第二話「加護崩壊」
朝の光が窓から差し込み、カイル=ヴァンガードは目を覚ました。
いつもと同じ朝だ。宿舎の天井を見上げ、大きく伸びをする。今日も快晴らしい。遠征から戻って久しぶりにゆっくり眠れた気がした。体の調子はどうだ、と自分に問いかけながら、カイルはゆっくりと起き上がった。
その瞬間、何かがおかしかった。
うまく言葉にできない違和感だった。体が重い、というわけではない。むしろ軽い。軽すぎる。いつもなら体の芯に宿っているはずの熱が、どこにもなかった。神力の流れが、感じられない。毎朝目覚めるたびに確かめていた、あの満ちた感覚が、今日はどこにも見当たらなかった。
「……なんだ、これ」
思わず声が出た。右手に意識を集中して、神聖魔法の基礎術式を起動しようとする。三年間で何千回とこなしてきた動作だ。目を閉じるまでもなく、息を吸えば自然に発動するはずの力だった。
何も起きなかった。
もう一度。今度は意識を強く絞って。呼吸を整えて、神の名を心の中で呼んで——。
何も、起きなかった。
カイルは手のひらを見た。いつもなら淡く金色に輝くはずの紋章が、今日は何の光も放っていない。ただの、人間の手だった。彼は三秒ほど、その手を眺めた。それから、「バグだ」と結論づけた。疲れが溜まっているせいか、あるいは昨夜の睡眠が何かに影響したのか。神殿に行って祈れば、すぐに戻る。そういうものだ。自分は選ばれし勇者なのだから、一時的な乱れなど、すぐに解消される。
マリスに連絡を入れると、彼女はいつも通りの整然とした様子で部屋に現れた。
「おはようございます、勇者様。今日の午前は——」
と予定を口にしかけて、カイルの表情を見て止まった。
「……どうかされましたか」
と、わずかに声のトーンが変わった。
「神力が出ない。一時的なものだとは思うが、念のため神殿へ行く」
「わかりました、すぐに準備を」
とマリスは答えたが、その時すでに、彼女の目の奥には最初の翳りが差していた。レインが追放されたのは昨日の話だ。まさか、と思う気持ちを、マリスはまだ理性で押さえ込んでいた。
神殿に向かう途中で、事態が変わった。
町の東門を出たところで、魔王軍の偵察部隊と鉢合わせた。三体の下級魔物と、その後ろに控える中級の魔物が一体。普段のカイルなら、剣を抜くまでもない相手だ。神力を帯びた拳一発で消し飛ばせる、雑魚の部類に入る。
「どけ」
とカイルは言い、右拳を振り上げた。
神聖魔法、光の拳。三年間で最も多く使ってきた、カイルの代名詞ともいえる技だった。それが、何も起きなかった。ただの人間の拳が空を切り、下級魔物の腕に当たって、はじき返された。
痛みが走った。カイルは三歩後退した。魔物が、明らかに「こいつは普通の人間だ」という品定めをするような目でこちらを見ていた。
「俺は勇者だぞ!」
怒鳴り声が出た。魔物には通じない言葉だ。それでも叫ばずにはいられなかった。マリスが素早く護衛の騎士に合図を送り、騎士たちが前に出て魔物を蹴散らした。カイルは、自分が護衛に守られながら後退するという、生まれて初めての経験をした。
神殿に着いても、状況は変わらなかった。大神官が困惑した顔で何度も祈祷を施したが、カイルの体に神力は戻らなかった。
「加護の記録を確認させてください」
と大神官が言い、神殿の奥へと引っ込んでいった。その間、カイルは待合の椅子に座って、何も言わなかった。マリスも黙っていた。二人の間に、重たい沈黙が落ちていた。
その頃、レインは廃神殿の床に倒れていた。
東の外れにある廃神殿は、百年以上前に信徒が去り、今では誰も使っていない石造りの建物だ。窓の多くは割れ、天井の一部は崩れ、それでも石の壁は頑丈に残っていた。レインはそこにたどり着いた直後、力尽きて床に倒れた。昨夜は気力で歩き続けたが、三年分の疲れが一気に押し寄せてきたようだった。
「……死んでるの、これ」
声がした。
レインは薄く目を開けた。天井の穴から差し込む朝の光の中に、誰かがしゃがみ込んでこちらを覗き込んでいた。若い女性だった。くすんだ銀色の短い髪、神官の白衣を着ているが所々が擦り切れている。口元はへの字に曲がっていて、感情が読みにくい顔をしていた。
「死んでない」
とレインは言った。
「ならよかった」
と女は立ち上がった。
