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第六章 信心

 確信を持って励ます国王夫妻の元を辞し、一平はパールにこの報告をしに行った。相も変わらず質素な王女の部屋で、二人は隣り合って座っていた。それでもここに初めて足を踏み入れた決意の晩にはなかったものがずいぶんと増え、色味も明るく若い娘の部屋らしく華やかになっている。その大半は当時は幼魚のため必要なかった衣類の数々だが、棚の役割をする岩の窪みには、一平が送った品物をはじめとして、古びたおもちゃや人形など、幼い頃から大切にしていたものが納められている。

 その昔、シェリトリにお見舞いとしてもらったという珊瑚の細工物まであるので、物を大切にするのはいいが、あんな奴に貰ったものまで…と、鼻白みたくもなる。パールにしてみれば、品物に罪はないということで至極当然の対応なのだが。


「本当?思ったより早かったね」

 一週間後に守人選びの儀式が行われると聞き、パールは目を丸くする。

「でもよかったあ。パールがおばあちゃんになっちゃう前で」

 パールがおばあさんになった姿など、一平には想像したくてもできない。苦笑しているとパールは続けた。

「あ、でも、今だとまだお嫁さんのドレスが似合わないかもしれない…」

 成人したとは言え、まだまだ大人の女性というのとは程遠いと、パールは自分で思っていた。だが、一平は太鼓判を押す。

「充分だ。おまえなら立派に着こなせる。それより問題はオレの方だ」

「どうして?一平ちゃんは絶対に大丈夫だよ。守人になれるよ」


 まただ。パールもだった。全く悪意のない単純なだけの言葉も今は矛盾して思える。堪らず彼は言った。

「候補はオレだけではないのだぞ⁉︎」

「だって、一平ちゃんはもう中将でしょう?候補に上がれるのは、もう一人の中将さまと少将さまが四人…。飛び入りがいたとしても十人にはならないよ。きっと一平ちゃんが一番上だよ」

 今の一平はある意味激戦区を勝ち抜いてきたと言ってもよい。しかしいかに優勝候補であろうと勝つ時は勝つ、負ける時は負けるものである。一平の場合は一概には言えないが、競争相手が十人いようと一人であろうと結果はふたつにひとつ、守人になれるかなれないかしかない。五十パーセントの確率でしかないのだ。


 今更のように自信をなくし始めた一平は余程不安げな顔をしていたのだろう。パールはその一平の気持ちの変化を敏感に感じ取った。

 徐に一平の手を取り、自分の目の前で握り締めて彼を見上げた。

「大丈夫。自信持って、一平ちゃん。…一平ちゃんは今までいっぱい努力してきたよ。トリトン神さまはそれをずっと見ていたはずだよ。一平ちゃんの精進をお認めになって、お力を貸してくれてたんだよ。一平ちゃんを守人にするって、トリトン神さまはもう前から決めてたの」

「な…」



 パールの言う意味がわからなかった。まるで以前からトリトン神と知り合いであるかのような、トリトン神と言葉を交わして話を聞いていたかのような口振りだ。

「絶対そうだよ。パールはそう思う」

「え⁉︎」

 またしても面食らった。今の断言は、パール個人の考えを述べただけなのか?

「パールね。訊いたの。ずっと前に。ピピア女神さまに。一平ちゃんは青の剣の守人になれますかって」

「訊いた…って…⁉︎」

「そしたらお答えしてくれたの。パールの夢の中で。『大丈夫ですよ。彼の心は本物の勇者のそれです。愛する者のために何かをしようという気持ちを忘れなければ、守人に相応しい実力を兼ね備えるでしょう』って」


 ピピア女神が答えたという言葉を口にした時、まるで女神がそこで喋っているかのような雰囲気と声音であった。王女として振る舞う時のパールから滲み出る気品よりもさらに高貴で荘厳なオーラが、彼女の身体全体から発されているように一平には思えた。

