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第二十章 欲望

 パールが意識を取り戻した時には既に夕刻になっていた。

 見慣れぬ室内で目を覚まし、記憶が蘇ると、途端に不安感に襲われた。

 一体ここはどこなのか。何者があのような暴挙に出て自分を運んだのか。剣を突きつけられ、脅されたエメロードはどうなったのか。そして何も知らない一平は…。

 心配しているだろう。助けを呼ぶこともできなかった。

(またこんなことになっちゃった…)


 レレスクに拉致された時のことが思い起こされる。

 あの時も、突然怪しい人たちが現れて自分のことをどこかに運ぼうとしていた。一緒にいたセレム医師は巻き添えを食って大怪我をした。必死に訴えて施術をし、命を取り止めることができたが、今回巻き込まれたエメロードが危険を回避した姿は確認していない。

 そしてパールを助けに乗り込んできたニーナはレレスクの手にかかって死んだ。


(いや…)

 パールは両肩を抱き締めて身震いをした。

 またあんなことが起こるのだろうか。大事な人を失う羽目に陥るのだろうか。攫われた当の自分にはなぜか害が及ばない。連れ去られた、使役された、だがそれだけだ。それはひとえに自分に利用価値があるからなのだと、今ではパールも推測することができる。レレスクはパールの癒しの力が必要だった。今回の曲者もおそらく同じなのだろう。だから自分はまだ生かされている。

 パールには自分にそれ以上の価値があるとは思えなかった。それなのに周りの人々を危険に巻き込んでしまう。自分の境遇を憂えるよりも、周りにかける迷惑の方をこそ、パールは嘆いた。レレスクとの戦ではニーナだけではない、何十人もの兵士が殉職したのだ。

(戦にだけはならないで…)


 どこの誰がこういうことをしたのかは知らないが、戦になった場合一番恐ろしいのは、最愛の一平がその矢面に立つことだ。彼は今そういう立場にいる。トリトニア軍の総長、大将であると同時に国宝青の剣の守人として、国の安全を第一に諮る義務がある。

 自分はその妻だ。ひょっとして、トリトニアに不利な条件を受け入れさせるための人質として連れてこられたのかもしれないと、パールはふと思った。自分には何もできないのに、いつもいつも、大事な人の足手纏いにばかりになってしまう。


(どうして?…お願いだからパールを帰して。一平ちゃんのところにどうか…)

 自然と胸の前で手を組んでいた。心からの祈りに感じるところがあったのか、お腹に動きを感じる。赤ん坊の胎動だ。パールの身体の中でひとつの命が存在を主張している。

(赤ちゃん…。ごめんね、こんな所は嫌だよね。ごめんね、連れて来ちゃって。ごめんね。パールにはどうすることもできなかったの。ごめんね、こんなにだらしのないママで…)


 愛しげに、まだまるで膨らみの目立たない腹を摩る。それに応えるように、また腹の中の小さな手足が肉の壁を叩く。

(生きてる…。本当に、いるんだ。パールの中に、一平ちゃんの赤ちゃんが…)

 ザザ婆に診断を下される前から、何か変だとは思っていた。

 声は聞こえぬまでも、何かに呼ばれている気が幾度もするのだ。

 それが己の身体の中から発されていることを、パールは次第に確信するようになった。

 今ではわかる。お腹の中の子が悲しむパールを心配して励ましてくれていることが。



 ―この子だけは、守らねば―

 それは確たる思いであった。幼い時から思い続けた『一平ちゃんの赤ちゃんをいっぱい産みたい』と言う願い。その夢が現実となって進行している。元々食の細いパールではあったが、腹の子のためになるべく好き嫌いをせず量を食べ、適度に動き、そして休んだ。出産のためによいと言われることは進んで行い、健康で元気な赤ちゃんを産めるよう日々努力している。自分が生まれつき病弱であった分、子どもにはそういう苦労をさせたくなかったし、自分の因子のせいで弱い身体に生まれてきたら、子どもに対して申し訳ないという思いが強かったのだ。


 自分はどうなっても、この子だけは守る。一平との愛の証、そして一平への贈り物だ。それだけが、一平に対してできる唯一の恩返し、身近な肉親を失って久しい一平を幸せにできる道なのだ、とパールは思っていた。

 とは言え、自分がどうかなってしまっては、現時点ではこの子も道づれだ。庇うにしても限りがある。

(でもダメ!しっかりしなさい、パール!)

