第十六章 伝説
そして一平の前に新たな壁が立ち塞がった。
彼は悩んでいた。
あれは一体何だったのだろう。
本当にあったことなのか、夢や幻なのか、彼には判断がつきかねた。
気がついたのは一週間ほど前である。
初夜を迎えた時には気づかなかった。長年の思いを遂げられた喜びに自分の方が夢中になっていたからだろう。
素直なパールはあっけないくらいあっさりと一平の侵入を許し、共に高みへと駆け上った。日を追うごとに強烈な驚きは鳴りを潜めて行ったが、いつになっても初々しく、恥じらいを残した仕草は却って一平の欲望を刺激する。
一平の方も段々と陶酔するパールの表情をその目に収めることができるようになる。恍惚とした半開きの唇を見ればむしゃぶりつきたくなり、切なそうに眉間に皺が寄っていれば強く抱き締めて気持ちを伝えようとした。
絶頂を迎えた後のパールの額にそっとキスしようとして、初めて一平はその存在に気がついた。うっすらと判で押したような赤い痣のようなものがパールの額にあるのだ。
初めは目の迷いかと思った。自分がつけたキスマークかとも思った。しかし、そんなに強くした覚えはないし、見ているうちにそれはどんどん薄くなって消えてゆく。パール自身には何の影響もないように見える。
そんなことが何度か続くと、流石に見間違いではないと思えるようになった。もっとはっきりと刻印のように浮き出たものを目にするようになると、確信めいたものへと変わっていった。
この痣のようなものはパールが絶頂を迎えた時にだけ現れるのだ。そうとしか考えられなかった。
こういうことは誰にでも起こることなのか?
トリトン族には起こるのか?女性だけなのか?
情けないほど一平にはそういう知識がなかった。
彼は自分にも現れるものなのかと、一度鏡を盗み見て調べてみた。が、目的のものを見つけることはできなかった。
一平の身体には半分地上人の血が流れている。だから特別なのかとも考えた。
結局ひとりで答えを出すのは不可能のようだった。
かといって、他人にも訊くに訊けない。
病気など、何かの悪い兆候だったらとも考えるとパール本人にも訊けない。尋ねたとしても、あのパールが知っているとは思えない。
下手をすると恰好の暇潰しにされてしまうので、悪友どもに訊くのは以ての外である。
もちろんオスカーやシルヴィアにはどの面下げて説明できようか。
キンタの顔も頭に浮かんだ。パールよりはこっちのことには詳しそうだ。だが、こいつも問題外だ。そんなことを知ったら確かめに来ないとも限らない。冗談ではない。
(…そうか!ザザがいた…)
パール成人の折りには世話になった。
まるで幼稚なパールに一平が手を焼いていることを見抜いて貴重な助言をしてくれた。男と女のこともズパッと聞いてくるし諭してくれる。悪い病ではないかという心配も、お医師のザザなら払拭することもできよう。
時間を見つけて一平はザザの診療所へとやってきた。
王宮付きの医師ではあるが、権威というものが嫌いなザザは、場所こそ王宮に近いものの他の医師と何ら変わりのない質素な診療所を営んでいた。患者が来なくても食うに困らないだけの報酬を王家より貰っていたが、腕のよいザザの評判はすこぶるよく、患者の足は引きも切らない。その患者の一人として、一平はザザの元に顔を出した。
顔が見えないようフードを深く被り、患者の少なそうな時間を選んだ。
「勇者どのではないか。これは珍しい…」
ザザは驚いたが歓迎の気持ちを口調に滲ませて言った。
「どこぞ具合でも悪いのかね?多少のことならば奥方に癒してもらえばよかろうに」
「いえ…。今日はオレの身体ではなく、パールのことでご相談があって…」
「何?…おお、早くもご懐妊の兆しかえ?」
そういう話があってもおかしくない時期ではあった。だが、早計だ。一平は慌てて首を振った。もうこれだけで既に茹で蛸状態だ。
「そのことは…いずれ教えていただきたいものですが…今日は違うのです。……いえ、全く関係ないとは言えないかもしれませんが、それもよくわからなくて…」
名の知れた勇者にしては要領を得ない話しぶりだ。愛妻に関しては一平がこうなるのをよく知っていたから不快には思わなかったが、多少は焦れったい。
「もっとよくわかるように話してもらえぬものかね?」
「…すみません…」
謝ったなり、一平は下を向いて黙ってしまった。
よほど言いにくいことなのだろうとザザは慮った。この男が言いにくいとすればひとつしか思い当たることはない。ザザは言った。
