第四章 噂
「大したもんだな。おまえのお姫さんは」
ナシアスが言った。
「唐突だな。一体何の話だ」
一平が訊き返す。
「いやあ、この間医科に運び込まれてきた重病人を手当てするところに居合わせたんだが、たまげたよ」
「パールの施術を見たのか」
「ああ」
「以前見たことがあっただろう?」
ニーナの傷を懸命に治そうとするパールの姿を、ナシアスは目にしているはずである。
「あれはあれで敬虔な気持ちになったもんだが、今度のはそんなもんじゃなかったぜ。チアノーゼって言うのか?顔色も唇も真っ青で呼吸困難を起こしていた奴が、お姫さんが手を握り締めて祈り始めると、みるみる鎮まって回復していくんだ。その後手かざしで何やら調べていたようだが、とにかく驚いたね」
「…そうか…」
まるで見てきたように、一平にはその様子が想像できる。近頃のパールは以前より一層癒しの力を増して、患者を回復させる時間も短く手早くなっていると聞いてもいた。だが…。
彼はポツリと言った。
「おまえはいいな、ナシアス」
「は?」
「オレはおまえが羨ましいよ」
「羨ましい?オレが?何で?」
「おまえはオレの知らないパールの姿を知っている」
同じ頃修練所に通ってはいても、別の科に属する一平はパールの医科での生活を目の当たりにしたことがない。護衛のため終始パールの修繕所生活に張り付いていられるナシアスの方が、それについては一平より詳しくなっているはずだった。
「おまえだって知ってんだろうがよ。お姫さんの一番最初の患者はおまえだったって聞いてるぜ?」
「あの頃とは全然違うさ。…いや、基本的には変わらないかもしれないけど、今のパールは人々にも認められて、以前よりずっと自信がついて輝いているはずだ。その充実したパールを、おまえはいつも見ていることができる。滅茶苦茶、羨ましいよ」
真面目に消沈している一平を元気づけようとナシアスは言う。
「陛下の許しがあれば、いつなりと代わってやるぜ⁉︎」
できるわけがないのを承知の上で言うのだから憎たらしい。
一平は苦虫を噛み潰したような顔でナシアスのニヤニヤ笑いを睨めつけた。
「確かに一見の価値ありだもんな。あんな姿をせつけられたら、誰だってお姫さんに対する見方が変わると思うぜ。事実、医科の連中は皆お姫さんに心酔してる。教授たちがその力を認めて一目も二目も置いてるだけじゃない。若いお医師の中には密かに懸想してる奴もいるし、学生たちの間では親衛隊もできてるらしいぜ」
一平の顔色が変わるのを意識しつつ、ナシアスは続ける。
「オレもいっちょ気を引き締めておまえからの依頼を果たすよう努めなきゃならないな」
―依頼だと?―
眉を顰める一平の目がそう問うのにナシアスは答えた。
「変な虫がつかないように…」
「頼んだ覚えはない」
一平はジロリと睨んでナシアスの軽口を塞いだ。そういうことは他人に頼んでしてもらうべきものではないと一平は考えていた。もちろん他の誰にもパールにちょっかいを出してもらいたくはなかったが、万が一そういうことがあったとして、パールが自分を差し置いて他の誰かを選ぶことなど今では考えられなかった。決して自信があるわけではなかったが、純粋で一途なパールがそうそう簡単に自分の夢を捨てることがあるとは思えなかったのである。パールを信ずればこその思いであった。
むしろ常にそういう危機は身近にあったわけで、それでもなおかつ、パールは一平を選び、一平を好きだと言い続けているのだから。
「別にこういうことは初めてじゃないさ。シェリトリのこともあったし、ムラーラでもバールはマドンナ的存在だった」
「へえ…」それはナシアスには初耳だった。「結構モテるんだな、彼女。う〜ん。わかるような気もするが…」
ナムルとの一件を思い出し、一平は一層落ち着かない気分に襲われる。自分から口にしておきながら。
