第三話「神言語の覚醒」
翌朝、レインはまた夜明け前に目が覚めた。
体が習慣を覚えているのだ、と思った。三年間刻み込まれた時計は、祈りをやめた今も同じ時間に自分を起こしてくる。薄暗い廃神殿の床に横たわったまま、レインは天井の穴から見える空を眺めた。まだ星が出ていた。
起き上がる理由が、今はなかった。
それが不思議なほど、当たり前のことだった。祈らなくていい。膝をつかなくていい。誰かの力のために、自分の神力を絞り出さなくていい。レインはそのまま目を閉じ、もう少しだけ横になっていることにした。眠れるかどうかはわからなかったが、それでもよかった。
「起きてるんですか」
シアの声がした。奥の部屋から出てきた彼女は、手に古文書を一冊抱えていた。昨夜は遅くまでそれを読み込んでいたらしく、目の下にうっすらと翳りがあった。
「起きてる」
と答えると、
「ならちょうどいい。昨夜、気になることを見つけた」
と言って、レインの隣に腰を下ろした。
古文書のページを広げる。そこには、見慣れない文字が並んでいた。流れるような曲線と直線が組み合わさった、装飾的でありながら整然とした文字列だ。
「これが神言語の一例です」
とシアは言った。
「神官の学院でも、読める人間はほとんどいない。解読に一生をかける研究者がいるくらいの代物で、話せる人間は記録上、存在しない、だと思う。でも、」
とシアは続けた。
「あなたが昨日口にした祈りの言葉の語尾の音、ここの記述と一致してる」
レインは文字を見た。自分が三年間毎朝唱え続けた言葉が、そこに並んでいると言われても、実感がわかなかった。ただ覚えた言葉を繰り返していただけだ。どこで覚えたかといえば、パーティに加入した最初の日、神殿の司祭から「これを毎日唱えなさい」と紙を渡されたのが始まりだった。
「その紙は今もありますか」
とシアが聞いた。
「捨てた。三年前に全部暗記してから」
「……そうですか」
彼女はしばらく考えるような顔をしてから、
「もう一度、その言葉を口にしてもらえますか。最初から全部」
と言った。
レインは少し迷った。三年間カイルのために唱え続けた言葉を、今更口にする気になれなかった。しかしシアの目が、単なる好奇心ではなく、何か重大なことを確かめようとしている目だったので、レインはゆっくりと口を開いた。
「神よ、力を彼に与えたまえ。今日もその剣が光を帯び、闇を打ち払う力となりますように。加護の火が絶えることなく、明日もまた——」
「止めてください」
シアが鋭い声で遮った。顔が青かった。手にした古文書のページを、小刻みに震える指でなぞりながら、
「あなたが今言った言葉の後半部分、古代神言語で『契約の継続を申し込む』という定型文とほぼ完全に一致してる」
と言った。声が、わずかに上擦っていた。
「契約の継続」
とレインは繰り返した。
「祈りじゃなくて?」
「祈りの言葉と、契約の言語は、音が似てる部分がある。たぶん神殿の司祭が古い文書から引用した時に、気づかずに混在させてしまったんだと思う。でもそれを三年間、毎朝正確に繰り返したら、神には、契約の申し込みとして届く。毎日、三年間」
沈黙が落ちた。
レインは自分が三年間何をしていたのかを、ゆっくりと理解し始めた。毎朝神に語りかけた言葉は、神の側からすれば「契約の更新を申し込む者」の言葉として受け取られていた。そしてその契約は、神力を「カイルに流す」という内容ではなかった。神力を「レインから引き出して使う許可」という内容だったのだ。つまり勇者の力は最初から、レインが神と結んだ契約を通じて供給されていた借り物で——。
「神様は、あなたに返事をしてたと思う」
とシアは静かに言った。
「毎朝、契約の更新を受け入れますという返事を。それがこの紋章です」
彼女はレインの背中を指した。
「神と正式に契約を結んだ者に現れる刻印。あなたの背中にあるのは、三年分の契約更新の記録が積み重なった、たぶん神殿の歴史上で最も分厚い契約の証」
レインは何も言えなかった。怒りがくるかと思ったが、来なかった。ただ、静かに何かが腑に落ちる感覚があった。三年間、自分の中から何かが流れ出ていくあの感覚。神力が絞り出されていくあの熱さ。それは自分が消耗していたのではなく、自分が神と繋がっていた感触だったのだと、今になってわかった。
「一つ、試してもいいですか」
とシアが言った。
「やってみてくれ」
