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婚約破棄?では実況いたしますわ、国中に

作者: 百鬼清風

 香草と柑橘の匂いが混ざる初夏の庭園。王宮の芝は刈りそろえられ、真珠色のテントの下では貴族たちが笑い、音楽家の弦が風にほどけていた。伯爵令嬢エリサは、銀盆の上で光る水鏡の端にそっと触れ、反応の符が正しく浮かぶのを確かめる。視線の先、王太子アレッサンドロが緋の外套を翻し、中央の舞台に上がった。儀礼司が胸いっぱいに空気を吸い込む。合図だ。


「本日をもって、我はエリサ・ヴァルデリ伯爵令嬢との婚約を解消する」


 弦の音が一本、途中で切れた。笑い声が止む。青い鳥がテントの梁から飛び立ち、空へ消えた。エリサは背すじを伸ばし、息を一度だけ細く吐き出す。心は静かだ。準備を重ねてきた者だけが持てる静けさ。視界の端で、蜂蜜色の髪の令嬢――リナがあからさまに勝ち誇った目をする。


 侍女のミーナが袖を引く。「今ここで反論を」と唇が言う。エリサはわずかに首を振った。まだ早い。人の心は驚きの直後、耳よりも噂へ傾く。この瞬間に何を言っても、ただの感情に聞こえる。だから――彼女は一歩、緋の絨毯の内側へ進み、会釈した。


「ご宣言、確かに承りました。では今夜の舞踏会にて、婚約破棄の理由に関わる真実を、王都の皆さまと実況で共有いたします」


 庭園がざわめき、数十の扇が同時にわずかに開く。王太子の眉がぴくりと動いた。


「実況、だと? 滑稽な見世物で王家を愚弄するつもりか」


 緋外套の鋭い声が真昼の空を切り裂く。エリサは目を伏せ、礼を深める。


「陛下の御名を傷つける意図は一切ございません。ただ、真実は光に置くべきだと学んで参りました。私個人の感情ではなく、記録に基づく説明を」


 視線の輪が彼女を囲む。その外縁で、長身の男が腕を組んだ。鋼色の瞳。辺境伯セルジオ。戦列の指揮官として名高いが、王都では滅多に姿を見せない。彼の視線だけが、好奇心ではなく、評価の重みを帯びていた。


 王太子は口角をつり上げる。その横に寄り添うリナが上目づかいに囁いた。


「ご自分の無能を見世物にして、同情でも買うおつもり? 可哀想な方」


 ミーナの肩が怒りで震える。エリサは彼女の手を軽く握ってなだめると、会釈を終えて優雅に退いた。芝の上で裾がひるがえり、静かな決意が足もとに影を引く。


 控室。薄青の壁に菫の刺繍。窓の外では楽団が調律を再開していた。テーブルには小型の水鏡が三面、重ねて置かれている。フレームの内側で、術式の環が微かに回転していた。


「反応良好。遅延は最大でも三息以内」


 エリサは指先で水面を弾き、小さく頷く。ミーナが心配そうに覗き込んだ。


「本当にやるんですか、あの人たちを相手に……」


「やるわ。今日の私は、“泣かない女”でなければならない。泣くのは、全部片付いた後にする」


 ミーナは目を潤ませたまま、袖口をきゅっと結び直した。


「でも、王太子殿下は“私的流用は無い”って、今朝も堂々と……」


「否定は予想どおり。否定が強いほど、対照がはっきり映る」


 エリサは書類鞄を開き、細長い封筒と、宝飾店の領収書の写しと、取引記録の控えを取り出す。それぞれに精霊書記官の検証印が朱で押されている。手の中で紙が鳴る音が、自分の鼓動と重なった。


