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第十七章 蜜月

 最高に言いにくい話をオスカーにしなければならなくなった一平だが、いざその場に立つと照れやためらいは吹っ飛んだ。事は興味本位で軽く扱われる話ではない。パールとこのトリトニアの行く末に大きく関わるものだったからだ。

 オスカーからは、このことはこれ以上他言しないように、そして今度その徴を見る機会があったなら、できる限り正確に覚えて報告してくれるようにと要請された。パール本人には知らせず、何か事が起きるようなことがあれば一平が身を挺してでも守れ、との言葉も本望であり同感であった。その上、大事ゆえシルヴィアとウート老には話を通すが堪えてくれと頭を下げられ、なんとも居心地が悪いやらこれ以上説明しなければならない人が増えずに済んだことにほっとするやら、複雑な心境だった。


 とは言え、知らず知らずのうちにかなりの重圧を撥ね退けていたらしく、右宮に戻った一平はどっと疲れを感じていた。

 そして衣服を脱ぎ、身を横たえて、いつものように一平はパールの上に屈み込んだ。

 パールはおとなしく合図のキスを待っている。

 桜貝のような唇にそっと触れると、細い腕を一平の太い首に回してくる。

 今日も受け入れてもらえるのだという安心感が一平のくたびれた心を浸してゆく。自分の重みでパールを押し潰してしまわないように気をつけながら、頬や首筋に口づけ始めた。

 くすぐったそうに身動きするパールが可愛い。違う場所ならもっと違う反応をするはずだ。一平はそれが見たい。そう思った時にはもう徴のことはほとんど忘れていた。気持ちが高揚して心が蕩けそうになった時、パールが何事か囁いた。

「優しくしてね」


 そんなことを言われたのは初めてだった。そんなことは言われなくても心得ていた。パールを乱暴に扱ったりなどしたら、容易く壊れてしまうのだ。何も知らないパールを初めて抱いた時、一平はどんなに気を遣い、細心の注意を払ったことか…。

 それは未だに続いている。荒々しく振る舞ったことなど、一平の記憶にはただの一度もありはしななかった。

 なのにどうしてそういう台詞が出てくるのだ?と、一平は怪訝に思った。

「何か…いやだったか?昨夜(きのう)…」

(パールはオレのしたことの何かが気に入らなかったのか?きつかったのか?)

 そう思って尋ねてみた。思い起こしてみても心当たりがないのだ。

「ううん、違うの。婆さまがね…」

 婆さまとは、王宮付きのお医師のザザだ。二人とも一方ならぬ世話になっている。

「これからは、あまり激しく求め合ってはいけませんて」

「ザザ婆さまが?」


  

 激しく求め合うな、などと新婚の夫婦に告げる馬鹿はいない。しかし、ザザは老練な医師であり、二人の夫婦生活の相談役でもあった。ザザの言うことは無視できない。

 なぜ、そんなことを?と不思議に思ったが、パールがすぐに答えをくれた。

「お腹の赤ちゃんがびっくりするからって」

「……」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 こういう時、いつの世でも男は間抜けだ。自分の身体の中で起こる変化に、女であれば大抵は気がつき予測する。けれど男ははっきりとした確信をもって初めて告げられるので、心構えをする暇がない。従って、女がそのことを知る時以上にびっくりするのが世の常だった。一平もその例に戻れなかったわけで、立派な世の中の哀れなの男の一人だったということだ。


(赤ちゃん…だって?赤ちゃんって…言ったのか?お腹に?パールの身体の中に⁉︎)

 このいまだに赤ちゃんぽいところが抜け切らない妻の身体に新しい生命が宿っている。

 一平は、思わず目をパールの腹へと転じた。

 白く滑らかで、触れているだけで心地よい肌。成人したとは言え、相変わらず小柄で脂肪の蓄えの少ない細腰。ぺしゃんこに見える腹の真ん中で、大人の女性である証の臍だけが、笑って彼を見上げていた。

(この中に…赤ん坊がいるのか?何の変哲もなく見えるのに、本当に?)

 生命の神秘だ、としみじみ思った。


「一平ちゃんの、赤ちゃんだよ」

 あどけない声が頭上から降ってくる。堪え切れない喜びがその一言一言に込められている。

「パール…」

 一平はパールをぎゅっと抱き締めた。腹の上には乗らないように充分気をつけて。

「嬉しい?ねえ、一平ちゃん、嬉しい?一平ちゃんの赤ちゃんだよ。やっとできたの。一平ちゃんのおかげだよ」

「え?」

 抱き締め返してはしゃぐパールの言葉に、一平は面食らった。

「オレの…おかげ?」

 確かにそれも言える。子どもは一人では作れないのだから。

 戸惑う一平にパールはニコニコと答える。

「うん。だって、一平ちゃん、言ったでしょ。お嫁さんになったらパールに赤ちゃんができるようにしてくれるって。一平ちゃんの子を生めって。だから…この赤ちゃんは一平ちゃんの赤ちゃんだよね?」


 夜毎の行為を、一体何だと思っているのだろう、パールは。

 楽しいから。そうしていると気持ちいいから…。ただそれだけなのか?

