくなったと思って、気が付いたらこの状態よ。そこからはずっとあてもなくフラフラと……あっっ、まさかこれが浮遊霊ってやつか⁉ なぁ⁉』
「知らん!」
つまり何だ。この男はあてもなくフラフラしてたところを、通りがかった無辜の小鈴に取り憑いたということか。達也は怒りで自身が震えるのを感じた。
「い、今すぐ阿納さんから離れろ! 阿納さんに取り憑いたって何にもならないだろ!」
「おいおい。別に俺ぁあの子に取り憑いちゃいねぇよ。ただ重なって遊んでただけだ」
「それが取り憑くのとどう違うんだよ! もし……もし、そのせいで阿納さんが不幸になったり、具合を悪くしたりしたら、俺は許さないからな! そうでなくたって、今日は大事な日なんだ、出ていけ!」
達也が勢い込んで立ち上がり語気を強めると、おっさんはその顔をまじまじと見上げてきた。こんな見ず知らずの謎のおっさん幽霊に見つめられても不快なだけである。達也は眉を顰めた。
『お前……さてはさっきの女子に惚れてやがるな?』
「ぬぁっ⁉」
にやにやと笑うおっさんに思わぬ返しをされ、図星を突かれて困惑する。達也はおっさんから顔を背けると、どっかりと大きな音を立ててまた座った。
「なぁ、何を、言って、やがる……」
『おいおい図星かよぉ。大事な日って何だ? まさか告白でもしようとしてたんか?』
そこまで自分はわかりやすいだろうかと、達也はその顔を赤くしたり青くしたりする。
『そんなどもり屋で大丈夫かよ。あの女子にちゃんと伝えられるのか? 何て言うのかは決まってんのか?』
おっさんは青春真っただ中の達也を弄るのが楽しいのか、頬杖を突きながらにやにやと笑う。達也は達也で、何かを言い返したいが何を言えば良いのか全く何も思い浮かばず、口をもごもごと動かす。
『ようし、そんな青少年に百戦錬磨の大人の俺が、手解きしてやろう』
「いっ、いらない!」
『まぁそう照れるなって。大人の言うことは聞いておくもんだぜ?』
「出てけ!」
ふわりと長机の上を横断したおっさんは達也の隣の椅子に腰を下ろし、しっかりと彼の肩に手を置いて笑う。その手には重さも熱も感じなかった。
哀れな達也は、放課後の部室で不審なおっさんの霊に絡まれてしまったのだった。
小鈴は蛇口を捻り、流れていた水を止めた。脇に置いておいたハンカチで手を拭くと、正面の鏡を見て前髪を直す。
――告白されるのかと思った。
先ほどの部室で、急に真面目な顔で小鈴を見つめてきた達也。いつもと違う緊張した様子に、小鈴もまたそれが伝播したかのように身を固くした。
小鈴も達也も、元々異性と気安く話せる性質ではないことは承知している。それでも、同じ部活になってから重ねた年月で、達也は唯一緊張せずに話せる男子となった。
ただし最近は目が合うと落ち着かなくて、ついついすぐ部活の用件を切り出してしまう。部活以外の場で、達也の顔を遠巻きにでも見ることができると嬉しい。いつも後頭部で跳ねている寝ぐせを含め、元気な姿を見られると、それだけで少し心が浮き立つ。
これが恋なのだろうかと小鈴は少女漫画を紐解いてみたこともあるが、今のところそれは役に立っていない。達也の背後に花が咲き誇っていたことはないし、彼自身がキラキラと輝いて見えたこともない。
それに思えば、部活以外の彼のプライベートなことはほとんど知らない。こんな状況で、人は人を好きになるのだろうか。
小鈴は鏡に映った自分の顔を見てため息をつく。
とりたてて華のない顔の作り、頬にあるほくろ、野暮ったい制服の着こなし。どれをとってもクラスのキラキラ女子とは並び立つことすらできない。そもそも同じセーラー服を着ているはずなのに、なぜあのキラキラ女子たちはかっこよく見えるのか、その時点で理解に苦しむ。
もしも、万が一、自分が達也に惚れているとして、こんな自分に想いを寄せられることは相手にとって迷惑以外の何物でもないのではないだろうか。
――ましてや、達也が自分に惚れていて、告白しようとしているだなんて。