「夜のことがね?」
「…はい…」
消え入りそうな声で一平が答える。
「何かうまくいかぬことでもあったのかえ?」
「いえ、そうではなくて…」
「心配はしておったのじゃ。王女は目覚めてくれたのかね?」
「…おかげさまで…」
そう言うしかなかった。ザザならこれでわかってくれるだろう。
「それなら何とした?そんなに言いにくいのかえ?」
「はあ…」
大の男が、それも勇者と呼ばれ、今はこの国の三大柱のひとつ、青の剣の守人の地位にまである屈強な戦士が、小さく身を丸めてもじもじしている様子は見ものだった。ザザは一平に同情して寛容な言葉を吐いた。
「もう患者はおぬしだけじゃ。ゆっくり話してよいぞ。わしには通ってくる男もいないでな。営業時間をオーバーした分は、王家の方につけておくさ」
「……」
ザザは一旦腰を上げ、診察終了の札を掛けにその場を外していった。
ありがたかったが、一平の方はそれどころではない。せっかくここまで来たのだ。何とか心を落ち着けてザザに意見を請わなければ。質問さえできればよいのだが、これが一番難しかった。
一平は半時くらいは躊躇していただろうか。待たされる方がそろそろ飽きてきて欠伸を何度かし始めた頃、やっと口火を切ることができた。
「額に…普段は何もなく普通なのに…痣のようなものが現れるんです。パールの額に…。痣と言うよりは判で押したようなくっきりとした刻印が…」
「……」
「…だからといって、パール本人には何の影響もないようで…。直に消えるし、でもまたオレが抱くと現れるし…」
言ってしまえば、大したことはないのだ。細かく詳しく喋る必要もない。ザザはそれだけでわかってくれた。
「…王女はご存知なのか?」
「いえ、…多分…知らないと思います。言ってないので」
「他には誰ぞこのことを?」
「ザザ婆さまが初めてです。他に相談できる人など…」
「…さもらあろうな…」
一平の立場はザザにもわかった。
「…抱く…と言うのはもちろん、妻にする、という意味なのだろうな?」
「…はい…」
まともにザザの顔が見られない。
「勇者どのよ、恥じ入ることはない。それは世の常。生の営みじゃ。契りなくして生命は続いてゆかぬ。おぬしは正々堂々と王女を手に入れたのじゃ。王女の夫となったことを誇りに思いこそすれ、そのことで恥じ入ってはならぬ」
ザザの言うことは尤もだった。そうしたいのは山々だったが、なかなか思うようにはいかない。一平はまだまだ純情だった。
「…が、そういうおぬしも好ましくはあるがの…」
「……」
一平が躊躇していたわけをザザは理解し、微笑ましく思った。権力を手に入れても何ら以前と変わりない初心な好青年であり続ける一平にほっとした。
「ところでその痣の件だが…」
ザザが本題に戻り、一平ははっと顔を挙げる。恥ずかしがっている場合ではない。このためにここまで来たのだ。
「刻印のようだと言ったか…」
ザザは一旦言葉を切り、再び口を開いた。
「はじめに断っておく。医療の事ならば何でも力になれようが、わしはその他のことに関しては、ちょっと心許ない。人より長く生きている分見知ったことも多いが、おぬしの満足のいく答えを与えられるとは限らんぞ」
「…心得ております。何か悪い病の兆候かとも考えられます。藁にも縋る気持ちで婆さまの元へ参りました」
「わしは藁かいな。もうちょっとましな例えはしてもらえんものかね」
口をへの字にしてザザは嘆いた。失言に気づき、一平はまた小さくなった。
「病について言えば、そのような奇病は報告されておらぬ。実際に見てみんことにははっきりとは言えぬが、そのように出たり引っ込んだりする痣などは存在せぬし、病による発疹なら同時に高熱が出たり痛みや痒みの症状があるはずじゃ。それにそんな短時間で消えたりはせん」
「では、病気ではないのですね?」
「少なくともわしの知る病の中にはない。新種の病ならば話は別だがな。聞けば、他には何の症状もないと言うではないか。ならば悪い病とは言えないのではないか?」
「誰にでも…起こり得ると言うわけでもないんですね?オレが知らないだけで、ああいう時、誰にでも現れるということでは」
「少なくともわしの時には出んかったぞ。相手の男にもな」
この皺くちゃ婆さんにもそんなことがあったのかと思うと不思議な気がするが、体験済みなら確かだろう。
しかし…では何なのだ?あの刻印は?
