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第十一章 初夜

 宴が終わって新しい部屋へと戻ってきた頃にはもう夜半を回っていた。

 二人に新しく割り当てられたのは、王宮の一部ではあるが、オスカー王やキンタ王子の住まいとは別棟である。王宮の中央に位置する主宮には赤の剣の守人の係累、つまり王族が住まい、その両側に立つ棟、左宮に白の剣の守人、右宮に青の剣の守人が生活する。一平とパールの二人は右宮の一角に用意された私室へと揃って足を踏み入れた。

 今日は守人となるための儀式と同時に二人の結婚式が行われ、お披露目の宴が華やかに開催された。長時間に及ぶ公式行事をつつがなくこなし、緊張と興奮の連続であった一日を終えれば、後は心地好い眠りに就くだけである。


 私室に今までの倍以上はあろうかという大きさの貝の寝台が設えられていた。

 疲れきったパールはその大きさに喜び、ごろりと身を投げ出した。

「気持ちいーい」

 その様子を見て一平が言う。

「疲れたろう?」

「うん…ちょっと…」

 柔らかい貝の肉に顔を埋めてパールは答えた。

「…眠いのか?」

 また一平が尋ねる。

「少ぉし…ね…」

 即答したパールはちょっと考え、また言った。

「でも…パールまだ寝ない。…もったいないもん…」

「もったいない?」

「だって…せっかく一平ちゃんと二人でいられるのに、寝ちゃったらもったいないもの」


 嬉しいことを言ってくれる。でも一平はそうは言わない。

「いつだって、そばにいてやってるじゃないか」

 パールのためにそばにいてやっているのではない。一平の方がパールのそばにいたいのだ。そんなことは自分でも百も承知の上だった。

「そうじゃないの。違うの」

(何が違う?)

「… 二年ぶりだよ。一平ちゃんと、一緒に寝るの…」

(そういう意味か)

 でも二年前とは明らかに違うのだ。 



 パールはやっぱりまだわかってないのかなと、一平は失望を覚える。それなら今までと同じにしてやるしかないかと、半ば諦めかけて一平はパールの傍らへ進んだ。

 パールが身を起こして一平を引き寄せる。胸に凭れ掛かり、パールは言った。

「…ずうっと…こうしたかったの…」

(こうって?どうだ?)

「パールね…本当は、時々夜中に、一平ちゃんのお部屋の前まで行ってたの」

「え?」

「だって、寂しかったんだもの。ひとりで寝るのちょっと怖かったし…」

「なんだ。遠慮なんかしないで言えばよかったのに」


 口ではそう言うが、してくれないでよかった、と思う。そんなことをされていたら自分は何をしでかしていたかわからない。何の準備もできていないパールを押し倒して傷つけていたかもしれない。おまえは賢明だったぞと、パールを褒めてやりたいくらいだ。

「…しちゃいけないと思ったの…。お部屋が違うのには、意味があるんだなって…」

「……」

「でも、もういいの。これからはずっと、一平ちゃんと一緒なんでしょう?」

「ああ、そうだ」

「パール、一平ちゃんのお嫁さんになったんだもんね」

 そう言われると胸の奥がキュンと締め付けられる。パールのなりたいのは単なる『お嫁さん』だけなのか⁉︎

 一平にはもう待つことなどできそうになかった。彼は否定した。

「まだだ…」

「え?だって…」

「おまえはまだ、オレの妻になってない」

「……」


  パールは言葉に詰まった。ただ、一平の顔を見ていた。

  いつもと違う。一平の目がいつもよりずっと真剣で狂おしい。 一平の視線が痛くて、パールは目を背けたくなった。が、まるで見えない糸に絡め取られてしまったように、パールは一平の目から視線を外せなくなっていた。

「わかるか?オレの言う意味が…」

 一平が問うてくる。

 もう、パールは知っていた。一平が何を自分に望んでいるのかを。

 でも、頷けない。

「今からおまえをオレの妻にする。いいな⁉︎」

 まだ、だめだった。身体が動かない。

「おまえの身体、見せてくれるか…」

 切ないほどの思いが伝わってきた。一平の気持ちに応えたい。そう、パールは思った。

 一平の右の掌がパールの頬を包む。

「おまえが欲しい…」



 パールはするりと一平の腕から抜け出した。

 一平にとっては思いもよらぬ行動だ。いざ、これからという時になってなんだ、と戸惑わざるを得ない。

 一平に背を向けて、パールは着ていたドレスをはらりと脱ぎ捨てる。

 一平の前に長い珊瑚色の髪が誘うように揺らめいていた。

「パール…」

 呼ばれてパールは振り向いた。首だけ先に、それから全身を。

 わずかに頬を染め、胸の前で手を合わせて立っているパールの全身から、オパール色のオーラが立ち上っているようだった。


 ややあって、パールは言った。

「パール…変じゃない?」

(変なものか…)