「ミーナ、第二水鏡の音声入力の調整をお願い。今夜は“言葉”が主役になる」


「了解です。……でも、どうして今夜の舞踏会なんです? 今、ここで出した方が、楽では」


「簡単な勝利は、簡単に忘れられる。舞踏会は王都中の視線が集まる。記録は水鏡回線で各都市へ飛ばせる。せっかく真実を見せるなら、王都の天井ではなく、空に広げたい」


 ミーナはふっと笑った。


「やっぱりお嬢さまは、強い」


「強がりよ。でも、強がりだって、やると決めたら骨が通る」


 そのとき、扉が二度、控えめに叩かれた。入ってきたのは、灰の外套に銀の留め具――神殿書記官の若者だった。


「伯爵令嬢。ご依頼の件、印影と写しが揃いました。改竄の痕跡は無し。神殿名義で真正を証明できます」


 彼は丁寧に包まれた布を差し出す。エリサは受け取り、胸の前で小さく祈礼した。


「助かります。危険が及ぶかもしれませんので、今夜は護衛の列の内側に」


「はい。……お噂は聞いています。勇気に神の加護が」


 若い書記官が去ると、ミーナが首をかしげる。


「神殿まで巻き込んで、殿下は黙ってますかね」


「黙らないでしょうね。だから、もう一つの歯止めも置く」


 エリサは机の引き出しから小さな木箱を取り出した。中には、王都でただ一つ、辺境伯家が持つ“許可印”の蝋封の写しが入っている。昼前、庭の一角で、鋼色の瞳の男は短く言った――“必要なら、貸そう”。


 控室を出ると、陽が傾き始めていた。庭園の色が蜂蜜色に変わり、木陰が長く伸びる。通路の角で、エリサは足を止めた。緋の外套。王太子が一人、背を向けている。彼の周囲の空気は、水面に沈む刃物のように冷たい。気づいたらしい。彼は振り返り、笑みを作った。


「今さら取り消しを願うなら、聞いてやらんでもない。条件はあるがな」


「条件?」


「お前の“実況”とやらを中止することだ。無意味な悪あがきは王家の面目を傷つける。お前の父上も領地のために賢明な選択をするだろう」


 エリサはまばたきすらせず、彼の目を見る。


「殿下。私は殿下の面目のために婚約者になったのではありません。国の秩序のために、嘘を嘘のままにはしておけないだけです」


「身の程を知れ」


「身の程は、記録が教えてくれます」


 彼女が通り過ぎようとしたとき、肩がわずかに触れた。彼の袖に、甘い香りが残っている。同じ香りが、さきほどリナの衣にもまとわりついていた。ミーナが息を呑む。エリサは立ち止まらない。歩幅を変えず、次の角を曲がった。


 舞踏会の準備は、日が沈む前に最終段階へ入る。大広間は磨き上げられ、天井の水晶燭台にはすでに小さな火が宿っている。使用人たちが白い手袋で手際よく椅子を並べ、赤い絨毯を整える。エリサは舞台袖に設えた小卓に水鏡を三面、扇形に配置した。第一水鏡は映像、第二は音声、第三は補助資料。視線の移動だけで切替ができるよう、枠に目印の銀線を入れておく。


 そこに、低い靴音が近づいた。


「準備は進んでいるようだな」


 振り向けば、辺境伯セルジオ。彼は大広間をぐるりと見まわし、やがて水鏡へ視線を落とす。


「王都の回線は混雑する。今夜は観客が多い。遅延を見越して三呼吸置け」


「助言、感謝します。……辺境伯様もご覧に?」


「必要がある」


 それだけ言うと、彼はわずかに眉根を寄せた。


「王太子殿下の側近の動きが荒い。嫌がらせ程度だが、手は出る。護衛を回す」


「私の勝利が“殿下の負け”だけで終わらないように気を配ります」


 セルジオの目が、少しだけ柔らかくなった気がした。


「勝ち方を知っている女は少ない。負け方を知っている男は、もっと少ない」


「では今夜、両方に授業をしましょう」


 言うと、彼は珍しく笑った。氷面に日が射すような、短い笑いだった。


 夕鐘が鳴り、最初の客が到着する。色とりどりの衣が渦を巻き、音楽が息を吹き返す。エリサは背筋を伸ばし、水鏡に指を置いた。と、その瞬間――控えの扉が乱暴に開き、分厚い香水の匂いが押し寄せる。リナだ。彼女はわざとらしく鼻で笑った。