そう考えるだけでも烏滸がましいことだ。
ただ、小鈴にはそう考えるだけの心当たりがあった。実は、もしや達也は自分に告白を試みているのではと思ったのは、今日が初めてではない。先輩方が引退した辺りから、何度か彼が自分に対して言い淀むことが増えた。こちらを見て、口を開きかけ、「俺――」と言いかけ、「昨日のニュース見た?」と他愛のないことを話す。とても最初からその話題をしたかったとは思えなかった。
そして未だ、彼の口からその先が紡がれることはない。
――私たちの部活、もうすぐ終わっちゃうかもしれないんだよ。
相手が動くのを待つだけの日々。小鈴は自分の心のうちもわかっておらず、ましてや、わかっていても自分から行動を起こす気にもなれない臆病者の自分が嫌いだ。せめてもう少し自分に自信が持てれば。
スカートのポケットから薄い色付きのリップクリームを取り出して塗る。化粧のことは何もわからないが、これが小鈴の今できる唯一のおしゃれだ。
「……でも、今日の折原くん。いつもより変だよね?」
鏡に映る自分に向かって質問を投げかけると、リップクリームの蓋を閉じて、女子トイレを後にした。
達也の恋路について、何故か前のめりのやる気を見せるおっさんに絡まれた。おっさんは彼にアドバイスすると勢い込んでいるが、そもそもこのおっさんに対する不審な態度を見られ、小鈴はトイレに逃げて行ってしまったのではないだろうか。席を立つ前の硬い笑顔が脳裏に浮かぶ。
「あんたがいることが、すでにマイナスなんだけど」
『まぁまぁ、さっきまでのおふざけは悪かったって。これから心を入れ替えてアドバイスに徹してやるから』
そうは言うが、先ほどまでの女子に重なる暇つぶしが、自分に絡む暇つぶしに移行しただけではないだろうか。
これがテレビの中から抜け出してきたようなイケメンだとか、歌舞伎町でトップを争っていたホストだとかであれば、まだ少しは達也も頼る姿勢を見せただろう。
しかし横目でちらりと右隣の様子を窺えば、おっさんは浮き浮きと自分の少ない頭髪を撫で付けて鼻歌を歌っている。その姿を見ても、とても本人の申告のあった「百戦錬磨」の経験をしているようには見えない。確認したが、左手には結婚指輪のようなものは見えなかった。その代わり鼻毛が一本、左の鼻の穴から出たり入ったりしていた。気が付かなければよかった。
『良いか。あの女子は俺が重なって教室からここに来るまで、お前以外の男子とは一言もしゃべってねぇ。それどころか目も合わせちゃいねぇ。つまり、アイツは奥手な性格だな』
「知ってる」
『わかってるなら何で行動しねぇんだ!』
「うるさい」
おっさんのあまりの五月蠅さに右の耳を塞ごうとしたところ、扉が開いて小鈴が戻ってきた。もうこれ以上不審な姿を見せる訳にはいかない。達也は極力このおっさんのことは気にしないようにしようと決め、椅子に座る姿勢を正した。
「話の途中だったのにごめんね」
小鈴はそそくさと先ほどの席に座ると、またペンを取り上げた。
「折原くんは、何か取り上げたいことはある?」
「そうだなぁ、まず宇宙に関心がない人にもとっつきやすい題材が良いと思うんだよ」
「例えば?」
『男女の恋模様についてだな』
達也はピクリと片眉を動かす。
「――えっと、宇宙飛行士の宇宙生活について、とかどう?」
『恋愛リアリティショーとか流行ってんだろ。あんな感じでな。手始めにその女子の手にお前の手を乗せてみろ。きっと忽ち赤くなる』
「……黙れ」
無視するにはその存在と声が大き過ぎる。達也は耐え切れず、できるだけ小さな声で苦情を漏らした。しかしおっさんにも小鈴にも、その蚊の鳴くような声は何も届いていない。
「良いかも! 身近な生活の違いだったら、わかりやすいもんね」
『ほら、今だ。握れ。そんで柔らかい手だねとかいい匂いがするねとか囁いてやれ』
