第一話「祈りの代行者」
夜明け前の空は、まだ完全な闇の中にある。
石造りの廊下に響く足音は、レイン一人のものだ。パーティの仲間たちが眠りについてから三時間、彼はすでに起き上がり、宿舎の地下にある小さな祭壇へと向かっていた。手に持った蝋燭の炎が、石壁に刻まれた古い神話の浮き彫りを揺らしながら照らし出す。
地下祭壇の扉を押し開ける。石と埃の匂い。それから、かすかな神力の残り香。昨日の自分が残していった、祈りの痕跡だ。
レインは静かに膝をついた。
両手を組む。目を閉じる。そして、始める。
「神よ、今日も勇者カイル=ヴァンガードに加護を与えたまえ。彼の剣が魔王軍を打ち払い、この地に平和をもたらすことができるよう——」
最初の一言を発した瞬間、体の芯から何かが流れ出ていく感覚があった。これがもう三年間、毎朝続いている。夜明け前の暗闇の中で一人膝をつき、日が昇りきるまで神に祈りを捧げる。それがレイン=アッシュに与えられた役割、「祈りの代行者」という仕事だった。
最初に役割を告げられた時、レインは何も疑わなかった。勇者のパーティに選ばれたのだから、自分にできることを精一杯やる。それだけのことだと思っていた。問題は、三年が経っても誰も、この儀式の本当の意味を理解していなかったことだ。
カイルも、副官のマリスも、他のパーティメンバーも、全員が同じ誤解をしていた。「祈りの代行者」とは、要するに雑用係だ、と。本来なら勇者自身がやるべき礼拝を、代わりにこなしてくれる便利な下僕。それ以上でも以下でもない、と。
一時間が過ぎた。
体の奥から熱が滲み出るように神力が流れていく。両手の指の間が、じわりと痺れてくる。これがいつもの感覚だ。限界まで絞り出して、それでもまだ足りないと神に捧げ続ける、毎朝の作業。
二時間が過ぎた。
床に当たる膝が痛い。背中が丸まってくるのを意識して、また姿勢を正す。目を閉じたまま、ただ祈り続ける。
地下に窓はないが、三年間毎日続けていれば分かる。頭の上のどこか遠いところで、空が白み始めた気配がした。あと少しで夜が明ける。もう少しだ。
日の出と同時に、祈りは完了する。レインは両手をほどき、深く息を吐いた。体の力が抜けて、一瞬ふらつく。石の床に手をついて、それをこらえた。毎朝のことだ。慣れた話だ。これで今日の分は終わった。カイルの加護は、また一日分補充された。
蝋燭の炎を吹き消して立ち上がる。廊下に出ると、遠くの窓から朝の光が薄く差し込んでいた。この光を見るたびに、不思議と少しだけ気持ちが楽になる。今日も終わった。それだけのことでも、十分だと思っていた。
食堂に向かうと、すでにカイルが座っていた。
「おはよう、カイル」
声をかけると、金髪の勇者はちらりと視線を上げたが、すぐにスープに視線を戻した。返事はなかった。
レインはそれを気に留めず、自分の分の朝食を取って隅の席に座った。三年間、だいたいこんな感じだ。カイルはレインに対して最初から素っ気なかった。最初のうちは自分が何か気に障ることをしたのかと思っていたが、どうやら単純に「格下」として見ているだけらしかった。
マリスが食堂に入ってきたのは、それから少しして後だった。
艶やかな黒髪をきれいに整え、白と金の副官の制服をまとった彼女は、食堂に入るなり流れるような所作でカイルの隣に座った。「おはようございます、勇者様」と言う声は、甘く丁寧で、完璧に計算されていた。
「今日の予定を確認させてください。午前中は北の関所で魔物の討伐報告があります。午後は王都への定期連絡を——」
マリスが予定を読み上げる間、カイルは鷹揚にうなずいた。その視線がちらりとレインの方を向いた瞬間、マリスもつられるように視線を向けてきた。彼女は薄く微笑み、そしてすぐカイルへと向き直った。
その一瞬の視線に、レインは何も感じなかった。いや、正確には、すでに慣れすぎていて、感じる神経が鈍くなっていた。三年間、ずっとそういう目で見られてきた。「必要ではあるが、重要ではない」という目だ。