 ともすれば落ち込みそうになる自分を励まし、パールは背中を伸ばして立ち上がった。


 自分の周囲を見る。

 見慣れぬ部屋だ。

 広く整ってはいるが、陰気が漂っている。壁に均等に配された彫像が得体の知れぬ姿形をしていて気味が悪い。

 パールが横になっていた大きな寝台はその部屋のど真ん中に据えられていた。足元の方向に鉄の扉があり、その他の壁と天井に巨大な鏡が開けられているのが異彩を放っていた。あっちを向いてもこっちを向いても己の姿が目に入る。不意に人が現れたように感じることもあり、落ち着かない。


 妙な匂いもする。

 トリトニアで医療に使われるものとは違うようだ。少なくとも、パールの知る限りのものではない。初めは眉を顰めたが、嗅ぎ慣れると心地好くなってくる不思議な香りだった。

 先端恐怖症の発作を起こして倒れたパールを楽にするために使われたものだったが、今ひとつの効能がある。気持ちを蕩けさせ、意思の力や判断力を衰えさせるものだ。抵抗する力を奪う麻薬の類であり、致死量も設定されているが、パールには知る由もない。今はまだ興奮し切った脳の働きを鎮める作用に留まっている。



(おかしな部屋…)

 トリトニアの造りに似通ったところはほとんどない。

 特にあの彫像…。

 気味が悪いが、怖いもの見たさという気持ちもある。

 パールはそっと横から見上げてみた。

 頭部は人の顔のようではある。だが、鼻も耳も著しく飛び出し、尖っている。口に至っては耳まで裂けていると言ってもおかしくない。眉間からは二本の角―触覚かもしれない―が伸びていて、細く長く後頭部に向かってうねっている。

 背中にトビウオのような羽根―いくつにも割れて尖っている―を持ち、個体によって太く長い胴をくねらせたり、蹲ったりとまちまちだ。胴から短い四本の足が生えているのは、ワニやトカゲなどの爬虫類を連想させた。想像上の動物なのか、パールが知らないだけなのか。


 でも、海の中にはいそうもない気がした。

 その一方で、見たこともあるような気もした。

 気になって記憶を辿る。

 ある部屋が思い浮かんだ。

 二年近く前に行ったことのある場所だ。

 トリトニアの北西部トリーニにあるぺニーノの屋敷だった。

 もてなしを受けた部屋の一角に、こんな姿をした置物が置いてあった。大事なものらしく、結構目に付くところに飾ってあったのに、なんだか怖くてパールは見ないようにしていたのだった。

(ぺニーノさまのおうちにあったんだわ…)

 それがガラリア王ガラティスから親愛のしるしに送られたものであることなど、パールが知るはずもない。


 そしてペニーノと言えば、パールにとって思い浮かぶのは、息子のシェリトリであり、屋敷で初めて対面したガラリア王ガラティスである。

 そういえば、あの部屋も同じような造りではなかったか。

 当時のことが次々と思い起こされる。

 医師派遣団の施術でトリーニを訪れた時、偶然再会したシェリトリに誘われるままにペニーノの屋敷を訪れたパールを待っていたのは、酒宴の席であった。同行していた医師が潰れ、バールも勧められたポクリという海藻を口にして、前後不覚に陥った。気がついたときには別の部屋で、なんと隣国ガラリアの王ガラティスに介抱されていたと聞かされた。

 そして、全く見覚えのない悪行を指摘され、裸に剥かれてあちこち調べられた。

 一方的で破廉恥な行為に為す術もなく、パールは言いくるめられてトリリトンに送りつけられたのだ。


 あの頃は何も知らず、恥じらうことさえなかったが、人の妻となった今ではわかる。ガラティスにどういう狙いがあったにしろ、成人した娘にしていいことではなかったのだと。

(まさかまた?)

 浮かんだ自分の考えにパールは寒気を覚えた。

 あの頃とは違う。女を裸にして男が何をしたがるのかはもうわかっている。あの時、そんな目に合わずに済んだのは、自分に大人の女としての魅力がなかったからだという分析もできる。

 ただ、ガラティスの目的は最初から他のところにあったようなのだが、そのためあの時されたと同じことをされるのも、今のパールには耐え難い。あんな下衆な男に身体を見られるのも触られるのも穢らわしい。ましてや…。


(どうしよう?)