「まだ間に合うわよ、やめるなら。あなた、社交界で生きていけなくなる」


「生きていけなくなるのは、嘘の方です」


「強がって。殿下はあなたを庇わない。今夜、あなたは独りよ」


「独りじゃないわ。記録がいる」


 リナが口を歪めたとき、背後の回廊から衛兵の影が伸びた。セルジオが顎で合図すると、衛兵は静かに扉を閉める。リナは肩をすくめ、踵を返した。残り香だけが甘く重く漂う。


 ミーナが震える手で、第二水鏡の縁をなぞる。


「お嬢さま、本当に……」


「ええ。始めましょう」


 楽団が第一曲を終え、司会の声が高く響く。エリサは舞台の中央へ進み、観衆に向き直った。胸の奥で、何かが静かに“決まる”。恐れはある。だが恐れの下に、硬い床板のような確信がある。


「皆さま。先ほど、王太子殿下より私への婚約破棄の宣言がございました。理由は“私の不品行”。その真偽を、今夜、皆さまと実況で確かめます」


 視線が一斉に前のめりになる。エリサは第一水鏡に触れた。水面が開き、青銀の光が大広間へ広がる。映し出されたのは、今日の朝――王城の私室へ続く廊の角。緋の外套の一部、蜂蜜色の髪。贈答台の上の、王家の印の入った首飾り箱。箱は開き、白い手が中の宝飾をつまみ上げた。映像はしばらく引きで、やがてゆっくり寄る。印章の紋、受取人の署名。


 ざわめき。誰かが息を呑む音。エリサは第二水鏡に指を置いた。


「音声、入ります」


 水面が波打ち、柔らかなささやきが広がる。――“これは、あなたに似合う”“王子が私的に贈るのは禁じられている” “いいえ、誰にも言わないわ”。声は二つ。男と女。どちらにも検証印の赤が薄く滲む。


 エリサは観衆の反応を待たず、第三水鏡を開いた。宝飾店の帳面の写し。日付、品名、支払い方法。最後の欄には、受取確認の署名。映像の署名と重ねると、筆癖がぴたりと一致する。


「以上は序奏に過ぎません。今夜の“本編”は、神殿書記官による公開鑑定ののち、皆さまの前で続けます」


 ざわ、と風が走ったように人心が揺れた。恐れ、驚き、興奮、嗜虐、正義感。それらが混ざり、熱となって上がっていく。エリサは一礼した。背後で、セルジオが小さく片手を上げるのが見えた。準備は揃った。


 王太子は群衆を割って前へ出た。口元は笑っているが、こめかみには血が集まっている。


「小娘の手品だ。証拠など、いくらでもでっちあげられる」


「だからこそ、公開鑑定を。――神殿書記官、お願いします」


 扉が開き、灰の外套が数名入ってくる。若い書記官が前へ出て、深く礼をした。


「これより神名において、映像と音声、文書の真正を確認いたします」


 庭園で始まった断絶は、今、舞踏会で形を取ろうとしている。エリサは水鏡の縁に指を置いたまま、胸の奥に言葉を一つだけ落とした――泣くのは、全部片付いてから。


 静かに、夜が開く。彼女の“実況”は、ここからだ。


 舞踏会が始まるまで、まだ数刻ある。エリサは自室に戻ると、窓を大きく開け、涼しい風で頭の熱を冷ました。机の上には、色違いの紐で綴じた封筒が四つ。赤は“金”、青は“人”、黒は“言葉”、白は“物”。視る順番、提示する順番、詰める順番。すべて紙の色で身体に覚え込ませている。


 彼女は一番上の赤い紐を解く。現れるのは入出金の写しと、王宮会計の月次報。書記官に依頼して取った謄写の端は真っ直ぐで、その余白にはエリサ自身の走り書きが鉛色に並んでいる――数字の癖、繰り返し現れる名義、季節ごとの波。


