後日談「勇者の後悔」——カイル視点——
あの日から、三ヶ月が経った。
カイル=ヴァンガードは、王都の外れにある古い宿の一室で目を覚ました。かつて使っていた王城近くの豪奢な宿舎ではない。窓枠が歪んで隙間風が入り込む、一泊銅貨三枚の安宿だ。天井の染みを眺めながら、カイルはゆっくりと起き上がった。体は動く。飯も食える。剣の腕だって、並の騎士には負けない。しかしそれだけだった。それだけの、ただの人間だった。
神殿での一件から数日後、国王は勇者の称号返還を命じた。正確には「加護の名義人でない者に勇者の称号を与え続けることは神殿との協定に反する」という、重臣たちが用意した丁寧な言い回しで告げられた。カイルはそれを、謁見室でただ聞いていた。反論する言葉がなかった。事実だったから。
マリスはあの後、神殿の記録が全て公開されると同時に副官の職を辞した。最後にカイルに「私の判断が間違っていました」と言い、深く頭を下げた。その声が震えていたかどうか、カイルは覚えていない。ただ、その場で自分は何も言えなかったことだけ、今でも覚えている。
今のカイルには、所属するパーティも、国からの支援も、勇者の肩書きもない。剣一本と、三年間で身につけた体術と、わずかな路銀だけがある。それで食っていくために、今は冒険者として依頼をこなしていた。魔物の討伐、荷物の護衛、迷子の家畜の捜索。以前なら見向きもしなかった仕事を、一つひとつこなしている。
その日の朝、カイルは依頼の掲示板の前に立っていた。
冒険者組合の建物は、王都の中でも庶民が多く集まる区画にある。板に貼り出された羊皮紙の依頼票を眺めながら、今日はどれを取るかを考えていた。慣れてきたとはいえ、まだ選ぶのに時間がかかる。神力のない自分が単独でこなせる難易度と、報酬の釣り合いを見極める必要があった。
「あんた、最近よく見るな」
隣に立っていた男が話しかけてきた。がっしりとした体格の、四十がらみの冒険者だ。顔に古い傷跡がある。
「そうか」
とカイルは短く答えた。
「元は何かやってたのか。構え方が素人じゃない」
「剣士だ。昔は」
「ふうん」
と男は興味なさそうに言って、依頼票を一枚剥がして去っていった。
昔は、という言葉が口から出るのに、三ヶ月かかった。最初の一ヶ月は、まだ「俺は勇者だ」という意識が抜けなかった。力はなくても、自分が特別であるという感覚が、簡単には剥がれなかった。それが少しずつ薄れていったのは、日々の仕事の中で何度も実感したからだ。自分はただの剣士だ。強くも弱くもない、どこにでもいる剣士だ。
依頼票を一枚選んで、カイルは組合の受付へ向かった。
依頼をこなして宿に戻る夕方、カイルは市場の端にある広場を通りかかった。そこで人だかりができているのに気づいた。何事かと思って近づくと、人々の視線の先に、神官の白衣を着た若い女性が立っていた。銀髪の、口元をへの字に曲げた、どこか不愛想な顔の女だ。
シア=オラクルだった。
彼女は広場の中央に置かれた台の上に立ち、周囲に集まった人々に何かを説明していた。手に古文書を抱えたまま、淡々とした口調で話している。「神言語の研究に関する公開講座です。参加は無料ですが、うるさい方はお断りします」という看板が台の脇に立てかけてあった。
カイルは人だかりの端に立ち止まった。立ち去るべきだと思ったが、足が動かなかった。シアはカイルに気づいた様子もなく、淡々と話を続けていた。
「神と人間の契約というものは、一方的な祈願ではなく、双方向の対話として成立します。神が返答しないように見えるのは、返答を受け取れる側の能力が足りないか、あるいは正しい言語で語りかけていないかのどちらかです」
話を聞いていた市民の一人が手を挙げた。
「つまり、勇者の加護がなくなったのも、神様との会話が途切れたから、ということですか」
「正確には、代わりに会話していた人物がいなくなったからです」
とシアは答えた。
「その人物は今もどこかにいるのですか」
「います」
「今も神と契約しているのですか」
「しています。毎朝、自分のために祈っています。それだけで十分だそうです」
カイルは黙って聞いていた。
毎朝、自分のために。その言葉が、妙に刺さった。三年間、レインは毎朝誰かのために祈り続けた。カイルのために、命を削って膝をついた。それを「祈りごっこ」と呼んで追い払ったのは、自分だ。そしてレインは今、初めて自分のために祈っている。それを「それだけで十分だ」と言っている。
その夜、カイルは宿の窓から夜空を見上げながら、三年前のことを考えた。