小鈴との話し合いがまるで頭に入ってこない。達也は引きつった笑顔を浮かべながら小鈴の話に生返事を返す。あとこのおっさんは絶対に百戦錬磨の経験は持っていない。あるとすればキャバクラ嬢とのやりとりだろう。それにしたって引かれる内容だと思うが。
「そ、そう。あえてさ、派手な船外活動のことじゃなくて、ISSのトイレとか、食事とか、そういう身近なことを」
「ふふっ。確かに、お手洗いとか驚いちゃうよね」
『ほらっお前の言葉で笑ってるぞ! たたみかかけるなら今だろ!』
このおっさんは邪魔をしたいとしか思えない。
「そう考えると、私の宇宙デブリの話って、退屈かな?」
小鈴が不安そうに眉を下げ、ペンを置く。
『かーっ! 何で動かねぇんだよ! ほれ、甘ぁい声で囁いてみろって』
いろいろな情報が同時に達也の頭に入ってきて、彼は聊か目を回す。彼はその混沌の中でも、懸命に小鈴の声だけを拾い上げ続けた。
「たっ、退屈じゃない! 初心者の入り口はこっち、それで宇宙に興味を持った人に伝えたいことをこっち、って、やったら……」
『じれってぇ、見本を見せてやるよ。良いか、まずこうやって手を握って――』
おっさんを無視できたのはここまでだった。達也がキャバクラトークを放置していると、焦れたおっさんはあろうことか小鈴の左手に向けて手を伸ばしたのだ。達也は思わず小鈴へ伸びるおっさんの手を上から叩いた。実際はおっさんの手を通り抜けて机の天板を叩いただけだったけれど、思った以上に大きな音が響く。
「ど、どうしたの……?」
音に驚いた小鈴が、脅えたように首を竦める。彼女の表情を見て、達也はすぐ「しくじった」と青褪める。机を叩いた手をそろりと持ち上げると、殊更何事もないかのように笑った。
「あ、ごめん。蚊がいて。はは」
「そうなんだ……?」
「ごめんごめん」と手を引っ込めながら、達也は反対の手で頭を掻く。もうだめだ。こんな状況では告白どころではないではないか。浮かべた笑顔の下では泣きたい思いだ。
『女子の前で大きな音を立てるのは悪手だぜ。気を惹きたいのは解るがな、やり方を考えろよ』
「お前の所為だよ……!」
地の底から湧き出るような低く小さな声で達也は唸る。しかし胡乱な者を見る目をしている小鈴に気づき、慌てて話を戻した。
「ええーっと。トイレと言えばさ、俺この前ISSのトイレの動画見つけたんだ。あれを見てもらうってのはどうかな」
「折原くん、なんでそんな物見てるの? でも、動かない展示だけより興味を持ってもらえそう」
どことなく硬い表情のままだった小鈴がやっと笑ってくれた。トイレの動画を見つけたのは「あなたにおススメ」を流れていった末だったのだが、何でも見ておくものである。
『おい、トイレの動画なんか流して何が面白いんだよ。それよりお前らの実録恋愛リアリティショーをだな――』
「どうせだったらさ!」と、達也はおっさんの声をかき消すようにはっきりと声を上げる。
「他のISSとか船内の日常動画もまとめて、ずっと流しとくとか。イスも用意して、休憩がてら見てもらえるように」
「良いかも! ――あ、それなら、座りながら食べてもらえるように、一口宇宙食セットとか用意しない?」
「賛成! ドライフードなら食品の管理も簡単だし」
達也と小鈴が盛り上がり、文化祭への期待度が上がる。もちろんこの間もおっさんは使えないアドバイスをし続けているが、達也は体を少し左向きにして、上手いことおっさんを意識の外に追い出すことに成功した。
「宇宙デブリの方も、展示としては少し発展版にはなるけど、宇宙の日常に迫る危険――みたいな巻き込み方でさ」
「将来気軽に行けるようになるかもしれない宇宙旅行を阻むゴミ! とか」
――ああ、楽しい。
やはり小鈴とこんな風に話し合うのは楽しいと達也は改めて思う。多少の邪魔は入ったが、今日もこうして二人で楽しく話ができたのだ。これは十分満足ではないだろうか。
こんなに面白そうな文化祭の企画もできつつあるのだから、きっと新入部員も二人くらいなら入るだろう。何もわざわざこの日常を壊しに行くようなことはしなくて良いのではないか。