 彼女はペンをとり、すっと線を引いた。“王室備品維持費”の支出が、ここ三ヶ月だけ不自然に膨らんでいる。


「維持費、なのに、購入記録がある」


 独り言は、考えの速度を一定にするためのメトロノームだ。エリサは青い封筒に手を伸ばし、伝書鷹の航跡記録を広げた。王城から宝飾店へ、同じ時間帯に三度飛んだ線。帰りは宝飾店から城の“私室回廊”へ直行。公務窓口を通っていない。


 紙の上で、彼女の指先が止まる。航跡の“第二便”の時間、その瞬間の匂いが脳裏によみがえる。蜂蜜。朝の庭で、王太子の袖からこぼれた甘香が、リナの衣の香りと重なっていた。


「匂いは記録にならない。だから、数字と線で囲う」


 彼女は黒い封筒を開け、薄紙に包まれた“音”を取り出した。水晶片に刻まれた囁き。神殿の検証印が赤く灯っている。封筒の底には、検証手続きの受理票もある。書記官は若いが仕事が速く、やり取りは端的だった。彼の言葉を、エリサははっきり覚えている――

 

「偽は、沈黙の底で泡立ちます。真は、光の下で静かです」

 

 その言葉の余韻が部屋から消えたころ、扉が叩かれた。ミーナが大きな盆を抱えて入ってくる。盆の上には、水鏡の予備、魔力充填薬、乾いた布、短い黒檀の棒。

 

「棒は、何に?」

 

「鍵穴に詰める。裏からこじ開けられないようにね」

 

「そこまで……」

 

「“そこまで”やっても、足りない夜がある」

 

 ミーナはため息をひとつ吐くと、机に近づいた。


「それにしても、お嬢さま。数字の海、よく溺れませんね」

 

「泳ぎ方は父に叩き込まれたの。領地の出納、税の配分、手形の回し。数字は、嘘をつかない代わりに、見ない者には何も語らない」

 

「見える人にしか、見えない、と」

 

「だから、見えるまで見つめる」

 

 エリサは白い封筒を開いた。品目ごとの“現物”――宝飾店の領収書の写し、受け取りの署名、王室備品の“管理札”の番号。指でなぞると、筆圧の微妙な揺れまで伝わってくる。書いた者の手が、何を恐れ、何に急いでいたか、紙は薄く語る。


 正午の鐘が鳴る。遠くの塔で鐘の音が重なり、王都がゆっくり午後へ傾いていく。エリサは一式を革鞄に収め、最後に水鏡三面の結界を指で確かめた。第一水鏡の縁は“映像”、第二は“音声”、第三は“資料”。枠の内側に、ごく細い銀の線――“視線切替”の印が走っている。


「ミーナ、父に……今夜のことを知らせるのは、舞踏会の開始と同時に。私からではなく、事実だけを伝えて」


「お嬢さまが心配で倒れますよ」


「倒れても、記録は倒れない」


 ミーナは苦笑し、盆を抱え直した。


「……それ、名言にしたいところですけど、怖いです」


「怖い? 正しい恐れは、刃を鈍らせない。むしろ研ぐ」


 ふと、足音。廊下に、重さで区別のつく靴音が近づく。規則正しく、静かに重い。扉がノックされた。

 

「入れ」

 

 返事の声は短く、低い。扉が開き、鋼の瞳が影を落とした。辺境伯セルジオ。昼の庭よりもさらに無駄が削がれている。肩章に泥も埃もないのに、風の匂いがした。

 

「少し、時間をもらう」

 

「どうぞ」

 

 彼は室内をひと巡り見て、水鏡と封筒の配置に目を止めた。

 

「戦場と同じだ。出入口、遮蔽物、退路。視線の高さまで計算されている」

 

「私の戦場は、紙の上です」

 

「紙の上の勝利は、血を流さずに終わる」

 

「終わらせたい。だから今夜は血の匂いを舞台に上げない」

 

 セルジオは頷くと、外套の内から小箱を取り出した。金の蝋と、辺境伯家の許可印。

 

