第四話「もう遅い」
魔王軍の進軍を告げる鐘の音は、王都の端から端まで響き渡った。
市民が家の中に駆け込み、騎士団が門へと走り、商人たちが店の扉を閉める。王都がこれほどの騒ぎになるのは、数年ぶりのことだった。それもそのはずだ。これまでは「勇者がいる」という事実だけで、魔王軍の大部隊が王都に近づくことはなかった。勇者の加護の光は遠くからでも感知できるらしく、魔王軍の将軍クラスは慎重に距離を保っていた。しかし今日は違った。その光が、完全に消えていた。
王城の謁見室では、国王が険しい顔で玉座に座っていた。両脇に並ぶ重臣たちも、一様に顔色が悪い。そしてその中央に、カイルとマリスが立っていた。
「勇者よ」
と国王は言った。低く、静かな声だった。怒鳴られるよりも、その静けさの方が重かった。
「神殿からの報告は受けた。加護の名義が変わっていたこと、その供給が二日前に止まったこと、全て確認した」
「陛下、これは一時的なものです。すぐに取り戻してみせます」
とカイルは言った。しかしその声には、三日前までの確信がなかった。
「どうやって」
と国王は静かに問い返した。カイルは答えられなかった。
マリスが一歩前に出た。
「レイン=アッシュの現在地を探索中です。見つけ次第、説得して——」
「説得」
と国王は繰り返した。
「お前たちは昨日、その者を追放したのではなかったか」
「それは……状況が変わりました」「状況が変わったのではない」
と国王は言った。
「お前たちが状況を知らなかっただけだ。それは全く別のことだ」
マリスは口を閉じた。反論できなかった。国王の言葉は正確で、だからこそ刺さった。窓の外から、また鐘の音が響いた。今度は一段と大きく、近かった。魔王軍の先鋒が、王都の外壁に達したという合図だった。
廃神殿にその鐘の音が届いたのは、ほぼ同時だった。
レインとシアは顔を見合わせた。
「王都の方角ですね」
とシアが言った。
「ああ」
とレインは答えた。二人の間に、短い沈黙が落ちた。レインは立ち上がり、壊れかけた窓枠から外を見た。王都の方向の空に、黒い煙がうっすらと立ち始めていた。
「行くんですか」
とシアが聞いた。責める声でも、引き止める声でもなかった。ただ確認する声だった。
「どう思う」
とレインは聞き返した。
「私は神官見習いだったので、人が死ぬのは嫌いです」
「俺もだ」
「でも、あなたを追放した人たちがいる場所ですよ」
「わかってる」
レインは振り返った。シアの顔を見た。彼女は古文書を胸に抱いたまま、じっとレインを見ていた。その目に、三日前とは違う何かがあった。廃神殿で倒れていた男を無感動に眺めていた目ではなく、何かを信じようとしている目だった。
「一緒に来てくれるか」
とレインは言った。シアは少し間を置いてから、
「荷物を取ってきます」
と答えた。
王都の外壁前に魔王軍の将軍が姿を現したのは、その日の昼過ぎだった。
将軍の名はガルドと言い、魔王軍の中でも上位に位置する実力者だった。黒い甲冑に身を包んだ巨躯は三メートルを超え、その周囲に漂う魔力だけで下級騎士なら気絶するほどの圧があった。
「勇者を出せ」
とガルドは言った。声は低く、しかし城壁の上にいる全員に届くほど大きかった。
「勇者が出てきて俺に勝てるなら、今日は引き返してやる。どうした、勇者はいないのか」
城壁の上で、騎士団長が唇を噛んだ。カイルは城壁の手前で立ち止まったまま、動けなかった。剣は持っている。体も動く。しかし三日前まで当たり前のように使えた神の力が、今の自分にはない。あの将軍を前にして、ただの人間の剣でどうにかなる相手ではないことは、見ればわかった。
「勇者様」
と騎士団長が振り返った。その目が全てを語っていた。お願いです、と。カイルは一歩、前に踏み出そうとした。
その時、城門の外から声がした。
「少し、通してもらえるか」