そう、達也が思った時だった。
『お前、これでいいや、とか思ってないだろうな』
それまでシャットアウトしていたおっさんの声が急にぽんと耳に入ってきて、達也はぎくりと肩を揺らす。
『俺には見えるぜ。お前がこれでいいやとか言って何もしなかった結果は、お互いいつの間にか連絡しなくなって、自然とおさらばだな』
微塵も信用できないこんなおっさんの言葉なのに、腹にずしりとくる衝撃があるのは、それを自分も理解しているからだ。
新入部員が入ればいいが、入らなければそれまで。新入部員が入ったとしても、来年の夏には部活を引退してそれまで。
容易に想像できる未来に、達也は動くことができず息を呑む。
「――今日じゃなくても……」
まるで言い訳するかのように乾いた喉から小さな声を絞り出すが、おっさんはそれを一笑する。達也に向けてどっかりと椅子に横向きに座り、机に頬杖を突く。
『今日じゃなくてもいいや、なら良いのか? 明日でいいかって?』
目の前で小鈴が何かを話しているが、達也の耳には自らの血潮がノイズのように轟き、彼女の声が聞こえない。それでも、おっさんの声は聞こえるという皮肉。
『お前、明日も明後日も、当然のように来ると思ってねぇか?』
ふん、とおっさんが荒い鼻息を立てた。
『俺もそうだと思ってたぜ』
途端、達也は弾かれたようにおっさんの方へ顔を向ける。おっさんは頬杖を突いたまま少し目を伏せ、アンニュイな表情を浮かべていたが、肝心なところで鼻毛がそよいでいる。
達也は複雑な気持ちでその顔を見た。
――昨日も今日も、明日も明後日も。
いつでも伝えられる。そう思っていたが、目の前にそうならなかった人がいる。このおっさんだって、明日は帰りにラーメンを食べようだとか、今日サボってしまった掃除は明日しようだとか、当たり前のように思っていただろう。
それでもその「明日」は来なかった。来なかったうえに、今はやりたかったことを何一つできずに暇を持て余し、その辺の女子に重なって動く遊びをするに至っていた。
『俺には、お前らが明日への希望で輝いているように見える。だからこそ、今やり切ってほしいんだよな』
「なんてな」と小さく笑うおっさんは達也達を見ておらず、その笑いはかつての自分に向けられたものだとわかる。
こんなにもシリアスな空気を醸し出しているのに、いまいち真剣になり切れないのは達也のせいだけではないと思いたい。せめて相手がこのビジュアルでなければ、ほろりと涙を誘う場面であろう。しかし悲しいかな。今目の前にいるのは気鬱な表情をした下着姿の中年男性だ。
「そうだな……」
達也はおっさんから目を逸らすと、誰にともなく呟いた。
彼の言葉を拾い損ねた小鈴が「何?」と顔を上げる。その眼差しがあまりにもまっすぐに目の前の相手を見てくるので、達也もまた、彼女の目を見つめ返した。
「どうしたの?」
見つめあう形になった彼女は少し頬を赤くして、瞬きをした。
「――いや、なんかその、明日でもいいやって思ってることほど、今日やるべきなのかもなって……唐突に思って」
「――……そう、そうだね。めんどくさいことって、後回しにしがちだもんね。結局明日の自分がやるのに」
本当に急な話題を持ち出したにも関わらず、小鈴は達也の言葉に耳を傾け、笑顔を向けてくれた。笑った時に困ったように眉尻が下がるのを見て、改めて、好きだと思う。
達也は薄く口を開け、また言葉を飲み込んだ。代わりに「だよね」と曖昧に笑って誤魔化す。果たして誤魔化したのは何に対してだったのだろうか。
『――なぁ』
後ろめたさもあり、その瞬間に挟まってきたおっさんの声に達也はぴくりと肩を揺らす。俺はまたこんなおっさんにまで呆れられるのかと、溜息まじりに横目でおっさんの様子を窺う。
覗き見たおっさんは、意外にも感情を感じさせない表情で達也を見ていた。頬の弛みが頬杖で引っ張られている。
無表情のまま、おっさんはもう一度『いいなぁ』と言った。達也はおっさんの意を図りかねて軽く眉を寄せる。