 何を言ってるんだ。おまえほど汚れなく美しいものが他にいるもんか。そう、一平は目だけで言う。

「…ドキドキ…する?」

(当たり前じゃないか。オレの心臓を破裂させるつもりか?」

「…パール…どうすればいいの?」

 知識としてわかっていても、具体的にどうすればいいのかわからなかった。誰も、母ですら、そんなことを教えて教えてくれはしない。不安でたまらない中にも精一杯一平に応えようとするパールを、彼は黙って見つめ続けていた。大事なものを愛おしむ、慈愛たっぷりの眼差しで。


「おいで…」

 彼は言った。パールの前に、一平の大きな手が差し延べられている。何度も何度もパールに向かって繰り返されてきたその言葉の響きは、パールが初めて聞いた時と変わらず、少しも色褪せることなく響いてくる。日本語とトリトニア語の違いにもかかわらず。

 パールはその声に導かれるようにして再び一平の腕の中に戻った。

 一平がパールを抱き締める。そっと寝台に運び、身体を重ねる。

「オレの子を生め…」

「うん…」

 あらかじめ教えてもらう必要など何もないのだということを、パールは身をもって知っていった。



「どうして教えてくれなかったの?こんな素敵なこと…」

 一平の胸に身を寄せて安らぎながらパールは言った。こんなに気持ちいいのなら、もっと早く教えて欲しかった。言い換えるとそう責めているようにも聞こえる。

(今まで待たせたのはおまえの方じゃないか)

 一平はそう思ったが口に出しては言わなかった。その代わりにごまをするように言う。

「いくらでも教えてやるさ。おまえが望むなら…」

 一平はまっすぐパールの目を見て言っていた。

(もう嫌だと言っても聞いてやらないぞ。)

 心の中ではそう思った。


 望めばまたしてくれるのか、あの夢のような心地好さに。そうパールは理解した。思い出したらドキドキしてきた。

(もう一度してほしい)

 そう思うと同時に恥ずかしくなって、パールは一平の胸に顔を埋めた。

 そしてふと思った。

「…ドキドキするとしたくなることって…これのことだったの?」

「……」

 一平は答えない。

「あの時も…こうしたかったの?」

 パールの言うあの時がどの時なのか、一平にはよくわかっていた。が、そうだとはとても言えない。


 答えぬ一平の返事をその表情から読み取ろうとして、パールは顔を上げた。

 一平はパールを見ていたが、その瞳の奥にはあの時のパールが映っていた。ずっと変わることなく、彼はパールを愛してきた。その重みが今パールの心にのしかかる。

 ―ああ、そうか―

 パールは突然、腑に落ちた。

「ごめんね…、二年も…我慢させちゃったんだね…」

(二年だって?ばか言っちゃいけない)

 一平は心の中で否定した。そして伝えた。

「それは…大きな間違いだぞ」

(違うの?)

  パールが意外なという顔をする。

「二年じゃなくて、五年だ…」

 もう何も言うな、と、一平はパールの口を塞いでやった。自分の熱い唇で。



「パールって…変かなぁ…」

「…?…」

 いきなり何を言い出すのかと、一平は身を固くした。

「ずっと、ドキドキが止まらないの。こんなの初めてだよ…病気かなあ⁉︎」

 口調はのどかだが、パールは真剣だ。それがわかっているので、一平は吹き出さないようにするのが精一杯だった。

 相槌すら返ってこないので、パールは彷徨わせていた視線を一平の方に向ける。


 やっとのことで一平は言葉を口にする。

「そいつは…立派な『病気』だぞ」

「えっ⁉︎」

 病気と断定されてパールは青くなる。

「年頃になると大抵の奴はこれにやられる。実を言うとオレもかなり前からこの病に取り憑かれているんだ」

「一平ちゃんも?」

 それは大変だ。そんなことは知らなかった。何とかしなくっちゃ。自分だけならともかく、あんなに頑丈な一平ちゃんもだなんて、きっと質の悪い病気に違いないと、パールは不安そうに眉を顰めた。


