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第九章 挙式前々夜

 パールの涙の意味がわからなくて、一平は困っていた。

 翌朝もその晩も、パールは以前と変わりなく朝晩のキスをしてくる。その度に舌を差し入れてしまいたくなるのを自覚しつつも、一平は怖くてそうすることができない。

 わんわん泣くパールには慣れていたが、黙ったまま眦から流れる涙は手に負えない。むしろ嫌なら嫌だとはっきり言って欲しい。嫌ではないらしいとは思えるのだが、かといって喜んでいるとも思えなかった。いくら自分の身体が欲しても、パールが望まないのならどんなことでも我慢してしまうのが一平のいいところでもあり、弱みでもあった。


 多忙な中、いよいよ挙式を明後日に控えた二人にフィシスが告げる。

「明日は式前潔斎精進日となっております。姫さまも一平さまも明日一日はキスはおろかお手を触れ合わせることも言葉を交わすことも禁じられております。どうぞご承知おきください」

「え?」

「うそ⁉︎」 

 初めて聞かされるこのしきたりに、二人は目を丸くした。

「キスしちゃいけないの?」

「はい」

「お話もしちゃいけないの?」

「左様でございます」

「朝のご挨拶も?おやすみなさいも?」

「お姿を拝すこともでございます」

 パールの質問にフィシスは努めて平静に答えていく。

「どうして?」


 フィシスの口調から、このしきたりには従わなければならないと感じ取り、パールは尋ねる。納得できないものには従えない。パールの思考回路からすれば当然の発問だった。

「身も心も清らかな乙女でなければ婚礼の祭壇には登れません。男の方にしても同じです。汚れたものを払い落とし、身も心もまっさらに美しくしてこそ、嘘のない誠の契、神聖な婚姻を結ぶことができるのですから」

「パールたちは…汚れているの?」

 パールの質問を聞いて、そんなはずがあるかと一平は思う。パールは誰よりも汚れのない無垢な娘なのにと。

「汚れていようといまいと、潔斎することで、花嫁は清らかなのだと皆に知らしめるのです」

 逆を言えば、愚かな娘を生娘に立てる偽りの儀式である。男の方も同様だ。遊び人であっても潔斎を受けることで、素知らぬ顔で堂々と嫁を貰うことができる。



 とは言え、この二人にはそんな隠蔽の術は必要なかった。その差を縮めるための慣例に過ぎない。

「ふうん⁉︎…」

 わかったようなわからないような説明だ。でもフィシスが真面目くさって言っている。逆らうのは得策ではないとパールも判断する。

 でも一平の顔を見ないで一日過ごすのは嫌だなと思った。

 が、一平の方はちょっとほっとする。会わずにいれば、我慢をしなくて済むかと考えたのだ。目の前にいれば、どうしたって手を出したくなってしまう。かつてのように、一平の行為に目を光らせていてくれたニーナはもういない。

 どこまで自分が辛抱できるかわからない、甚だ不安定な状態に今の一平はいた。 


「しきたりならしょうがないさ。…なに、一日辛抱すればまた会える。その後はいつも一緒なんだし」

 そう言って、一平はパールを慰める。

「せいぜい磨いて、オレを驚かせて欲しいな」

 一平でもやはりお嫁さんは綺麗な方がいいのかな?とパールはちょっと心配になる。

 フィシスにねだった。

「ねえ、パール本当にきれいなお嫁さんになれる?」

「何を仰います。もちろんですとも」

 フィシスがおかしそうに太鼓判を押す。

「ちゃんとやってね、フィシス」

「ご心配なさらずとも大丈夫ですよ、姫さま。一平どのが卒倒するほど美しくして差し上げます」


「花嫁を見間違えない程度にしてもらいたいな。オレはこのままのパールで一向に構わないぞ」

 不安と期待で揺れるパールがいじらしく、一平は口を出す。

 本当にその通りなのだ。変に着飾っておしゃれなカラスみたいになって欲しくはない。極端な話、男にしてみればドレスなど着ていなくたって一向に構わないのだから。

「そうは参りません。男の方は皆そのように仰いますけど、見え見えですわよ」

 年下のくせに口振りが堂々としてきた一平をからかって、フィシスは言った。

「オレは別に…」

 一平は赤くなる。

 パールだけがなぜだかわからない。

「ほほほ…。お伝えすべきことは申し上げました。守っていただきたいのは日付の変わり目の零時(れいとき)から四時(よんとき)までです。といっても、当日のお式前にはどのみちお会いになれるような暇はございませんので、ただいまよりしばらくの間に、心おきなくお二人でお過ごし下さい」