『お前、いいなぁ』
そう呟くと、おっさんは達也をまっすぐに見たままのそりと椅子から立ち上がった。
『どうしてお前には明日が来るんだ?』
感情を載せないまま、達也の横顔を見続けるおっさん。心なしか彼が居る右側面から冷気が漂ってくるように感じる。達也は相手から逃げるように顔を左側に背けた。
『俺には明日は来ねぇのに』
おっさんから逃げるために左側を向いたというのに、その先には大きく上半身を倒して達也を覗き込むおっさんの顔があった。その、光を反射しない、濁った眼を間近で見て達也は肌が粟立つのを感じる。
『なぁ、お前の身体くれよ』
おっさんの毛深い右手が達也に伸ばされる。先ほど小鈴に伸ばされた冗談交じりの軽い動きではない。それは相手を捕まえるための動きだった。
正面では小鈴が何か声をかけてきているが、その声も水の膜を通したようで、どこか遠くに聞こえる。達也は動くこともできずに、伸びてくるおっさんの手を凝視していた。
『心配すんな。お前の心残りだろうことは、俺がその女子に伝えてやる』
その言葉を聞いた瞬間、達也の喉は一気に解放されたように言葉を放った。
「おっ俺が伝えたいことは、俺が伝える! 俺が阿納さんを好きなんだから!」
びりびりと空間を揺らすかのごとき大声の余韻を残し、場はしんと静まり返る。おっさんも、小鈴も、達也も、この場に存在する誰もが動きを止めていた。
――今自分は何を口走ったのだろうか。
一瞬にして沸騰した血が、今度は引いていくのを感じる。自分はまだ生きている?
この場でまず動き出したのは、意外にも小鈴だった。
「え? え? 折原くん、いま……?」
真っ赤になった小鈴は、達也の突然の絶叫に気が動転しているようだ。当たり前だろう、絶叫した本人も混乱の最中なのだから。
小鈴の声にやっと達也は我に返り、今度は唐突に立ち上がった。
「ごめん俺トイレ! 今のは聞かなかったことに!」
一方的に言い放つと目を丸くしている小鈴を置いて、部室の扉に駆け寄る。慌てながら扉を開けると、部室を出る前に少しだけ振り返った。
「あとこれも聞かなかったことにして――おっさんはついてこい!」
小鈴にとって意味不明な言葉を残し、大きな足音を立てて達也は部室を離れた。
達也は部室棟の外階段まで来ると、やっと足を止めた。ここは教室棟と連結している渡り廊下とは真反対に位置し、風通しが良い割に日当たりも悪いので今の時期滅多に人が来ることはない。校舎内に声が響くこともなく、幽霊とタイマンするにはもってこいの場所だろう。
乱れに乱れた呼吸をなんとか整えつつ、達也は背後を睨み付けながら振り向いた。
「――いったい何のつもりだ」
振り向いた先には、しっかり達也のあとをついてきたおっさんがいた。今のおっさんには先ほどまでの暗い雰囲気はなく、呑気に鼻毛を出したりひっこめたりしている。
『驚いただろ?』
達也の慌てようを見たおっさんは腹を抱えてけたけたと笑う。
「はぁ⁉ 芝居だったのかよ⁉」
『いやいや。全部が全部芝居って訳じゃねえが』
達也は歯を剥き出さんばかりに威嚇の唸り声をあげているが、このおっさんにはどこ吹く風である。
『何かなぁ。明日への希望を持ってばたばたしてるお前を見てたら、羨ましくなってなぁ』
おっさんの言葉に、思わず達也はうなり声を止める。相手の瞳はどこか遠くを見ていた。
『羨ましいって思ったら、それしか考えられなくなって――……気が付いたらお前がビビり散らかしてたから、このまま発破かけてやろうと思ってな』
明るく笑うおっさんを見て、達也は寒気を覚えた。彼は達也の肩をたたきながら笑っているが、その衝撃も温度も感じない。しかしこの手は先ほど達也の身体を狙っていたのだ。達也は何も言わずに一歩後ろへと下がった。
距離をとったうえで、改めておっさんを見る。今は初めのただ迷惑なだけの中年男性幽霊に戻っており、あの昏い目も、冷気も感じない。相手のそよぐ鼻毛を見て、脱力した達也はその場に蹲った。