「さっきの言葉を、最後まで言ってみてください。ただし、『彼に』という部分を変えて。あなた自身に、という意味の言葉に置き換えて」
レインは少し考えた。三年間、一度も自分のために使ったことのない言葉だった。
「俺自身に、か」
「そうです」
ゆっくりと、レインは口を開いた。
「神よ、力を我に与えたまえ。今日もその——」
言葉の途中で、何かが変わった。
体の芯から、熱が噴き出した。三年間毎朝感じていた「何かが流れ出ていく」感覚の、完全な逆だった。外へ向かっていた流れが内側へ反転し、全身を満たしていく。右手の甲が光り、紋章が金色に輝いた。シアが息を呑む気配がした。
「言葉を、止めないで」
と彼女が言った。声が震えていた。
レインは続けた。
「その剣が光を帯び、闇を打ち払う力となりますように。加護の火が絶えることなく、明日もまた——」
廃神殿の石壁が、微かに震えた。天井の穴から差し込む朝の光が、突然強くなった。いや、光が変わったのではなく、その光がレインに向かって流れ込んでいるように見えた。シアは古文書を取り落とし、両手で口を覆った。
「止めろ、と言うか」
とレインは聞いた。
「止めないでください」
とシアは答えた。その目が、信じられないものを見ている目になっていた。
祈りが終わった時、廃神殿は静かだった。レインは右手を見た。紋章が、金から白へと変わり、そこに留まっていた。体が軽かった。追放される前と同じ疲弊感はなく、むしろ何かで満たされた感覚があった。三年間空にし続けた器に、初めて水が注がれたような。
「確認させてください」
とシアは言った。声はようやく落ち着きを取り戻していたが、顔はまだ少し上気していた。
「あなたが今使った力、神聖魔法の枠組みで言えば上位術式の何倍もある。神官長クラスの神官が束になっても、今のあなたには届かないと思う」
「それが、三年分の契約の積み重ねということか」
「そうです。そしてもう一つ」
彼女は落とした古文書を拾い上げ、ある一節を指さした。
「神言語で契約を結んだ者は、神に直接命令や交渉ができると書いてある。祈るんじゃなくて、対等に話ができる。神の側も、その契約を無視できない」
レインはその記述を読んだ。短い一節だったが、意味は重かった。
「……つまり、俺は今」
「神と対話できる、おそらく現存する唯一の人間です」
二人の間にまた沈黙が落ちたが、今度は重さが違った。さっきまでの困惑の沈黙ではなく、何か大きなものが動き始める前の、息をひそめるような静けさだった。
その頃、王都では大神官がカイルの前に神殿の記録石を差し出していた。
「大変申し上げにくいのですが」
と大神官は言った。皺の刻まれた顔に、ありありと困惑が浮かんでいた。
「勇者様の加護に関する記録を確認したところ、三年前より神との契約名義が変更されていることがわかりました」
「変更? 誰に」
「……レイン=アッシュという名義に、なっております」
カイルは、一瞬何を言われたかわからなかった。マリスが隣で
「それは、どういう意味ですか」
と硬い声で聞いた。
「つまり」
と大神官は言葉を選びながら続けた。
「勇者様が使っておられた神力は、三年間一貫してレイン殿の名のもとに神から供給されていたものです。勇者様御自身の契約は、三年前の時点で一度——途切れております」
しばらくの間、誰も口をきかなかった。
「……では、俺の力は」
とカイルはようやく言った。
「レイン殿が祈りをやめた時点で、供給が止まったということに、なります」
マリスは石のように固まっていた。カイルの顔から、色が抜けていった。自分が三年間信じて疑わなかったもの——生まれながらの才能、選ばれし者としての力、誰にも奪えない自分だけの神の加護——それが全部、一人の人間が毎朝地下室で膝をついて祈り続けることで成り立っていた借り物だったと、今この瞬間に知った。
「追放したのは、昨日の朝でしたね」
と大神官が静かに確認した。
「……ああ」
「それ以降、レイン殿が祈りを捧げた記録は、どこにもございません」
カイルは何も言えなかった。マリスが
「すぐにレインを探して、戻るよう説得を——」
と言いかけて、止まった。自分がつい昨日、何を言ったかを思い出したのだ。感謝して去れ、と言った。身の丈に合ったところへ行け、と笑顔で言い放った。その言葉が今、鋭利な刃のように自分に返ってきていた。
窓の外で、魔王軍の進軍を告げる鐘の音が鳴り始めた。