静かな声だった。怒鳴るでも叫ぶでもなく、ただ普通に話しかけるような声だったのに、なぜかその場にいた全員に届いた。城壁の上の騎士たちが一斉に振り返った。カイルも振り返った。マリスも振り返った。
城門の外に、二人の人間が立っていた。
一人は銀髪の若い女性で、大きな古文書を抱えていた。そしてもう一人は、痩せた青年だった。くすんだ旅装束に身を包んだ、目の下に隈を持つ、どこにでもいそうな顔の男。しかしその背中に、白く輝く紋章が、外から見ても布越しにはっきりと透けて見えていた。
カイルは息を呑んだ。
「レイン……」
とつぶやいた声は、自分でも気づかないほど小さかった。
城門が開いた。レインとシアが中に入ると、周囲の騎士たちが自然に道を開けた。誰かが命令したわけではない。ただ、そうしなければならないという空気があった。レインは真っ直ぐに歩いた。カイルの横を通り過ぎる時、一瞬だけ目が合った。レインは何も言わなかった。表情も変えなかった。ただ、静かに前を向いて歩き続けた。
城壁の上から見下ろしているガルドが、低い声で笑った。
「ほう。面白い気配だ。勇者ではないな。何者だ」
「通りすがりだ」
とレインは答えた。
「通りすがりが、この状況に首を突っ込むか」
「民間人が死ぬのは気分が悪い。それだけだ」
ガルドは少し間を置いた。それから、本気の殺意を込めた魔力を解放した。黒い波のようなそれが地を這い、近くにいた騎士たちが後退した。レインは動かなかった。足元に魔力の波が届いた瞬間、白い光がレインの足元から広がって、それを静かに押し戻した。
ガルドの笑いが止まった。
レインは右手を上げた。昨日の朝、廃神殿で初めて自分のために使った言葉を、もう一度口の中で転がした。今度は声に出さなかった。ただ、神に向かって話しかけた。三年間毎日対話してきた相手に、初めて自分のための頼みごとをした。神よ、力を我に。今日だけでいい。
応答は、即座だった。
右手の紋章が金色に輝き、それが腕から肩へ、肩から全身へと広がった。白い光が、レインの体を包んだ。それは眩しいというより、静かな光だった。夜明け前の空が白んでいくような、あの光に似ていた。三年間、地下祭壇で毎朝見ていた光だ。今日はそれが、自分の体から出ていた。
ガルドが初めて後退した。半歩だけ、しかし確実に。
「何だ、お前は」
「神と契約した者だ」
とレインは言った。
「それ以上の説明は必要か」
必要なかった。
レインが一歩踏み出した瞬間、ガルドが全力の魔力を解放して突進した。黒い魔力の奔流が、真正面からレインに向かった。レインはその場から動かなかった。右手をかざしただけだった。白い光がガルドの魔力を受け止め、そして静かに、押し返した。力と力がぶつかる轟音があり、黒い魔力が霧散し、ガルドが地面に膝をついた。
周囲が静まり返った。
魔王軍の兵たちが、将軍が膝をついた光景を信じられないという顔で見ていた。城壁の上の騎士たちが、声を失っていた。カイルも、マリスも、国王も、その場にいた全員が、レインを見ていた。
ガルドはゆっくりと立ち上がろうとしたが、レインが「今日は帰れ」と言った声が聞こえると、止まった。
「勇者でもない者に、命令される覚えはない」
「俺は勇者ではない。しかし神と契約した者だ。神の名のもとに言う。今日は帰れ。次に来る時は、相応の覚悟を持って来い」
ガルドは長い沈黙の後、立ち上がり、踵を返した。魔王軍の部隊が、静かに撤退していった。
後に残ったのは、呆然とした顔の騎士団と、城門の前に立つレインとシアだった。シアが小さく息を吐いた。
「思ったより呆気なかったですね」
「あいつは賢い。無理をしない判断ができる」
「あなたもでしょう」
「そうかもしれない」
静寂の中で、後ろから足音が近づいてきた。レインは振り返らなくてもわかった。その足音の主が誰かを。
「レイン」
カイルの声だった。三日前とは別人のような、力のない声だった。レインはゆっくりと振り返った。カイルが立っていた。金髪はいつもと同じだが、その目には、これまで一度も見たことのない色があった。