「ああーっ! ふざけんな……何してくれてんだよ。お前の所為で俺が何をやらかしたかわかってんのかよぉぉ!」
『お前の魂の叫び、校舎中に響き渡ってたぜ!』
「あんなのドン引きだろうがよぉぉぉ!」
達也は外階段の踊り場で再びソウルシャウトを響かせる。頭を抱え込んで悶える様は、哀れ以外の何ものでもない。しかし涙を誘う達也を見下ろすおっさんは、空中で半回転しつつ腹を捩って笑っていた。
おっさんの笑い声に追い打ちをかけられながら、達也は失意のズンドコで優しい絶望の風に頬を撫でられる。眦に光るものは気のせいではないだろう。砂埃に汚れた階段を眺めながら、魂までも吐き出してしまうのではないかという、長い、長い溜息を吐いた。
その溜息が耳に届いたのか、おっさんはやっと笑うのをやめて達也を見た。彼の丸まった背中に向かって、一つ溜息を吐く。
『……そう捨て鉢になるこたぁねえと思うぞ。さっきのあの女子の反応な、驚いてはいたが、嫌な顔はしてなかった』
おっさんの慰めに、達也はちらりと視線をやってから、また足元へと戻す。
「……信用できない」
『なんでだよ!』
むしろこの期に及んで自分が信用されると思っていることが驚きだ。
『わからぁ! 俺が生前どんだけ嫌な顔をされてきたと思ってんだ。その筋のことなら一家言あるぜ!』
こんな段階で悲しい事実を明かさないでほしい。そしてやはりそんな人物は恋愛について百戦錬磨ではないだろう。達也は閉じた口を引き攣らせた。
焦って悲しい事実を重ねてくるおっさんの顔を見るとなんだか気が抜けてしまった。達也はぼんやりと空を見上げる。橙色に染まり始めた空には、ぽつりぽつりと離れ小島のように雲が浮かんでいる。
「もういいよ……」そう独り言ちると、おっさんは不思議そうな顔をした。
「どうせ、言おうと決めたことだったんだ」
『お前……』
達也が顔を向ければ、おっさんはいたく感じ入った様子で打ち震えていた。おっさんに向かって、悟ったように落ち着いた達也は微笑む。
「きっと、あんたがいてくれたから――」
『お前成長したな! さっきまでうじうじうだうだして好きな女子に何も言えず、ヒンヒン泣きべそかいてたのによぉ!』
滲んだ涙も浮かべた笑顔も、今の言葉で忽ちのうちに引っ込んだ。
『俺がここまで育てたのかと思うと、感動も一入だぁなぁ!』
達也は涙を拭うように腕をあててオーバーな泣き真似をしている中年男性を前に、また声を荒げる。
「あんたに育てられた覚えはないっ! そ、それにさっきの、あんな、どさくさ紛れのっ、ロマンも何もない告白なんて俺は不本意なんだっ!」
『そうかそうか』
「俺は、ちゃ、ちゃんと阿納さんに伝えるからな!」
『そうかそうか』
『期待しているぞ』となおも泣き真似を続けるおっさんと、顔を真っ赤にして叫ぶ達也。
なにやら変な縁が結ばれてしまったものだ。達也は肩で息をしながら自分を落ち着かせる。
乱れたバーコード禿げの頭頂部を見ながら、今更ながらに思った。このおっさんはなぜ幽霊になってしまったのだろうかと。幽霊になってまで、何かやり残したことがあるのかと。
「――今も、羨ましいか? 身体が欲しいとか、思う?」
そして、気がついたら口に出していた。
達也の問いに泣き真似をやめたおっさんは、きょとんとした顔でこちらを見る。そして何でもないというふうに首を横に振った。
『いや、全然』
「え……」
予想外の答えに達也もまた目を丸くする。おっさんは照れたように乱れた髪を直しながら言った。
『いいなぁとは思うぜ? ただ、お前になりてぇとは思わん。それはお前の明日であって、俺の明日じゃねえからな』
「おっさん……」
『それより今は、早く次の俺を始めてぇな。だって次はよ、傾国の美女か絶世のイケメンに生まれるかもしれねぇだろ?』
おっさんは弛んだわがままボディの腹を突き出し、空中でポーズを取った。それはあまりにも滑稽で、不思議な愛しさを感じるほどに間抜けな絵面で。達也は思わず笑った。達也が笑うと、つられておっさんも笑った。