 含みのある言い方をして、フィシスは下がって行った。



「…つまんないね」

 フィシスの姿が見えなくなるとパールが言った。

「明日一日、一平ちゃんのお顔を見てもいけないなんて…」

「寂しいか?」

 愚問だったが聞いてみたかった。

「二人でこのままどっかに隠れちゃいたいな」

 いつもパールは実に嬉しいことを言ってくれる。寂しくないという答えが返ってくるとは思っていなかったが、ここまで言われるとは…。思わず目尻が下がり、鼻の下が伸びる。

 だが、一平は言う。

「そいつはだめだ。この二年間の苦労が水の泡になる」 

 そんなつまらないことで、やっと漕ぎ着けた結婚をふいにしたくはない。一日おとなしくしていれば、晴れて明後日にはパールは一平のものになるのだ。


 嘘でもいいから少しは同意して欲しかったパールは、それを聞いて不服そうに口を尖らせた。

「じゃあ、抱っこして」

 臆面もなく幼児のようなことを言う。

 言っているそばから、もう当然のように一平の身体に絡みつき、抱擁をねだる。

 一平は慌てる。

 晴れて万人が認める婚約者である。何をしようとある程度までは許される間柄だ。にもかかわらず、いまだに一平はパールにドキドキさせられる。寄り添っただけで心臓が跳ね、動悸が激しくなって落ち着かない気分になる。


 パールの方はそんな気分にならないのだろうか?と、一平は疑問に思う。パールが自分を誰より慕ってくれているのは疑う余地がない。しかし、それは本当の恋なのか?パールはひとりの女性として、ひとりの男性としての一平を愛していると言えるのか?初夜の晩に逃げ出されてしまうことになったらどうしよう⁉︎

 婚礼を前にして浮かれた一平は一昨日堪えきれずに一歩踏み出した。そして泣かれた。明後日はそれ以上のことをしようというのだ。待って待って待ち続け、耐えに耐えてきた思いが叶うのは、目と鼻の先に迫っている。


 舞台のお膳立ては着々と進んでいる。

 が、肝腎のパールの心構えができているかどうかはかなり疑わしい。『抱っこして』などと言ってくるような幼稚な娘に手を出せるわけがないではないか。

 これは今のうちにもっと教育しておかないと困ったことになるぞと、今更ながらに冷や汗が出た。今のうちに、などと言ってももう遅い。式の前にパールといられる時間は今夜のみ、もう残すところは就寝時間まで二時間余りしかない。口で言うのは容易いが、そういうものでもないだろう。



 一平は焦った。

 パールはもう当然のように、一平に抱きついて身体を預けてくる。

(…どうすればいい?…)

 パールが望んでいるのは単純に癒される抱擁だ。一平が望んでいることとは違う。

 それは承知していた。

 承知していたが…。

(えい!ままよ…)

 一平はパールをすっぽりとその胸に抱き締めた。

 意外に思ったパールが少し抵抗する。

 大きな手の中に頬を包み込む。

 目を閉じ、ゆっくりとその(かんばせ)を引き寄せる。

 一平が何をしようとしているのか、そのくらいはパールにもわかる。目を閉じて一平の接吻を待った。

 唇が触れる。一度離れて、また触れる。三度目は押し包んだ。

 そして貪る。

 パールが一平の侵入を許す。

 いつまでも離れようとしない。

 狂おしく求め続ける一平の真似をすることをパールは思いついた。おずおずとではあるが、パールは舌を動かした。

 一平が気づいて捕まえる。その感触がパールの胸を切なく締め付ける。


(一平ちゃん…)

 一平の喜びが唇を通して伝わってくる。

(これでいいの?…これで…一平ちゃんは喜んでくれるの?)

 一平を喜ばせたい。彼の思いに応えたい。

 それが今のパールの望みだった。その手段をひとつ、パールは見つけることができてほっとする。

 パールが感じた通り、一平は確かに幸せを感じていた。パールが応えてくれたことに心が打ち震え、満足感を得た。

 だが、ひとつ満ち足りると新たな欲が湧く。

 パールの唇を虜にしたまま、一平の手は下へと降りる。指先で首筋をなぞり、鎖骨に触れた。そのすぐ下には小さな丘がある。

(触りたい…)


 パールは抵抗しない。まるで意識を奪われてしまったかのように一平に捕まっている。

(いいのか?…いいのか?パール?…)

 無抵抗でいることを都合のいいように解釈したい。

 一平は触れていた。遠慮がちに指先を這わせた。

 パールがこんなことまでさせてくれるのが信じられないほど嬉しくて、一平は欲張り続ける。

 唇で触れる。パールがびくっとしてのけぞる…。

 …はずだった…。

 パールの反応がない。

 さすがに訝しく思って一平はパールの顔を見た。

 …パールは眠っていた。


(やっぱり…)

 こんなことじゃないかと思っていたよ、と言いたくなる。

 そのまま続けるという手もあった。これ幸いと、やりたい放題、触り放題にするのも可能だった。

 だが、不幸なことに、一平はそういう軽率な男ではなかった。

 実に、不幸なことに…。

(やっぱりお預けか…)