「きれいになったしな、彼女」
「とってつけたように言うな。パールは前から綺麗だ」
「おー、のろけ。言うようになったじゃん、おまえも」
「事実を言っただけだ。以前は醜女だったようなことを言われて黙ってられるか」
「言ってねえって」
いくら自分の好みのタイプでなくとも、崇拝者の前で当人を貶すことなどナシアスはしない。そういう男だと重々承知しているくせに、バールのこととなると一平は頭に血が上って暴走する傾向にある。そしてそういう一平を可愛い奴だと、ナシアスの方も思うのである。
「それよりか、何だな。あれだぞ」
ここはひとまず一平の頭を冷やさせるべきだ。そう判断したナシアスは話を変えようとするが、柄にもなく歯切れが悪くなってしまった。
「わけのわからないことを言ってごまかすな」
「違うって。おまえ知ってるか?どうやらそろそろ宣言が降りるらしいって噂」
「何⁉︎」
宣旨と言えば守人選定の宣旨だ。思わず一平はナシアスに詰め寄るのを中断した。それが本当なら一平にとって一世一代の正念場がやってくるということなのだ。
「誰から聞いた?確かな筋なのか?オレは初耳だぞ。どの守人の宣旨なんだ?」
一平に一番関係あるのは青の剣の守人だが、壮年で現役バリバリの現守人ミカエラがまだ廃されるとは思えない。赤の剣の守人のオスカーはそれ以上に若く、現在のトリトニアにはなくてはならぬ国の要だ。
一番可能性がありそうなのは老齢の白の剣の守人ウート老であるが、こちらも年の割には足腰もピンシャンしているし、頭脳明晰で矍鑠としている。そして白の剣の守人に限っては、長寿を以てその地位に君臨することが多いと聞く。博識を第一の条件とする白の剣の守人は、記憶をより多く保ち続けさせるために長寿とならざるを得ないのではないかと目されている。
「まあ、そう慌てるなよ。噂だって。噂。おまえの耳に入ってないのならガセネタだろうが、卵《火》のないところに生き物は生まれないとも言うからな」
「おまえの情報網は侮れない」
「青の剣の宣旨が降りるんだったら、陛下が真っ先におまえに言うだろうによ」
「わかるものか。陛下はよくオレをからかうし。気に入ってくれているとは言え、娘をかっ攫おうという男を苛めたい気持ちぐらいあるだろうよ。パールの安全に関してならともかく、宣旨については特に急いで知らせることでもないだろうし」
「そうかあ⁉︎一刻も早く伝えて、来るべき時に備えろ、とでも言うんじゃないか?」
「知らん。…おまえだぞ、言い出したのは」
話の矛先がおかしくなっているのに気づき、一平は口調を改めてナシアスに迫った。
「どういう噂なんだ?詳しく話せ」
「ミカエラさまだよ」
「尊師が?」
「古傷の具合が思わしくないらしい。ザザの診療所に顔を見せたそうだ」
「古傷…」
「修業時代のものだろうが、歳をとって若い時の無理が祟るってやつなのかな。足の痛みが取れないって話さ。それこそお姫さんの所に来れば一発なのにな」
「パールの施術を受けるには細かい条件が付帯するようになってしまったからな。いくら守人とは言え、それに当て嵌まるほどの重病人ではないと、尊師自ら遠慮されているのだろう」
「まあそんなところだろうな。だが病は病だ。守人が弱っているとなると、他国にもつけ込まれるし、民の不安を煽る。だから出た噂だろうとオレは思ってる。ミカエラさまの治軍はもう長くない。従って、早晩青の剣の守人は交代するだろう。宣旨が降りるのも間近だ、とな」
「……」
一平としては恐ろしく複雑な心境であった。
パールとは早く一緒になりたいが、そのためにも一日も早く青の剣の守人にならなくてはならないのだが、自分とパールの現状を考えると、今がその時になっては不都合があると思えるのだ。パールの方に結婚の何たるかの心構えができていないことももちろんだが、一平自身も中将にまで昇進したとは言え、まだまだ人間として、また軍人として、未熟者の域を脱したとは思えない。今宣旨が降りても自分はきっとトリトン神のお眼鏡には適うまい。