パーティが結成された最初の日、神殿の司祭からレインが「祈りの代行者」として紹介された時、カイルは正直に言えば、よく聞いていなかった。「後衛サポート要員です」という説明の部分だけ聞いて、細かい役割には興味を持たなかった。自分が強ければいい、それだけだった。レインが毎朝どこへ行っているかも、気にしたことがなかった。朝に姿がなくて、朝食の時間に疲れた顔で戻ってくることは知っていたが、それが何を意味するのかを考えたことがなかった。
考えようとしなかっただけかもしれない。知れば、都合が悪くなることを、どこかで感じていたのかもしれない。
カイルは右手を見た。神力の紋章はない。ただの手だ。しかしこの手で三年間、剣を振り、魔物を倒し、民衆から喝采を受けた。その全ての根底に、地下祭壇でひとり膝をついていた男がいたのだと、今は知っている。知っていて、取り戻す方法がない。
翌朝、カイルはいつもより早く起きた。
理由は自分でもよくわからなかった。ただ、夜明け前に目が覚めて、眠れなくて、外に出た。王都の石畳を歩いて、気づけば神殿の前に立っていた。称号を返還してから初めて来た場所だった。扉は開いていた。中に入ると、早朝の神殿は静かで、蝋燭の光だけが揺れていた。
カイルは祭壇の前に立った。どうすればいいか、よくわからなかった。三年間、神力は与えられるものだと思っていた。自分が求めれば、神は応えてくれると思っていた。実際にはその「求める行為」すら、別の誰かが代わりにやっていたのだが。
膝をついてみた。ぎこちなかった。慣れていない動作で、床の硬さがすぐに膝に伝わってきた。レインは三年間、毎朝これをやっていたのだ。日が出るまで、ずっと。カイルは五分もしないうちに、足が痺れてきた。
「何をしているんですか」
声がして振り返ると、シアが祭壇の脇に立っていた。早朝の神殿に現れるとは思わなかったので、カイルは少し驚いた。シアの方は驚いた様子もなく、古文書を小脇に抱えてカイルを見下ろしていた。
「神殿の資料を借りに来たら、あなたがいたので」
と彼女は言った。
「邪魔をしたなら」
「別に」
「……祈り方が、わからない」
言ってから、カイルは自分でも意外だった。そんなことを口にするつもりはなかった。しかしシアは表情を変えず、
「そうですか」
とだけ言って、隣に腰を下ろした。
「神殿で教えている基礎的な祈祷様式ならあります。ただし」
と彼女は続けた。
「神力が戻るかどうかは保証しません。むしろ戻らないと思ってください」
「わかってる」
「本当に?」
「わかってる」
シアはしばらくカイルを見た。それから古文書を開いて、基礎的な神への語りかけの作法を示した。かつてのカイルなら見向きもしなかった、地味で、華がなく、ただ丁寧に神と向き合うだけの作法だ。
「毎朝やるんですか、これを」
「やる気があるなら」
「レインは三年間やったんだろう」
「そうです」
「どれくらいで何かが変わる」
「さあ」
とシアは言った。
「私は神ではないので知りません。でも」
と彼女は少し間を置いた。
「レインは最初の一日から、ちゃんと神に届いていたそうです。本人は気づいていなかっただけで」
「俺には届かないかもしれない」
「そうかもしれません」
「それでもやる意味があると思うか」
シアは少し考えた。カイルの問いに対して、すぐに答えないのがこの女の癖らしかった。
「意味があるかどうかは、やってみた人間にしかわからないと思います。あなたが三年間、レインの祈りに乗っかって戦っていた時、レインに意味があったかどうかを考えたことはありましたか」
「……なかった」
「では今初めて考えているわけですから、それは前進でしょう」
素っ気ない言い方だったが、否定はされなかった。カイルはもう一度、祭壇に向き直った。ぎこちなく、慣れない姿勢で、膝をついた。神への言葉が出てくるまでに、しばらくかかった。
その間、シアは隣で古文書を読んでいた。何も言わなかった。急かさなかった。ただそこにいた。それがなぜか、少しだけ助かった。
夜明けの光が、神殿の窓から差し込んできた頃、カイルはようやく口を開いた。神への言葉は、ひどく短く、不格好で、うまくまとまっていなかった。しかし言えた。自分の言葉で、自分のために、初めて神に向かって話しかけた。
何かが変わったわけではなかった。神力は戻らなかった。紋章も光らなかった。ただ、膝をついた床の冷たさと、夜明けの光の温かさだけがあった。それがレインの三年間の、ほんの入口にも満たない一かけらだと、カイルは思った。
謝れるものなら謝りたい、と思う。しかしレインは今、王都にいない。どこにいるかも知らない。シアは知っているかもしれないが、教えてくれるかどうかもわからないし、教えてもらったとして、何を言いに行けばいいのかも、まだわからなかった。
ただ、明日も朝に来ようと思った。それだけだった。それだけのことが、今の自分にできる、最初の一歩だった。