 パールはまるで意識していないようだ。伝え終えてにこっと微笑む様子は、一平と二人きりでいる時のあどけないパールに他ならなかった。

「大丈夫。ピピア女神さまのお墨付きだもの」

パールの夢は侮れない。それを一平は知っている。だが、本当に単純に、ただの夢である場合も少なくない。


「…夢…なんだろう?そう言われたのは⁉︎」

 そう訊いてみる。

「うん。だけどね。普通はピピア女神さまは夢には出てこないの。出てきてくださる時はパールが本当に困った時…っていうか、パールが知りたくてたまらないことを教えて励ましてくれる時なの。いつもそうなの」

「そんなに…何回もそういう夢を見てるのか?」

「まだ三回か四回くらいだけどね」

 一平は一度もない。トリトン神のこともピピア女神のことも、話に聞くだけで、正直言ってあまり現実感はない。

 トリトニアで生まれ育っていないのだから無理もないが、やはり信心が足りないということなのだろうか。パールに限らず、トリトニアの人々はそうやって守り神と呼ばれる者に夢の中で出会って何かを得ているのだろうか。


 だとしたらますます自分は守人には相応しくないではないか。

 トリトン神が、ピピア女神が、どんな姿をしているのかすら、一平は知らないのだ。

「他の…」

 …人々も皆そうなのか?と訊きかけて一平は口を噤んだ。そうだという答えが返ってきたら、おまえは失格だと最後通牒を突き付けられることになる気がしたからだ。

「ん?」

 パールがなあにと目で訊いてくる。円らな瞳に愛と信頼を湛えて一平の心に踏み込んでくる。



 不意に一平は息苦しくなった。

(そんな目で…オレを見るな、パール…)

(そんな愛くるしい瞳でオレを見つめるな…)

 青い青いパールの瞳。海の深さと空の明るさを合わせ持つ不可思議な目の色。一平を魅了して止まないその眼差し。

 自分だけを見てほしいと幾度となく思った。

 何度も何度も無条件な愛と信頼を込めて注がれてきたその眼差しは、一平の心を温め、安らがせ、時に決意を胸に燃え上がらせ、飽くことなく彼を揺さぶり続けてきた。その瞳から輝きが失せ、少しでも色褪せることのないよう力を尽くし、思いの丈を込め、まっすぐに見つめ返して受け止めてきた。彼女が自分に絶対の信頼をおいて恋しい思いをぶつけてくることに、もう疑う余地はない。


 だがその愛しい愛しい眼差しが、近頃の一平には少々重荷だ。いや、重荷というのは正しい言い方ではない。パール本人曰くいっぱいかけた迷惑は、彼にとって少しも負担ではなかった。嬉しいはずの眼差しを、何故もって重荷だなどと言えようか。パールが幸せそうに微笑み、彼をまっすぐに見つめてくることが、一平にとっても幸せそのものなのだから。

 それでも欲すれば欲するほど辛くなるのはなぜだろう。胸の奥から溢れてくる、パールに向けるこの思いを苦しいと感じるのはなぜだろう。愛しい娘の心を手中にして、幸福の絶頂にあると言っていいのに、矛盾し、相反するこの感情は⁉︎


 ―贅沢なことね。あれほどパールに慕われていながら、まだ不服だと言うの?―

 辛辣な声が一平の脳裏に谺する。

 ―私は死に際にやっとあの子からキスを貰えただけなのに―

 皮肉げな声。

 ―あなたを認めたわけじゃないのよ、私は―

 志半ばにしてこの世を去らなければならなかった無念の声。

 ―たとえトリトン神が認めても、私はあなたを見張るのはやめないわ。パールに少しでも害を為しでもしたら、地獄の底から蘇って共に地獄へ引きずり込んでやるから―

 この世に心残りを残した亡霊の囁き。

 ―あなたは結局、パールをどうやって自分のものにするかしか考えてないのよ。いつだって、あの子を犯したくて堪らないんだわ。汚い男!―

 己の中に潜む悪魔を呼び覚まし、化けの皮を剥ごうと試みる容赦のない指摘。

 死してなお監視―覗き―を続けているのだ。ニーナは。一平の心の中に、その身を宿らせて。



 一平はそう思った。

 突拍子もない考えだったが、自然にそう思えた。それが自分の罪悪感から生じるものだとしても関係なかった。

 ニーナは生きている。一平の心の中に。

 忘れてはならなかった。彼女が命を賭けてパールを愛し、守ったことを。パールに対する愛のあり方を一平に問い、教唆し、 ある意味助言者として考えさせ、導いてくれたことを。