 パールは腹に手をやった。自分の身体の中で新しい生命が息づいている。もしもこの子に危害が加えられたら、自分はどうすればいいのか。幼い頃からずっと夢見続けていた、大切な、一平との赤ちゃんだ。絶対に失いたくない。

 立ち竦むパールの背後で気配がした。

 鷹揚に、ガラティスが立っていた。



(ガラティスさま?ここはガラリアなの⁉︎)

 思わず後ずさりしながらバールは察した。

(扉の開いた音などしなかったのに)

 不安と驚きの錯綜する表情のパールを満足そうに見つめ、ガラティスは徐に口を開いた。

「…久しいな…。ようこそガラリアへ。そんなに怯えることはあるまい。わしが一体何をしたと言うのだ」

「……」

 ―何をしたかですって?穢らわしい。よくもいけしゃあしゃあと―

 ニーナであればこのくらいの反発の言葉は口にしていたかもしれない。だがパールはニーナではなかった。首を左右に振ることぐらいしかできない。


「… 二年前お会いした時とは違い、美しくなられた。結婚されて女の喜びを知られたからかな⁉︎」

 賛辞のようなのだが、何か変だ。馬鹿に遜っている。

 それもそのはず、パールに拒絶されては元も子もないのだ。王女を女として感じさせなければ、かの徴は現れないのだから。

 ―カミーラの徴―

 ガラティスはそう呼んでいた。古い伝説に登場する、その兆候を。彼は密かに探し求めていたのだ。まさしく何も知らない一平をひどく悩ませたあの徴のことである。


 一体どうやって知ったのか。パールの額にある時にだけ、その徴が現れると。

 伝説自体は古いものではあるが、誰が知っていてもおかしくはない。

 その内容から、トリトニアのパールティア王女に関係があると導くのもさして難しいことではないだろう。

 だが、パールの額に現れたことは一平を含むごく少数の人間しか知らない。本人にさえ知らされていないのである。その事実をガラティスはなぜか知っている。そして求めようとしている。徴から読み取れると思われる『秘宝』なるものの在処を。

 二年前にはうまくいかなかった。パールティア王女の身体のどこかにあるはずだと十中八九思っていながら見つけ出すことができなかった。だから簡単に解放したのだが、時を経て、新たなる事実を掴むことができたのだ。

 そのためには王女を手に入れなければならない。自分に心も身体も開くように仕向け、その徴を拝むのだ。目にすることさえできれば、秘宝は半ば手に入れたも同じ。トリトニアを出し抜いてやれる。まずはパールティアを懐柔するのだ。世辞も空々しい嘘も方便というものだった。


「ずっとお会いしたかったぞ。美しくなったと聞いていたのでな。あの時、何もせずに帰したのがどんなに悔やまれたことか」

「…どういう…ご用件ですか?」

 掌を返したかのようなガラティスの態度が腑に落ちず、やっとのことでパールは尋ねた。

「…わしを癒してもらいたいのだ。姫のお力でな」

「癒す?」

 自分の持つ癒しの力を必要とされているのだろうか。だったらこんなことをせずきちんと申し入れればいいのに、とパールは不思議に思った。



「一体、どのようなお悩みが?」

 自分に悪さをしたはずの人でも、癒してほしいと言われると、パールは何か力になってあげたくなってしまう。それこそがその力の源ではあるのだが、ガラティスのような輩に利用されやすい性質であることは確かだ。

「この年で…些か恥ずかしいのだが…実は、恋の悩みなのだ」

「恋⁉︎」

「ぜひとも、思いを打ち明けたい相手がいる。もちろん、夫人に迎えたい」

 ガラティスには、もう九人も奥方がいるのに?

 パールの頭は惑乱する。

「が、それが叶わぬ。その女性は既に結婚しておるのでな」

「まあ…」

 それじゃあ、どうしようもないではないか。その切ない心を癒してくれと言うのね、とパールは推し量る。


「せめて、一夜なりとも我が手に抱いてみたいのだ。協力してもらえまいか?」

「お力になりたいのは山々ですけれど、私の力はそういうご協力には…」

 専門外である。そんなことはガラティスにもわかりそうなものなのに…。

「いや、姫にしかできないのだ、これは」

 ガラティスは食い下がる。

「でも…」

 できないものはできない。困り果てるパールにガラティスは言う。

「なぜなら、…その女性とは、他ならぬパールティア姫、あなただからです」

「‼︎‼︎」


 パールは絶句した。

(今、この人は何を言ったの?)

 でも、聞きたくないことを言われたのはわかっていた。

「姫…」

 反射的にパールは後退った。

「わかってくだされ、わしのこの気持ち…」

 そう言ってガラティスはパールの腕を掴んだ。

「わしの舌に噛み付いた時の気の強さが忘れられなんだ。身体の方も、これ、このように女らしくおなりになって…」

 ばか丁寧で気味の悪い言葉を用いながら、巧みにガラティスはパールのドレスを引き下ろし始めた。

「や…」

 慌ててパールは胸を庇うがすぐに腕を開かれた。胸に男の視線が注がれているのを感じてパールは真っ赤になる。

「可愛いのう…」

 これは本音だった。ガラティスの妾どもにはない初々しさが確かにパールにはあった。

「やめ…て…」 

 パールが消え入りそうな声で訴えたが、それはガラティスの欲望に火をつけるだけだった。


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