「かなり厄介だぞ、これは。何しろお医師さまでも治せないくらいだからな」

「……」

 パールは発する言葉もない。お医師が治せないなんて、それでは絶望的ではないか。せっかく結婚したのに。赤ちゃんができたかもしれないのに不治の病なんて嫌だ。

「どうしよう…」

 本気で心配しているパールを面白そうに眺め、一平は言った。

「その病の名を教えてやろう。『恋の病』と言うんだ」

「へ?」


 パールがぽかんと口を開ける。

 一平の目が笑っている。

 ―恋の病?―

「あーっ!‼︎」

 揶揄われたのだと気づいてパールは大声を出す。と同時に一平もゲラゲラ声を立てて笑い出した。

「一平ちゃん!」

 さすがのパールも怒っている。

 本気で心配していたのだ。

 小さな拳が爆笑する一平の丸くなった背中を叩く。

「意地悪、意地悪!ずるいっ‼︎ばかあ」


 パールの抗議はかわいいものだ。一平の相手にしてきたどんな敵にも及ばない。その代わり、この抗議に反論することもできない。喧嘩とも言えないこの二人の喧嘩の勝者はいつもパールであった。一平が勝つわけにはいかないのだ。パールをやり込めたら最後、号泣攻撃に曝されることは必至だったから。負けるが勝ちという諺もある。

 パールの気の済むまで叩かれてから一平は言った。

「大体遅すぎるぞ、罹るのが」

 こっちは何年も前からドキドキさせられっぱなしなのだ。

 でも安心した。どうやらパールは一平のことを男として意識してくれているらしいと確信できて、一平はほっとした。

 パールの怒りを鎮めるのなんか簡単だ。押し倒してしまえばいい。やっと手に入れた切り札を使わない方があるかと、行使することにした。



 パールが目を開けると、三歩ほど離れた所に一平がいた。

 椅子の背を抱え込むようにして座り、こちらを優しい目で見つめている。

 パールは思わずにっこりした。

 目覚めた時、 一番に目に入ったものが一平の姿であることが嬉しかった。こんな気分は久しぶりだ。ここが新しく自分たちに与えられた右宮の一室であることも忘れ、大洋の只中で旅をしているような気がしていた。


「やっとお目覚めかい?眠り姫くん」

 大好きな人の大好きな声がする。

「…いつからそうやってたの?」

 一平はずっと自分の寝顔を眺めていたのだろうか。だったら嬉しい。けれどちょっぴり恥ずかしい。

「さあてな…。いつからだったかな…」

 しれっとした答えが返ってきた。一平にわからぬはずがない。正直に答えようとしないのは、ちょっとした仕返しだった。仕返しと言っても、何もパールが悪さをしたわけではない。がっかりしただけだ。


 と言うのも、三度目の契りの最中に、精魂尽き果てたパールが一足先に眠りについてしまったからだった。

 そのことを知った時、一平は呆然とした。嘘だろ?と思った。その直前まで、パールは一平のすることに呼応し、身も心も一体となることを喜んでいたのだから。あまりにも心地好すぎたのか、体力的についていけなかったのか、どちらにしても意外にすぎる新妻の反応に呆気にとられ、次いで苦笑した。いかにもパールらしいと、この初夜にしては手酷いとも言える所業をなせる妻を一層愛しく思った。


 

 そんな一平の複雑な心境を推し量ることなど思いもよらないで、パールはゆっくり起き上がる。何も身に付けていないことに気がついて、慌てて貝の肉を引き寄せた。

(そうだった…。パールは一平ちゃんのお嫁さんになったんだった…)

 眠りにつく前のことが急に思い出されて、パールは赤くなった。

「お…おはよう…」

 蚊の鳴くような声で朝の挨拶を口にする。

 これはパールらしくなかった。

 今更ながら恥じらっているパールが面白くて、一平は一層からかってみたくなった。

「いつまでそんな格好してるんだ?オレを誘惑してるのか?」

「ゆ…⁉︎」


 微塵も思わないことを言われてパールは絶句した。

 布団代わりの貝の肉の端から恨めしそうに目だけ出してパールは抗議する。

「…意地悪…」

 相変わらず子どもっぽい仕草だ。もうちょっとつつけば涙を溢してしまうかもしれない。一平はちょっとかわいそうになってパールに近寄った。彼はもうとうに衣服を整えていた。じきに八時(はちとき)の鐘が鳴る。普段は朝の食事は七時(ななとき)からだが、昨夜は遅くまで無礼講の宴だったため、一時間遅れの予定であった。