 

 彼女の言うことは真実をついていた。

 他人には覗かれたくない心の闇までも、ニーナは見抜けるかのようだった。

(そう。オレは汚い…)

 真っ白で汚れなく純真なパールのことを、いつだって自分は邪な思いで見てきたのではなかったか。パールを抱き締めたい、口づけたい、その身に己が全てを埋めたいと。

 これを邪と言わずして何と言うのだろう。

 その邪な思いを達成するために、一平は青の剣の守人を目指しているのだ。よりにもよって、トリトン神に認められなければ着任できない聖なる地位を。

 オスカーに焚き付けられたからとは言え、選び取ったのは自分だ。

 こんな不純な動機を持つ人間を、果たしてトリトン神はお認めになるのだろうか?


 男である以上、避けては通れぬ道だった。真っ当な男であれば、誰もが通る道。辿り、乗り越え、後世に伝えるしかない道。 恋しい娘があれほど初心でなければ、一平もこれほど悩みはしなかったろう。そして地上生まれである彼には、トリトニア在住の人々より遥かに性にまつわることに対し罪の意識が高い。

 パールを欲することを、正当化できないのだ。

 ナシアスの言うように当たり前のことなのに。

 自分で作り出したニーナの幻影に、さらに一平は追い詰められていた。



  会場への帳を押し広げると、多くの試験官が居並んでいた。

 見たことのある顔もない顔も、皆一様に厳しい表情をしてこちらを凝視している。そう広くはない部屋のはずなのに、端から端まで並んだ試験官の最後尾ははっきりと見えないほど遠い。それら試験官の一人一人が一平に質問をぶつけてきた。

 設問は一人につき一問。一平はひとりで逐一それに答えていかなければならない。

 問題自体はそれほど難しいものではなく、即答できる範囲のものだ。だが、矢継ぎ早に繰り出されてくるので気持ちを休める間がない。


 きりがない、と一平が思い始めた矢先、唐突に一問一答は終了した。

 次に控えていたのは武術の試験だ。設えられた闘技場に、続々と妖物が送り込まれてくる。何頭仕留められるかで点数がつくらしい。

 妖物退治のエキスパートとも言える一平にとっては手慣れたものなので、難なくこなしていけた。 

 三次の試験は精神の強さを見るものであるらしい。やはり、ただひとりで別室に押し込められた一平に対し、精神攻撃が加えられた。

 どういう仕組みであるのか、一平が嫌なこと、辛いと思うこと、悲しかったことやこうあって欲しくないと思うようなことを、次から次へと幻影を見せて思い出させてくれるのである。


 父との別れ。翼の死。自分が他人と違うことへの疎外感。部活の先輩たちのいじめ。パールを生け贄にしようとしたムラーラのお偉方。横からちょっかいを出してくるナムルやシェリトリやロトー、ガラティス、そしてニーナ。彼女(ニーナ)を死に追いやってしまったという不毛な負い目…。

 気がつくと一平は全身から冷や汗を滴らせ、激しく脈打つ動悸を鎮めようと荒い息を整えるのに必死だった。地獄の責め苦が終わると、目の前にトリトン神が現れた。


 トリトニアの軍装で一平の前に降り立つトリトン神は一振りの中剣を手にしている。

 青の剣。青い鞘に納まっているのに刀身が光り輝いているのがわかる。剣から漏れ出る光は強く明るく、それを持つ者の姿をもはっきりとさせないほどに眩い。

 トリトン神は手にした青の剣を抜き放ち、一平に向かって突いてきた。剣は一平の胸をまっすぐに貫き、間近に迫った顔を一平に拝ませた。

 珊瑚色の髪。青い目。ふっくらとしたした唇がニヤリと笑った。

 ―ニーナ!―


 勘弁してくれ。

 試験の夢を見ていたことに気づいた一平はまずそう思った。

 トリトン神は、自分が一番手強いと思っている相手の顔になって現れる、と言う話を聞いたばかりであったから。

 ―自分が一番手強いと思う者―

 なるほど。道理だ。

 恋しい娘の父親であるオスカーでもなく、自他共に認める好敵手のナシアスでもなく、ましてや現守人のミカエラでもない。パールの影であり、彼の恋のライバルであったニーナが、一平はこの世で一番恐ろしいらしいのだ。彼女はもうこの世にいないのに。