ということは他の誰かが青の剣の守人となり、せっかくのオスカーのお許しも実行不可能になる。その次代の守人まで待つことになってしまう。当然、それまでに気の遠くなるほどの歳月を過ごさねばならないだろう。気力も体力も一体どこまで保つものやら知れたものではない。
そして尊敬と憧れの存在ミカエラ師。豪放磊落で明朗なあの守人が弱って引退するところなど、一平は見たくないのだった。自分が運良く青の剣の守人になれたとして、師のミカエラを蹴落とさなければ青の剣の守人にはなれないのだと、この時ようやく一平は実感したのである。
「ミカエラ尊師が…」
事実なのだろうか?自分の目で確かめなければ。
一平はすぐさま行動に出た。
「ミカエラ尊師」
一平が訪れたのは右宮と呼ばれる青の剣の守人が本拠とする場所である。
左右対称に造られたトリトニアの王宮は三つの建物が合体したように建っている。王の謁見室や広間のある中心部は主宮と呼ばれ、王、すなわち赤の剣の守人が管理し、治める場である。その両脇に佇む一段低い建物をそれぞれ左宮、右宮と称し、白の剣の守人と青の剣の守人の管轄区としていた。
どの宮も守人の一家の住まいと政務の執行機関とを兼ねていた。
その王宮の右側の宮、右宮の応接間に、一平は足を踏み入れていた。
ここに来るのは初めてではない。
トリトニア軍の総長であるミカエラの指示を仰ぐために、中将の一平は足繁くここに通うようになっていた。トリトニア軍の大将は守人ただ一人。従って、中将とはいえ一平は直属の部下を束ねる長、守人の副官とも補佐役とも言える立場にあるのである。中将は他にもう一人、少将は四人いる。位が下がるに従って、ピラミッド状に図色が出来上がっている。
大将の元へは中将が一日交替で伺候し、指示を仰ぐ。一平の当直は昨日のことであり、今日はそういう意味では非番である。特に足を向けずともよい一平がわざわざわざまかり越したことに、ミカエラは少々驚いた様子で応接の間に姿を現した。
「どうした。何か問題でも起こったか?」
「申し訳ありません。ご多忙なところを時間を割いていただきまして。軍の話で参ったのではございません。個人的にお話ししたいことがありまして参上致しました」
「はて…。おぬしの様子から見て楽しい話ではなさそうだが、厄介ごとか?」
「いえ。今日は尊師にお尋ねしたいことがあって参りました。失礼かとは存じますが、何卒某の質問に正直に答えていただきたく、お願い申し上げます」
真面目くさった一平の様子にミカエラは身構えた。一平にも座るよう勧め、自分も向かい合って膝を折る。
「まあ、申してみろ」
「はい。…尊師は…その…どこお加減が悪いと言うことはありませんか。噂が耳に入って参りまして…。居ても立ってもいられず、こうして押し掛けました。真実や否や、お教え下さい」
極めて単刀直入に、一平は切り出していた。それを受け、ミカエラはほんの少しだけ驚いたように目を瞠く。
「…噂になっておるのか。そうか…」
「やはり、本当なのですか?」
ミカエラの態度に一平は畳み掛けた。
「診療所を訪れたことは事実だ。この左足が少々言うことを利かなくなってきたのでな」
「尊師 …」
知らず、眉が曇る。聞きたくなかった言葉だった。
「心配するには及ばん。修行の旅で遠洋に出ていた頃シャチにやられた傷だ。それが今頃になって時々悲鳴を上げるだけのことよ。オレももう若くない。この年になれば誰でも悩まされる類のものだ。もっと尾鰭がついた話になっているのか?」
「いえ、某も詳しくは…。ただ…」本人に面と向かって言ってもいいものだろうかと一平は躊躇した。「そのせいで、悲観的な見方をしている者も少なからずいるようで…その…宣旨が降りる時が近いのでは、という…」