「必要なら使え。王都の衛兵が躊躇する場面で、これが通行手形になる」

 

「お借りします。ただ、使わずに済めば一番いい」

 

「済まぬように、敵が仕掛けてくる」


「仕掛けるなら、光の中でしてもらう」


 言葉の刃が軽く触れ合って、やわらかく火花が散る。セルジオは窓の外へ顎をしゃくった。王宮の別棟から、黒いマントの影が移動していくのが見える。


「殿下の側近だ。噂の火消しに走っている。『偽の鑑定印が出回っている』などと吹聴するだろう」


「だから本物を早めに見せる。神殿書記官は、今夜、舞踏会で“公開鑑定”を」


「護衛を回す。神殿の灰外套には、こちらの盾を二人つけた」


「感謝します。……辺境伯様」


「なんだ」


「申し上げにくいのですが、舞台上での発言は、最小限で。今夜は“私の戦場”です」


 彼は一拍置いて、口角だけで笑った。


「命令に聞こえる」


「お願いです」

 

「了解した」

 

 その短い合意の手触りが、想像以上に強かった。ミーナが目を丸くして二人を見比べる。セルジオは小箱を机に置くと、踵を返した。扉へ向かう直前、彼はふと立ち止まり、振り向かずに言った。


「君には“敗者への矜持”があるか」

 

「あります。“勝者の慢心”より、遥かに役に立つ」

 

「なら、勝て」


 扉が閉まる。音が、肯定の句点のように落ちた。


 日が傾く。影が長くなり、窓の格子が机の上に斜めの縞を刻む。エリサは封筒をもう一度締め直し、革鞄に納める。心の中で、順番を復唱した。赤、青、黒、白。提示の切り替え、観客の呼吸、反論の速度。すべて、リハーサル済みだ。


 廊下に出ると、若い神殿書記官が待っていた。灰の外套が夕光で薄金に見える。

 

「先ほどはどうも」

 

「こちらこそ。……検証印の“公開使用”に関する文言、再確認したい」

 

「はい。“神名において真正と認む”――式次第では、最初の宣言で足ります。追加で“私印の供応疑いなし”をつけましょう。敵はそこを突くはずですから」

 

「助かる。君の盾は二人つく。舞台上で私の左後ろに」

 

「了解です」

 

 彼は一礼し、足早に去った。灰外套の背が角を曲がると、廊下の向こうから別の影が歩いてくる。蜂蜜色の髪。リナだ。今日は昼よりも香水が濃い。


「ごきげんよう、エリサ嬢」

 

「ごきげんよう」

 

「殿下は、お優しいわ。これ以上、惨めな真似はやめて、と仰っていたの。あなたもまだ引き返せる」

 

「真実は、引き返せない」

 

「意地になると老けるわよ?」

 

「老けるのが怖いのは、嘘の側」

 

 リナの笑みが一瞬だけ凍った。すぐに、甘さで覆いなおす。


「あなたは、ほんとうに、かわいげがない」

 

「かわいげは、私に求める場所ではないわ」

 

「殿下は、あなたのそういうところが嫌いだったのよ」

 

「嫌いで構わない。“好かれるため”に真実を曲げるほど、私は器用じゃない」

 

 リナは肩をすくめ、軽く礼をしてすれ違う。香りが長い尾を引く。エリサは鼻腔に残る甘さを、窓からの風で追い出した。


 夕餉の鐘が鳴った。大広間に向かうまでの回廊に、人の流れができはじめる。貴族たちの視線が、昼の宣言から今夜の“何か”へ、期待と悪意と好奇心でひりつく。エリサは歩幅を崩さず、水鏡を抱えたミーナと並んだ。

 

「お嬢さま」

 

「うん」

 

「わたし、怖いです。でも、わたし、お嬢さまが“泣くのは全部片付いてから”って言ったの、すきです」

 

「ありがとう。ミーナが横にいると、私、泣きにくい」

 

「泣かせません」

 