(参ったな…)


 今のは夢であったが、実際はどうなのだろう。

 試験の実際も、詳しい事はまだ知らされていない。最終的にはトリトン神の許しが得られるかどうかなので、当然姿を拝することになるのだろうが、その時もトリトン神はニーナの顔なのだろうか。

 やってられない、と思うほどに、一平はゲ げんなりした。



 青の剣の守人の宣旨が降りると公表されて一週間。落ち着かぬ日々を過ごした一平は、ともすれば逃げ出そうとする自分の身体を必死に押し留めて試験会場に立っていた。

 気遅れというのは滅多に感じたことがないのに、自分の一生で今が一番肝腎だと思えるこの時に、足が地に着いていないような気分になるとは情けなかった。

 朝餐時に国王夫妻やキンタから激励の言葉を受け、パールからもおまじないと称して普段に倍するキスの嵐を浴びせられていたが、甘く柔らかいパールの唇の感触を思い出しても、武者震いを止めることはできなかった。

 オスカーからの確信に満ちた言葉も、常々感じている以上に重荷でしかなく、こんなことならパールに歌のひとつも所望しておくのだったと、女の施術を頼みにする女々しい自分にも愛想が尽きてきた。

 

 パールもオスカーもまさか一平がこの期に及んで緊張しまくっているとは思いもせず、期待に胸を膨らませて各々の席に陣取っていた。

 試験が行われるのは、右宮の聖廟とそれに近い三つの間であった。三種の試験と試儀が順次執り行われる。

 候補者は一平を含めて八人。パールの予想したように、トリトニア軍の少将及び中将が六人。公示を聞いて外遊から帰国した有資格者が一人。将にはなっていないが、同等と見做される特例試験を突破しての参加者が一名だ。軍籍にある五人は既に一平も顔見知りであり、青の剣の守人候補になっていることはとっくに知っていた。普段は同僚として、また部下として親密な口を利き、信頼で結ばれているが、今日ばかりは敵同士であった。


「いよいよですな」

 一平と同じ中将のユリアンが話しかけてきた。

「今日ばかりは手加減しませんぞ」

 第二種の試験に候補者同士の対戦があることを含んだ物言いだった。とは言え、訓練でユリアンと手を合わせた事はなく、実践でも同道していないのではっきりとした実力のほどは心得ていない。

「ユリアンどのとは一度対戦してみたいと思っておりました。同じ中将であるのにご一緒できる機会がとんとありませんでしたからね」

 腹蔵のないところだが、かなりの実力者であることは知られている。昨年度の武道会の中剣の部の優勝者なのだ。

「そんな生易しいことを言っていると足元を掬われますよ」

 そう返すユリアンの瞳にはいつもより厳しい光があった。


 皆、本気なのだ。

 ここにいる面々は、皆。

 おそらく何年も前から青の剣の守人の試験の行われるこの日を待ち、力の保持に努め、望む地位のために果てることのない精進を続けてきたのだろう。登用されてまだ二年の自分は一番経験が浅いのに違いない。

 敵対心を露にされて、却って緊張が解けた。

 悪い意味での緊張が。

 不様は晒せない。

 オスカーばかりではない。青科の教授陣を含めた試験官にも、ここにはいない市井の人々にもニーナにも、恥ずかしくないような受け答えをしなければならない。

 国の武の頂点に自分は立てるのだと。あの珠玉の宝石のようなパールを娶る資格があるのだと、証明して見せなければならないのだ。トリトン神が自分を認めてくれるかどうかは、これからの自分の態度如何にかかっている。


 あそこでパールが見てくれている。

 おそらくは、他の候補者には目もくれず、一平のことだけを見つめ、一平のことだけを考えて。これから彼女に対しても行われるであろう守人の連れ合いとしての審査を受けるべく、同じ室内でも一番遠くに位置する席に行儀よく座っている。

 ―やってやるさ―

 気持ちを引き締め直した。

 ―待ってろよ、パール。オレは必ずやる―

 

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