二人して笑っていると、急におっさんが弾かれたように空を――天を見上げた。
「どうした?」
『なんか……上に行けそうかもしれん。今までどうしても上へ行く方法がわからなかったんだが、急に行けそうな気がしてきた』
おっさんは自分の腕を振り回しながら鼻息を荒くするのを見て、達也は立ち上がった。
「成仏できそうってことか?」
『わからん。わからんが、めちゃくちゃ身体が軽い。どこまでも上がれそうだ』
そう言っている間にもおっさんの身体は少しずつ天へと昇っていく。達也は慌てて声をかけた。
「なぁっ! あんた、何か心残りがあったんだろ。俺で良ければ聞くし、伝言があれば伝えるよ」
達也へと視線を向けたおっさんは、ふっと不敵に笑う。天へと近づいていくと共に、おっさんの身体が空に溶けるように透けていく。
『とっくにみんなもう死んじまってるよ。それよりも、お前がちゃんと告白できるかの方が気になるくらいだ』
ぐっと息を詰まらせたあと、両の手に拳を握り、達也は口を開く。
「ちゃんと伝える。心配無用」
『おう。なら大丈夫だ』
にっかりと歯抜けの笑顔で笑ったおっさんの鼻では、鼻毛も気持ちよさそうに風に吹かれていた。だんだんと遠くなって透けているのに、それだけは不思議と見て取れた。
「だいぶ迷惑だったけど、ありがとう、おっさん」
達也が笑顔を浮かべると、橙色の秋の空におっさんは溶けて消えていった。感動的な場面のはずなのに、最後まで間抜けな幽霊だった。
しばらくぼんやりと暮れ行く空を見上げていたが、腕時計が小さな電子音を鳴らし、達也ははっと我に返った。
「やばい!」
達也は来た時と同じように、また大きな足音を立てながら部室へと走った。
「待たせてごめん!」
慌てて部室の扉を乱暴に開けると、そこには出て行った時と同じように椅子に座る小鈴がいた。気のせいか彼女の髪やスカートが乱れているような気がする。まるで暴れたあとのようだ。
「うん、ううん、あ? ぜ、全然……?」
小鈴は自身の髪を撫でつけながら開いていたノートに顔を隠す。達也は相手が怒っていないことに胸を撫でおろすと、扉を閉めてそそくさと窓際へと向かう。小鈴の横を通る時に、彼女が身を固くしたのが見えた。
「その……」
「うん……」
お互いが意識しあっていて、どちらも俯いている。
――このままじゃ、俺の望む明日は来ない。
達也は何度か手を握っては開くを繰り返すと、徐に窓を開けた。涼しい秋の風が入ってくる。
「阿納さん、もうすぐだよ」
達也が見上げた空はすっかりと藍色に染まり、端に橙色が残るばかりだ。
「え……?」
首を傾げながらも、赤い顔をした小鈴が窓際に寄って来る。達也と一歩分の距離を開けて、並んで空を見上げた。
達也は腕時計を確認すると、口を開く。
「十七時四十五分、南西から」
「あっ」
その言葉を聞いて小鈴も合点がいったのか、明るい顔をして窓から顔を出した。
「来た――!」
二人が重ねた声と視線の先、遠くのビルの陰から飛び出すように光の粒が現れた。それはゆっくりと音もなく弧を描いて空を昇っていく。
ISS――国際宇宙ステーション。
達也が告白するなら今日だ、と決めたのは、これがあったからだ。この部活に入ってから、達也は幾度となく小鈴の隣でISSを見上げた。もう何度見たかもわからないけれど、それでも二人は飽きもせずに目を輝かせて光の粒を追ってきた。
二分くらいは経っただろうか。達也は横目で小鈴を見る。
「今日は角度も高くてよく見えるね」
目を輝かせて空を見上げる彼女の横顔に、心筋が引き攣るようだ。達也は気づかれないように静かに深呼吸をして、そしてゆっくりと口を開けた。
「阿納さん――」
「なに?」
呼ばれて振り向いた彼女は達也の赤い顔に気づき、自身もまた頬を赤くする。
「俺、君のこと、好きなんだ――」
橙色から藍色へのグラデーションの空。二人の頭上には、まるで一番星のように光の粒が輝いていた。