思いついたことを言ってみる。
「…王族は特別…ということはありませんか?」
「それはある」
「えっ⁉︎」
「王族は特別だから王族なのじゃ。過去何千年、脈々と血の中に受け継がれてきたものがある。例え他所からの血が混じろうと、王族であるための強力な因子は優性的に受け継がれ、現れる。だからこそ、王も地上人の血が混ざるおぬしを婿と迎えることを許したのじゃ」
「……」
それは新しい発見だった。物心ついた時から、ずっと一平は自分の生まれ、自分の血筋のことで悩んでいた。他人と違うこの身、陸と海とから半分ずつもらったこの命をどこに投じるべきなのか。
悩んだ末に一平が選んだのは海だった。いや、パールを選んだ結果が海だったのだ。今まではそれも成り行きだと思っていたが、自分ではどうしようもない大きな力が血の中に潜んでいたのだとしたら、それも頷ける。自分をここトリトニアへと導く大きな力が。
パールが王女であることを知って、自分は異端者だと感じた。こんな自分はパールに相応しくないと自分勝手に判断して逃げ出そうとしたこともある。それを引き止めたオスカーに些かのためらいもなかったのにはこういう背景があったのだ。ただ度胸があるだけでは一国の王という仕事は務まらない。それだけの知識とそれを使う才覚がなければだめなのだ。改めて一平はオスカー王の裁量に敬服していた。
「こういう伝説がある…」
ザザは厳かに切り出した。
「無垢なる瞳持てし珊瑚姫、その魂以て我らに勇者遣わしめ、海人の守りとならしめり」
(え?)
「勇者に至福へと導かれし時、徴生まれ出で、秘宝によりて人々を遍く癒さんとす…」
「それは…」
腑に落ちた。
ジグソーパズルの最後のピースがピタリと嵌った時のようにすっきりと、その伝説の意味するところが理解できた。
但し、前半の部分だけだ。
―無垢なる瞳持てし珊瑚姫―
パールの髪は珊瑚色だ。あの魂をを純粋無垢と言わずして、どこにその言葉の使い道があると言うのだ。珊瑚姫というのはパールのことに違いない。
―その魂以て、我らに勇者遣わしめ、海人の守りとならしめり―
不本意ながら自分は勇者と呼ばれている。トリトニアを守る青の剣の守人として現在ここにいるのは、パールの心に添っていたいからだ。
それは運命だったと言うのか?パールは自分をトリトニアに連れてくるために遣わされた使者だったのか?迷子になって一平の村に現れたのはただの偶然ではなかったのか?
「…少しはわかったかね…」
ザザは静かに一平を凝視し続けていた。声を掛けられるまでそれに気がつかぬほど、一平は己の想念に中にどっぷりと浸かり込んでいた。
「…まさか…そんな…」
そんな古い伝説に自分のことが謳われているなど考えてみたこともない。俄かには信じられないが、あまりにもその通り過ぎた。
「珊瑚姫とはパールティア王女、勇者とは一平、おぬしじゃ」
「……」
「こんなにぴったりと符号が一致しておる。もう疑うべくもない」
「婆さまは…このことを知って…⁉︎」
ザザは頷いた。
「伝説のことは知っとった。だがこれは伝説じゃ。かつて何百年も昔にこういうことがあった、と語っているのが伝説じゃ。予言ではない」
「……」
「しかしまた、歴史は繰り返す、とも言う…」
「……」
「珊瑚色の髪の娘などここには珍しくもないし、秘宝が隠されているという秘儀は王家には存在しない。わしは今日これまでこの伝説にこれからの意味があろうとは思いもよらなんだ」
「これからの意味?」
「王女は勇者をここへ遣わした。文字通り、海人の守りと成した」
「オレはまだ何も守ってなど…」
一平はまだ就任して間もない。大きな仕事などひとつもこなしていない。
「青の剣を守っておる。就任前にもレレスク軍を打ち破った実績がある。これからどんな敵がトリトニアを襲うやも知れぬ。それを承知でおぬしは守人となったはず」
「……」
「予言はまるきりのでたらめではない。どこかに根拠がある。自信を持つがいい。おぬしは伝説にこれと定められた英雄なのじゃ」
「婆さま…」
「本題はこれからじゃ。伝説はこう続く。『勇者に至福へと導かれし時、徴生まれ出で、秘宝によりて人々を遍く癒さんとす』」
ザザは唱え、自身で解説した。
「わしはこう解釈する。婚姻で結ばれた勇者と珊瑚姫の間に何らかの形で徴が現れる。生まれ出で、と言うからには子どもかもしれぬ。が、今の時点ではそうではないだろうとわしは思う。伝説で言うこの『徴』こそが、王女の額に現れた刻印そのものではないのだろうか」
ザザの解釈に異を唱えられる根拠は見つけることができなかった。まさしくその通りだ。幸福の絶頂に到達して初めて、徴はパールの上に『生まれ出た』のだ。
―どうしよう?―
一平がまさに思ったのはそれだった。
伝説が現実になりつつあるのはわかった。自分たちがその当事者であることも信じられないがよしとしよう。だが何のために?なぜこういうことが起こるのだ?この伝説はどこへ向かって進もうとしているのか。そのために自分は、パールは、何をしたらいいのだろう。どうすればいいのだ?