 それではまるで、一平が魔法か何かを使って赤ん坊を兆させたみたいではないか。

 てっきり、わかっているはずだと思っていたが…。

 いや、魔法には違いないか。あんな幸せなひとときが、さらに幸せな出来事を運んできてくれるのだから、

「オレの子でなかったら誰の子だって言うんだ。怒るぞ」

 もちろん冗談だが、一平は言ってやった。

 そんなことを夫に確認しないでほしい。尋ねるのは男の方だと、相場が決まっているはずなのだ。

「……」


 パールはしばし真剣に考えた。だが、その末に言った。   

「…わかんない…」

 あまり真面目な顔でそう言うものだから、思わず吹き出してしまった。

「なんで笑うの?」 

 必死で笑いを堪え、一平は教えてやる。

「オレ以外におまえの中に入った奴がいるのか?」

 パールは目をパチクリするが、すぐに答えた。

「そんな人いないよ。やだもん。パール」

 わかりきってはいたが、その言葉に一平は安心する。

「じゃあ…間違いなくオレの子だ。でかしたぞ」

「パール、何かしたの?何か頑張ったの?」

 自分では青天の霹靂であり、何の苦労もしていないので、でかしたと言われてもぴんとこない。

「こういう時はそう言うもんなんだってさ」

 パールはふーんと鼻を鳴らした。よくわからないけどそうなんだ、という意味を伴っている。



「それで?いつ生まれるんだ?」

「半年くらい後。もう三月もしたらお腹が大きくなり始めるんだって。婆さまが時々様子を見に来てくれるって言ってた」

「半年か…」

 短いんだな、と一平は思う。地上では赤ん坊は十月十日母親の腹の中にいると言う。

「楽しみだな」

「うん!」

 笑顔でパールは一平に寄り添ってきた。耳をぴったり胸につけてくる。抱いてもらいたいのだ。

「今日は、やめとくか…」

「どうして?」

 思いもよらぬ申し出にパールは顔色を変えた。

「…いけないんだろ?…」

「違うよ!いつもの通りならいいって、婆さまが…」

「いつもの通りって…おまえ、喋ったのか?オレたちの…」

「うん…」

「……」


 呆れた。いくらザザ相手とは言え、ここまでお子様だとは思わなかった。

「だって、わかんなかったんだもん。どういうのがいけないのか」

 パールの理屈もわかる。ずっと願っていた自分の赤ん坊が授かったのだ。無事な出産のためにどうしなければいけないのか、心得ておくのは決して悪いことではないし、母親として当然の義務だろう。

 もっと世間ずれしていれば、そんなことを尋ねる必要もなかったのだろうが、今更手遅れである。パールがすれた娘であったなら、一平はここまでパールを大事にはしていなかっただろうから。


「…いけなかった?…」

 尋ねるパールは上目遣いだ。叱られるかも、と危ぶんでいる子どもそのものに見える。

「いや…。婆さまになら仕方ないな。でも他の奴には話すなよ。特にキンタはだめだ。あいつはおしゃべりだから…」

「二人だけの秘密なんだね?」

「ああ」

『二人だけの秘密』という言葉がよほど気に入ったのか、パールはひとりクスクスと笑い続けた。身を丸くして。

「…いつまで、笑ってる…」

 一平は縮こまったパールの腕を開いて顔を埋めた。

「優しく、するぞ」

 結局、溢れる思いは抑え切れないのだった。

 互いの体温を、情熱を、身体の奥で感じ合わなければ、満ち足りた眠りにはつけないのだった。一平も。そしてパールも。



 しばらく後、パールはデトラーダを訪れていた。

 もちろんエメロード姫の誕生祝いのためにである。

 白で統一されたテトラーダの皇宮の大広間にパールは通されていた。ひときわ高い壇上にエメロード姫の姿があった。両脇に国王夫妻を従えるようにして座しているのは、彼女が今日の主役であるからだ。

 襞のたくさんある裾広がりのドレスは上半身にぴったりとフィットして女らしい身体の線を見事に魅せていた。むき出しの肩も若い娘の持つ溌剌とした健康美を放っている。以前トリトニアを訪問した際にはいくつにも分けて垂らしていた長い髪を高めの位置で括り、複雑に編んで流している。そのため、露出している首筋や項から色気が滲み出していると見るのは男性ばかりではないだろう。

 

 エメロード姫は確かに美姫であった。

 だが見た目の美しさよりも、パールはエメロード姫の周囲に漂う紫と白金のオーラをこそ美しいと思った。それは以前会った時よりも格段と厚みを増し、広間の三分の一を埋め尽くすかと思われるほどだった。