午前の討伐から戻り、昼食を終えた頃、カイルに「後で話がある」と告げられた。
別段、珍しいことではない。パーティの運営について何か変更があるか、あるいはまた役割分担の調整でもあるのだろう。レインはそう思いながら、指定された時間に中庭へ向かった。
カイルはすでにいた。マリスも、他のパーティメンバーも二人、全員がそこにいた。全員が、レインと正面から向き合っていた。
「レイン」
カイルの声は、いつもより少し硬かった。
「お前を、このパーティから外す」
一瞬、言葉の意味が頭の中でうまく処理されなかった。外す。パーティから。自分を。
「……理由を、聞いてもいいか」
声が思ったより平静だったので、自分でも少し驚いた。
「理由?」
カイルは眉をわずかに上げた。
「お前は弱い。それだけだ。後衛で祈りごっこをしてるだけで、実戦で何の役にも立たない。強くなる努力もしない。俺のパーティにお前の居場所はない」
祈りごっこ。その言葉が、静かに胸の奥に刺さった。
三年間、毎朝夜明け前に起き出して、膝をついて、体の芯から神力を絞り出して、日が昇るまで祈り続けた。それが「祈りごっこ」だ、と、この人は言っている。
「それに」
とマリスが口を開いた。穏やかな微笑みはそのままに、
「あなたがいると、功績の配分が複雑になるのよね。正直、邪魔なの。これはあなたのためでもあるのよ? 身の丈に合ったところで、もっと輝けると思う。感謝して、気持ちよく去ってくれると助かるわ」
感謝して去れ。
レインはマリスを見た。それからカイルを見た。他の二人を見た。全員が同じ顔をしていた。自分が正しいことをしているという確信を持った顔だ。一ミリの疑いもない顔。
「——わかった」
レインは言った。
それだけだった。弁明も、反論も、説明も、何もしなかった。三年間の記録を話して聞かせる気にも、なれなかった。話したところで、この人たちには届かないだろうという確信があった。自分の力だと信じて疑わない人間に、「その力は借り物ですよ」と説明しても、怒りを買うだけだ。
レインは一礼して、中庭を出た。
振り返らなかった。振り返れば、三年間が惜しくなる気がしたから。宿舎に戻り、自分の荷物をまとめた。大したものはない。着替えと、少しばかりの路銀と、神殿から渡された古い祈祷書。それだけを鞄に詰めて、宿を出た。
町の外れまで来た時、レインは立ち止まった。
西の空に日が傾き始めている。今日はもう、夕方だ。明日の夜明け前、いつもなら地下祭壇に向かっている時間に、自分はここにはいない。別の場所にいる。それはつまり——。
「明日の朝、俺は祈らない」
声に出してみると、やけに静かな言葉だった。怒りでも悲しみでもなく、ただの事実の確認だ。三年間、一度も欠かしたことのなかった儀式を、明日は行わない。それだけのことだ。カイルには関係のないことだ。彼は選ばれし者なのだから、俺がいなくても強いはずだ。そう信じているのだから。
レインは歩き出した。当てはある。東の廃神殿地区に、身を寄せられるかもしれない古い施設があると、かつて噂で聞いたことがあった。まずはそこへ向かおう。それ以上のことは、まだ何も考えられなかった。
夕日が長い影を地面に伸ばしていた。レインの影が、彼の歩みに合わせて静かに揺れた。
その夜、レインは初めて、夜明け前に目を覚まさなかった。体が覚えていた習慣が、今夜だけは静かに黙っていた。まるで、体自身も、疲れを認めることを許されたように。
朝が来た。
空が白み、鳥が鳴き、世界がまた一日を始めた。
どこか遠くの宿舎の一室で、目を覚ました勇者が、何かがおかしいと気づくまでに、そう長くはかからないだろう。レインはそのことを、もう知らなかった。知る必要も、なかった。
振り返ることなく、ただ前を向いて歩き続けた。