 いつだって一平が近づいてくれば大喜びで飛び出して行き、腕に絡んだり抱きついたりするパールだったが、この時ばかりは違った。一層深く身を潜めて、全てを包み込む眼差しから逃れて隠れようとする。

 怖いのではない。ただ、ひたすら恥ずかしいのだった。もう既に一平は起床して身嗜みを整えているというのに、妻であるはずの自分はまだのうのうとはしたない格好のまま横になっている。 旦那様のお支度を手伝うのを役目と教えられ、楽しみにしていたというのに初日からこの有様だ。穴があったら入りたいというのはこういう時の気持ちを言うのに違いないと、パールは惑乱する頭の隅で考えていた。


 一平が屈んでパールの耳元に囁いてきた。

「おはよう、奥さん」

 パールは横目で一平を見た。

 いたずらっ子のような瞳で一平が尋ねる。

「おはようのキスはしてくれないの?」

「する‼︎」

 即座にパールは答えていた。それはトリトニアに戻って以来二人の間で必ず交わされてきた習慣だった。パールは自分で決めたこの権利を誰にも譲る気はなかった。催促されてすることすら稀であった。

 自分のなりのことなどすっかり忘れて、パールは一平の顔に手を伸ばした。花びらのような唇がそっと一平に触れる。

 自分の頬に添えられた華奢な手を掴み、一平は奪うように口づけてから言った。

「…オレを置いてったお仕置きだ…」

(え?)

 何のことだろうとパールは思った。でも、何でもいい。こういうお仕置きならいくらされたっていいやと思って微笑んだ。



 パールは急いで朝食の支度を整えた。女官たちがある程度の準備まではしてくれている。パールは用意された食材を切り分け、盛り付ければいいだけだ。

 だいぶ上達したとは言え、パールは刃物の扱いが苦手だった。前からそうだが、あの刃の鋭さが怖いのだ。だから魚を捌くのもどうしても臆病になってしまう。とても一平のように大小様々な剣を振り回して身を守ったり敵を切り捨てたりすることはできなかった。その点でも彼はパールの尊敬に値する。

 

 それでも精一杯一生懸命バールは支度を整え、朝食を運んだ。

 途中でこけて一皿台無しにした。お付きの女官たちが慌てて庇い、新しいものと取り替えようとしたが、パールはうんと言わなかった。自分の不始末なのだから、自分で始末をつけると言う。要するに、自分の分としてお腹に収めるから構わないと言うのだ。

 これには女官たちも目を丸くし、それでは自分たちが上の者に叱られると抗議したが、パールは取り合わない。

「だって、もったいないじゃありませんの。私のために、大事な命を無駄にしたらそれこそバチが当たりましてよ」

 一平の前とはまるで別人のような気品と威厳を漂わせてこう言われると、誰にも異を唱えることはできなかった。恐れ多くも、パールは一応この右宮の女主人なのだ。


「ごめんね、一平ちゃん。こぼしちゃったんだ」

 その女主人は他意なく謝りながら夫の前に膳を置く。

「でも、パールが食べるから。一平ちゃんはこっちの綺麗なの食べてね」

 綺麗なのとは言っても、切り口はぐちゃぐちゃであまりお世辞にも綺麗とは言えないが、一平はそんなことを気にするような器ではない。生き残るためには見栄や気取りはむしろ邪魔なのだということを身を以て知っている。一平には、パールが自分のために何かしてくれるというだけで充分以上に幸せだったのだ。

 

「もっと綺麗に切れればおいしいのにね」

 自分で見ていても興醒めだったのだろう。パールはぽつりとそんな感想を漏らした。

「いや…うまいよ。でも…」

 一平は続けようとして一瞬躊躇した。

 やっぱりどこか変なのかと、パールが不安になっていると彼は言った。

昨夜(ゆうべ)のおまえの方が…おいしかった…」

 パールがきょとんとする。意味がよくわからないらしい。

 言ってしまってから、一平は言うんじゃなかったと後悔する。

 ここでいつものごとく説明を求められては堪らない。

「ほら、こいつも食え」

 一平はごまかすために、自分の綺麗な切り身をパールの皿に移した。

 パールの大好きな蛸だ。パールの気を削ぐには最適の一品だった。

「わ。いいの?」

 大喜びでパールは飛びついた。


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