 これからの新婚生活を暗示しているような気がして不安になった。

 だが、一平の選択肢はひとつしかない。それは眠ってしまったパールを寝台に運ぶことだった。



 控えの間でドレスの手入れをしていたフィシスが気づいた。

 パールの部屋から一平が出てくる。 

 早すぎはしないかと訝しんだ。

 一平の表情は冴えない。

 フィシスははっとした。

(まさか…)

「一平どの⁉︎」

 呼び止められて一平は顔を上げた。

「…お休みになってしまわれましたの?」

 さすがパール付きの侍女である。パールがトリトニアに戻って以来二年、可能な限りの時間をパールと一緒に過ごしてきた。一平ほどではないが、パールの採るであろう行動を推測するのはそう難しいことではないらしい。


 苦笑して答える一平の表情に寂しげな部分を感じ取り、フィシスはため息を吐いた。

「…堪忍してして下さいませね。今日は式の進行やら何やら覚えることが多くて、お疲れだったのでしょう。せっかくご一緒にいられる貴重なお時間でしたのに…」

 気遣ってくれるのはありがたいが、そうまで気を遣ってもらうのも何やら恥ずかしい。一平は返す言葉が見つからない。


「姫さまは…少しはお変わりになられまして?お行儀の方はかなりましになられたと自負しておりますけれど。いつまでも少女のままで…さぞかしご心配でしょう⁉︎」

 何が言いたいのかはすぐに察せられた。パールが人の妻となることに危惧を抱いているのは一平だけではないのだ。

「…もう少し…先に伸ばせるものなら伸ばしてもらいたいと、この頃思います」

 一平とパールの結婚は一平が守人試験に合格した時点で正式に決定した。それに伴って自動的に結婚式の日取りが決まる。就任式と同時に施行されることはトリトニアの恒例行事だった。そして守人試験は突発的に行われる。


 もっと早い時期ならば一平は合格点を取れなかったかもしれないし、逆に焦れったいほどの年月を待たされていたのかもしれない。

 オスカー王から取り付けた結婚の許可は、一平が守人試験に通って初めて下りる。具体的にいつと予定されていたわけではなかった。パールがきちんと成長するまでには少々時間が足りなかったと言わざるを得ない。

 さもあろう。フィシスも一平に同情する。三日前の王女とのやりとりを思い出した。



「一平どの…。姫さまはもうご存知です。赤ん坊の作り方については、私がお教えしておきました」

 一平の様子があまりにも見捨てられた子どものように心細そうで、フィシスは耳打ちする。

 思ってもみなかったフィシスの言葉に一平は呆然となった。

「それがどのような行為なのか、いつ姫さまの身の上に起こるのか、口頭での説明ではありますが、お話ししました」

 一平の顔にカッと血が上る。

「すべて一平どののなさるように任せていれば心配ないと言い聞かせましてございます。少しでも痛かったり、嫌であればすぐ仰るようにと。一平どのは、姫さまの嫌がることは絶対になさらないと断言してしまいました」

 一平は一言も発することができない。恥ずかしいやらありがたいやら、自分の気持ちの整理がつかない。


「どこまで理解して下さったかは私にもわかりません。けれどこれだけは間違いございません。姫さまは一平どのの奥様となられることを一番の幸せと考えていらっしゃいます。心の底から、一平どののお子を生み育てたいと願っておられます。どうか姫さまを…優しくお導きくださいますよう… ふつつかなフィシスからのお願いでございます」

 パールの屈託のない笑顔が思い浮かぶ。一平の名を呼ぶパールの声にはいつも絶対の信頼が込められていた。

 言われるまでもない、と一平は思った。パールの信頼を裏切るようなことは、たとえ自分がどんなに不幸になろうともするつもりはない。

 結婚の時期は外から決められてしまったが、自分たちは自分たちだ。パールが自然に一平を受け入れる気になるまで大切に守っていけるのならそれでいいではないか。心も身体も、無理矢理開かせることはない。


 さっきいいところで睡魔にパールを攫われてしまったのは、あれはあれで必要なことだったのだろう。自然体で行こう。パールのこともだが、自分自身もだ。我慢ができるうちはしよう。オレが欲していることを無理に隠すのもやめよう。拒絶されるかもしれなくても、怖いことではないのだと、おまえがその気になってからで構わないと、パールに告げられるような男になろう。

 フィシスの言葉で一平のもやもやは晴れた。明日一日の潔斎が実のあるものだったと思えるように、万全の準備をして佳き日を迎えよう。そう思った。

「ありがとう、フィシス。感謝します。パールをよろしく。オレからもお願いします」

 今度こそ本当に、一平は立ち去った。


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