「俺の力を……返してくれ」
レインはカイルを見た。三年間、毎朝あの地下祭壇で思い浮かべていた顔だ。力を与えたいと願い続けた相手の顔だ。今その顔は、怒りでも傲慢でもなく、ただ必死だった。レインは何も感じなかった。いや、正確には、もう怒りを消耗する気持ちがなかった。
「返せるものではない」
とレインは言った。
「神との契約は、俺の名義だ。それをお前に譲渡する方法は、存在しない」
「では神殿に行って、また俺のために——」
「嫌だ」
短く、静かに、レインは言った。カイルが言葉に詰まった。
「それが全てだ」
とレインは続けた。
「三年間の話をしたいなら聞く。しかしその後も答えは変わらない」
マリスが前に出た。三日前と同じ、整った顔に穏やかな微笑みを浮かべていた。
「レイン、あなただって損はないでしょう? 勇者パーティに戻れば、報酬も地位も——」
「あなたは三日前、俺に感謝して去れと言った」
とレインは静かに遮った。マリスの微笑みが、ぴたりと止まった。
「俺の仕事の全てを『祈りごっこ』と呼んだのは、カイルだ。身の丈に合った場所へ行け、と笑顔で言ったのはあなただ。その言葉は今も有効だ。俺はあなたたちの身の丈に合った場所にいる」
マリスは何も言えなかった。その顔から、微笑みが剥がれ落ちた。その下にあったのは、後悔とも動揺ともつかない、ひどく疲れた表情だった。
「私たちが……間違ってたの?」
と彼女はつぶやいた。問いかけというより、独り言のような声だった。レインはそれに答えなかった。答える義務はなかった。
シアが静かに前に出た。抱えていた古文書を開き、国王の方を向いた。
「陛下、神殿の記録石と照合していただきたいものがあります。三年前から現在に至るまでの、勇者の神力供給の記録です。この文書は廃神殿の古い書庫で見つけたもので、神言語の契約様式について記されています。照合すれば、事実関係は全て明らかになります」
国王は無言でうなずいた。重臣の一人が神殿の使者を呼びに走った。
レインはその間、何も言わなかった。弁明もしなかった。糾弾もしなかった。ただ静かに、シアの隣に立っていた。カイルがまだそこにいた。今度は「返せ」とも言わず、ただレインを見ていた。その目が、三年間一度も向けられたことのない目をしていた。
「なぜ、言わなかった」
とカイルはやがて言った。
「祈りのことを。三年間、ずっと」
「言っても信じなかっただろう」
「……そうかもしれない」
「信じたとしても、お前の扱いは変わらなかっただろう」
「それも、そうかもしれない」
カイルは俯いた。金髪が顔にかかった。それきり彼は黙った。謝罪の言葉は出なかった。出し方を知らないのか、出す気がないのかは、レインにはわからなかった。どちらでもよかった。
「行こう」
とレインはシアに言った。
「どこへ」
「王都じゃない、どこかへ」
「漠然としてますね」
「お前が行きたい場所でいい」
「私が決めるんですか」
「任せる」
「……仕方ないですね」
二人は歩き出した。城門に向かって、まっすぐに。カイルが後ろから
「待て、レイン」
と言った。レインは止まらなかった。振り返らなかった。三日前と同じだった。違うのは、今の自分が空っぽではないことだ。三年分の神との対話が、三年分の契約の記録が、背中に白く輝いたまま、自分と一緒にここにある。
「俺が祈り続けた三年間、神は俺の名前を呼んでいた」
とレインは歩きながら、誰に言うともなく言った。
「あなたたちが聞こえなかっただけだ」
城門をくぐった。外の道は、朝よりも明るかった。魔王軍の黒い影が去り、空が広く開けていた。シアが横を歩きながら
「さっきの言葉、かっこよかったですよ」
と言った。
「そうか」
「素直に認めないんですか」
「照れている」
「意外ですね」
二人の足音が、王都の石畳の上で静かに遠ざかっていった。振り返ることは、なかった。