「なる…」
ミカエラはさもあろう、と頷いた。
「それでなぜおぬしがそのように暗い顔をする?おぬしにとっては待ちに待った朗報ではないのか」
端から見れば尤もな指摘に、一平は即時応えた。
「まだ、早いです。早すぎます。今託宣が降りて試験を受けてもオレは合格できない。いや、そうじゃない、そういうことではなく、オレは尊師の御身が心配です。まだまだ引退などされては嫌です。どうか、パールの施術を受けに来て下さい。
…ザザ婆さまを信用しないわけではありませんが、このところパールはぐんぐん力をつけてきています。あの神秘の力ならばきっと、尊師の不具合を取り除くことができると思います」
「姫の施術の効果についてはオレも聞き及んでいるよ。だが本当に大した病状ではないのだ。姫の力を切実に必要としている人はごまんといるのだ。オレはザザ婆に治していただくさ」
「尊師…」
「お人好しだな、おぬしは。オレが引退すれば大きなチャンスが巡ってくるというのに。そうそういつまでも姫を待たせるわけにはいかんだろうが」
人の上に立とうと精進しているくせに妙に控えめなところがある一平を、もう少し図太く構えてもパチは当たらないだろうにと、ミカエラは眉尻を下げ、眺めた。
「尊師の後釜にそう簡単に収まれるとは思っていません。オレはまだまだ未熟者で力不足です。おまけに半分は地上人だ。そんなオレをトリトン神に認めさせるには、まだまだ経験も実力も足らないはずです」
「それはトリトン神がお決めになることだ。おぬしは己の力を精一杯出せばそれでよい。おのずと結果はついてくる」
「尊師はオレが必ず守人試験に受かるようなことを仰いますが、他にも候補はいるんですよ⁉︎」
折りあらばミカエラは、おまえならやれる、おまえが担えと、一平に励ましと期待の言葉を掛けてきた。他の候補者にどんな言葉掛けをしているのかは知らないが、一平にとっては心強く、また、時に重荷ともなってのしかかってくるのだ。
「オレだけではないぞ。国民の半分、いや七割八割はおぬしの実力を認め、次の守人はおまえだと噂し合っている」
「そんな…」
「不思議なものよ。オレも微塵も疑う気が起こらん。その時は自分が廃されるというのにちっとも悔しいと思わない。陛下のお眼鏡に適った男なれば当然、という思いがあるからなのかもしれんが、それだけではないな。それ以前におぬしはオレの気を引いた」
男に一目惚れというのも変な話だが、そういう言葉が一番似つかわしかった。ミカエラの一平に対する第一印象は。
同類は呼び合うと言う。オスカーにしても、ミカエラと同じように一平の器量に惚れ込んだ。三人いる守人のうち二人ながらが時を同じくして同じ男に惹かれたのだ。これはもう次代の守人との邂逅に違いないと、二人の魂が身体の奥底から叫びを上げている。トリトン神の意思が二人の魂に宿って確信させているのかもしれぬ。トリトニアの民の中で一番トリトン神に近い二人なれば。
「わかりません。お気持ちはありがたいですが、オレはこの通りの半端物。尊師や陛下がそこまでオレを買って下さるのと矛盾して思えて仕方がないです」
「全ては宣旨が降りた時にわかる。おぬしの言うハンディなど、トリトニアで気にしている者はただの一人もいないぞ」
それも不思議のひとつである。地上人を母に持つ、幼魚と呼ばれる時代を経て来ていない混血の異端児を、ここの人々は賛嘆の目で見こそすれ、排除しようとは露ほども思わないらしいのだ。
「まあ、そう心配するな。ちゃんとザザ婆の所に通うから。宣旨のこともオレたちがしのごのいってもどうにもならん。オレは喜んでトリトン神のご意志に従うぞ。そんなことより、目の前の自分の務めを果たすことを考えろ」
上官にそう言われては返す言葉がない。不承不承ながらも一平はミカエラの元を辞した。