 明るいオレンジ色のドレスを着ているために、放浪の旅の途上で見た夕焼け空を彷彿とさせた。

 そのエメロードが喜色を満面に表わして立ち上がった。

「パールティア姫!」


 先触れが何か口上を言うのももどかしく、エメロードは叫んだ。

 つられて駆け寄りそうになるのをパールは辛うじて堪えた。後ろに付き従う連れに軽く袖を引かれたおかげだ。

 パールは微笑み、ドレスの端を摘んで優雅なお辞儀を返した。

「お招きありがとうございます。エメロード姫さま。この度は十六歳のお誕生日おめでとうございます。我がことのように嬉しく、こうして参上致しました。十六歳になったご感想はいかがですか」

「本当にいらしていただけるなんてなんて素晴らしいことでしょう。またお目にかかれて嬉しいですわ。十六のお祝いといっても、もうあまり喜ばしくはありませんのよ」

 テトラーダに限らず、ポセイドニアでの女性の十六歳は結婚適齢期ぎりぎりなのだ。


 それよりも、とエメロードは座を降りてパールの元までやってきた。お気に入りのレモン色をしたシンプルなドレスに身を包んだパールの手を取り、覗き込み、少し表情を心配気に曇らせて問いかけた。

「ご懐妊されたと聞き及んでおりますわ。道中大変でしたでしょう」

 子を身籠ったせいだろうか。以前よりも女性らしさと落ち着きを増したと思えるパールはこの上なく清楚な微笑みを浮かべて答えた。

「ええ。ありがとうございます。もう慎重にしなければいけない時期は過ぎましたの。おかげさまで順調で、エメロードさまのお誕生日祝いに伺えるようお利口にしていてくれたいい子ですわ」


「本当に大丈夫?パールティアさまはあまりお丈夫ではないと聞いておりましてよ」

「ええ、本当に。私、これでもかなり丈夫になりましたのよ。でも、周りの方々にはどうしても心配をかけてしまうらしいんですの」

「それでこうしてあなたがついていらっしゃった」

 エメロードはパールの背後にいる人物に初めてまともに目をやった。

「出過ぎた真似とお思いでしょうが平にご容赦を。招待されてもいないのにのこのこついてきた過保護な夫と笑ってください」



 そこにいたのは一平であった。

 正式に招待されたのはパール一人であったが、トリトニア王宮の管理下にあるパールをオスカーがただひとりで使者に立たせるはずもなく、当然付けられる護衛と付き人を一平自ら買って出たのだった。あくまで守人としてではなく護衛であり、勅使はパールである。

「こちらこそご無礼だったかもしれませんわ。オスカー陛下も守人さま方も飛び越してパールティア姫だけを、とは。ごめんなさいね」

 悪気でないのはよくわかる。トリトニア側としても、それを不愉快に思って当てつけに一平を同行させたわけではない。エメロードにもそれは感じられた。


 彼女は楽しそうに言う。

「でも、そうしてるのがとてもよくお似合いでいらっしゃる」

 それを聞いて一平の顔も綻ぶ。

 それこそ、彼のしたい一番のことだったから。

「オレは元々…パールに出会った時からずっと、彼女の護衛でしたから」

「護衛だなんて。パールそんなつもりないよ⁉︎」

 思わず普段遣いの口調になるパールだった。

「いいんだ。オレが好きでしてるんだから。おまえの護衛役をナシアスに取られた時、実はかなりへこんでたんだ。このくらいはさせてくれ」

 実に穏やかに応える一平からは、パールへの愛情が迸り出ている。


「でも守人ご夫妻がこんなことで本国をお留守にして大丈夫なんですの?」

 それは当然と言えば当然の質問と言えた。彼らは守人に就任したばかりと言ってよい。不慣れな役職を疎かにしていいのかとの疑問はエメロードでなくとも拭えない。

「守人とは言え、実務は古参の部下が取り仕切ってくれています。オレはかなりの部分お飾りなんですよ。それに、外交の役目はかなり大きなウエイトを占めているらしい。ご心配なく」

「それなら安心したわ。私のわがままのためにお二人に無理をさせたのではないかと心配だったのよ」


 そして不意にエメロードはパールに身を擦り寄せて囁いた。

「あとでわたしのお部屋にいらしてね。二人だけでゆっくりお話ししましょう」

 パールは目を丸くし、次いでにっこりと微笑んだ。

「一平さま、よろしくて?」

 エメロードが訊く。

「オレは今回はあくまで護衛、付き添いです。部屋の外にて控えることに致します」

 騎士の礼で応える一平に、パールはそんな、と抗議する。

「せっかくのご招待だ。楽しんでこい。おまえが楽しければオレも嬉しい」

 パールを見下ろす一平の眼差しはあくまで優しい。この二人のオーラはなぜこうも清らかで温かいのだろうと、エメロードはつくづく思った。




 


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