「ここは私の場所なので、出ていくか、そこで静かにしてるかどちらかにしてください」
「……少し休ませてくれ」
「仕方ないですね」
それがシア=オラクルとの出会いだった。
彼女は廃神殿の奥の部屋に住み着いていた。神殿都市の大神殿から追い出された元神官見習いで、今は誰も来ない廃神殿で古い文書を読み漁りながら暮らしているらしかった。愛想はないが、放っておかれれば特に害もない。レインは壁際に背中を預けて、しばらく天井を眺めていた。
「あなた、体中から変な気配がしてる」
しばらくして、シアが言った。古い文書から顔を上げもせずに、ぼそりと告げる声だった。
「変な気配?」
とレインが聞き返すと、
「神力というか、何というか。普通の人間とは違う。でも勇者でもない。見たことのない感じ」
と彼女は答えた。
レインは自分の手を見た。特に何も変わっていないように見える。白くなった指の関節、三年間床に当て続けた膝の皮膚の硬さ。それくらいだ。
「気のせいじゃないか」
と言うと、
「私は神の気配の読み取りだけは得意なので、気のせいではないです」
とシアはぴしゃりと言った。
「……服を少し、めくってもいいですか」
「は?」
「背中を見たい」
不審に思いながらも、レインは上着をずらして背中を見せた。シアが「あ」と短く声を上げた。珍しく、感情が滲んだ声だった。
「何かあったか」
とレインが聞くと、
「背中に紋章が出てる」
と彼女は言った。
「神の紋章。しかも見たことないやつ」
レインは自分では確認できなかったが、シアの表情が、それまでの無関心から明らかに変わっていた。彼女は立ち上がり、奥の棚から分厚い古文書を引っ張り出してきた。ページを素早くめくり、何かを探している。
「これを見てください」
と、開いたページをレインの前に差し出した。
そこに描かれていたのは、神の代理人についての記述だった。神に直接語りかける資格を持つ者、神言語を解する者、神と契約を結ぶ者。何百年もの昔に実在したとされ、しかし記録にしか残っていない、伝説上の存在についての記述だった。
「あなたが祈りを続けた三年間、何を言ってたか覚えてる?」
「勇者への加護の継続を、と」
「具体的に、どんな言葉で」
「神よ、力を彼に与えたまえ、と……それから、彼の剣が——」
「待って」
シアがレインの言葉を遮った。彼女の顔が、かすかに青ざめていた。
「今あなたが言った言葉の一部、古代神言語に近い発音だった。気づいてた?」
「……神言語?」
「普通の人間が使える言語じゃない。神殿で長年学んだ神官でも、読めるかどうかという代物で、話せる人間は理論上存在しないとされてる」
レインには意味がわからなかった。自分はただ、三年間毎朝同じ言葉で祈り続けていただけだ。特別なことは何もしていない。しかしシアは、古文書のページと、レインの背中の紋章とを交互に見比べながら、少しずつ表情を硬くしていった。
「もしかしたら」
と彼女はゆっくり言った。
「あなたが三年間神に話しかけていた言葉、神様には祈りじゃなくて、契約の申し込みとして届いてたのかもしれない」
「契約?」
「そして神様は、毎日それに返事をしてたのかもしれない」
沈黙が落ちた。廃神殿の天井の穴から、風が吹き込んできた。レインは自分の手のひらを、もう一度見た。昨日まで、ただ祈るためだけに使ってきた手だった。何も特別なものは宿っていないと思っていた。
シアが古文書を抱えたまま、改めてレインを見た。その目は、初めて彼を「見ている」目だった。無関心でも品定めでもなく、何か重大なものを目の前にした人間の、緊張した目だ。
「一つ聞いてもいいですか」
と彼女は言った。
「その勇者に、追放されたんですよね」
「そうだ」
「あなたが祈るのをやめたのは、いつ」
「昨日の朝から」
シアはしばらく黙っていた。それから、ため息をついた。
「勇者、今頃どうなってるんでしょうね」
とつぶやくように言った。その声には、同情でも嘲りでもない、ただ淡々とした事実の確認のような色があった。
レインは何も答えなかった。答える必要も、確かめる方法も、今の自分にはなかった。ただ、自分の背中に刻まれたという紋章のことを、じわじわと考え続けていた。三年間、神に届いていたというその言葉が、どんな意味を持っていたのかを。
廃神殿の外で、風が石壁を撫でていった。