「徴とは…徴と言うからには…何かの兆候なのですよね?」
―秘宝によりて、人々を遍く癒さんとす―
伝説の結びの一節が思い浮かぶ。
「秘宝とは…何なのでしょう?トリトニアに秘宝などないと婆さまは言われましたが、では一体何を指して秘宝だと?それにパールには確かに癒しの力はありますが、人々を遍く癒すなんていう大それたことができるような体力はないんです」
「わしには、わからん…。王女の力が何かの助けを得て拡大されるのではないかという想像ぐらいしかできん」
ザザは左右に首を振った。
「じゃあ…じゃあ…オレはどうすればいいんですか?結局何もわからない。目的も、起こるべき未来も、守るべきものも、何もわからないのでは何もできやしない。そんな運命に定められるのなら、何かの道標を提示してくれたって…」
一平は動揺し、早口でまくし立てた。ザザに食ってかかっても意味ないことは頭ではわかっていた。が、誰かにぶつけねばおかしくなってしまいそうだった。
「…では尋ねる。…勇者どのはこの伝説を知る前は何を目標に生きてこられた?」
「え…それは…」
自分が何者なのか知りたい。かわいいパールを守りたい。愛する人のいるトリトニアの平和を維持したい。一平の望みはその三点に集約されていた。
「その目標は今後は捨て去ってしまうおつもりか?」
―まさか。そんなことは考えられない―
「ならば、何ら変わることはない。おぬしの望みに沿って自分らしく生きなされ。伝説の言葉に惑わされるでない」
「婆さま…」
「こういうものには曖昧な言い回しがつきものじゃ。簡単に読み取れる部分もあろうが、隠されていたり、裏の意味があったりもする。大体これから起こることが全てわかってしまったら面白くないではないか。なんとつまらない世の中になることよ」
そう言ってザザはにやりと笑った。
「ただ…王女の徴のことは当分黙っていた方がいいだろうな。伝説のことを思い出し、現状と照らし合わせる輩、秘宝という言葉が入っているだけに、邪な気持ちで立ち入ってくる輩がいないとは限らんでな」
そうか。そういう可能性だってなくはないのだ。つまりはこの伝説を本気にする限り、パールは危険に晒されるかもしれないということなのだ。
はっと、一平は思った。
十四になったばかりの頃、パールは一度ガラリア王に攫われた。身体を調べてガラティスはパールにこう言ったのだ。
『あると聞いていた徴がどこにもない』と。
あの頃既に、この伝説を元に珊瑚姫になる者を探していた者がいたのだ。あの時はただ嫉妬の気持ちが勝り、深く詮索せずじまいだったが、もしあの時パールが手込めにされていたら、事態は大きく変わっていたかもしれなかった。
「婆さま…このことは…ご内密に…。お願い申し上げます」
一平は面を引き締めて言った。
「パールのことは…オレが命に賭けても守ります。無論徴のことも、誰にも知られたくありません。それで例え伝説の成就を阻むことになっても…人々が癒されなくて困るような結果になっても…。オレにできることは…したいのは…パールを守ることです。…それで…よろしいのですね?」
「わしに許可を求めることではなかろうよ。おぬしにはおぬしの、わしにはわしの正義があり、夢がある。それを非難することは王にすら許されておらんのじゃ」
一平の目にはもう迷いの色はなかった。伝説という甚だ不確かな根拠ではあったが、一平の疑問に答えをくれ、するべき道を提示してくれた。
ザザに心からの礼を述べ、深く頭を下げて、一平は踵を返した。
国王に報告に行くつもりだった。