 二人の靴音が、鏡のような床に小さくはねた。階段を降りると、舞台袖が近い。そこには既に、臨時の机や布幕、音響の符を調整する少年たちが忙しく立ち働いている。エリサは水鏡三面を卓に据え、銀の線を指で撫でた。視線の動きで切り替えが滑るように、ほんの僅か角度を修正する。

 

「ミーナ。最悪の予行。――突発停電」

 

「了解」

 

 ミーナが指を鳴らす。卓上の灯がふっと落ち、暗さが一瞬、舞台袖を満たす。エリサは迷いなく黒檀の棒で卓下の“補助灯”の符を軽く叩いた。淡い光が戻る。第二水鏡の音声は途切れず、第三水鏡の資料は一瞬ノイズの線を走らせただけで安定した。

 

「次。――鍵破り」


「了解」

 

 ミーナが扉の鍵に黒檀を差し、回す。小さく“詰める”音。外から無理に押されても、内側で止まる構造だ。

 

「次。――視線妨害」

 

「了解」

 

 ミーナが袖から取り出した透過布を水鏡にかぶせる。布は外見上ただの覆いだが、近くにいる者にだけ映像を通す。“見るべき人にだけ見せる”仕掛け。大広間の観客には問題なく映り、舞台袖で覗き込もうとする者の視界には“白”しか映らない。

 

「よし」


 エリサは深く息を吸った。最上段の窓から、空が群青に変わりはじめている。夜が来る。夜は、真実の色がいちばん綺麗に見える時間だ。


 楽団の試奏が止み、司会者が台本をめくる音がする。神殿書記官たちが袖に入り、灰の外套の裾を整える。衛兵の影が位置に着く。すべてが、ほんの少しずつ、彼女が想定した“配置”に収束していく。


 机の端に置かれた、小さな石がわずかに震えた。エリサの父が領地から送ってきた“応答石”だ。彼女は迷わず手に取る。微かな光が、石の内に宿る。音は出ない。ただ、父の癖のある指で叩いたような光が、短く二度、長く一度。

 

「……大丈夫。全部、想定内」

 

 ミーナが目を細める。

 

「お父上、きっと酒をあけて待ってます」

 

「終わったら、一緒に飲む」

 

「泣いて、飲む」

 

「泣いて、笑って、飲む」

 

 二人で顔を見合わせ、小さく笑った。こんな一瞬が、戦の前の心を支える。


 遠くで、鐘が三つ。夜の始まりを告げる合図だ。エリサは水鏡に指を添え、胸の奥で合図を一つ打つ。赤、青、黒、白――揃っている。王都の空は高い。彼女はその空に向かって、真実の矢を番えた。

 

「行こう」

 

 言葉は、ほとんど息に近かった。けれど、十分だった。


 舞踏会の扉が開く。光と音と視線が、押し寄せてくる。エリサは一歩、前へ出た。


 大広間の扉が開いた瞬間、空気が変わった。

 光、音、香り、視線。すべてが“見世物”を待っている。

 その中心に、自分が立つ――エリサは深呼吸ひとつで、すべてを呑み込んだ。


「入場を確認、即時回線つながります」


 侍女ミーナが早口で囁く。

 水鏡三面はすでに卓上に配置され、符の環がゆっくりと回転している。

 遅延は三息以内。出力光量、良好。音声結界、正常。


「……よし。もう後戻りしない」


「お嬢さま、背すじ。いつもの“査察官の角度”で」


「了解」


 エリサは顎を引き、背すじを一直線に伸ばした。

 舞台の上で、司会役の老廷臣が朗々と声を響かせる。


「――本日の舞踏会は、王都と各都市水鏡回線を接続し、同時中継を行います」


 ざわめき。扇がばさばさと一斉に揺れる。

 王都の舞踏会を“実況”など、前代未聞だ。


 だがこの場を作ったのは、他ならぬ王太子アレッサンドロ本人だ。

 昼の庭園での一方的な婚約破棄――その結末を“みんなで見届けよう”と、彼は宣言してしまったのだ。

 油を撒いたのは自分。火をつけるのはエリサ。それだけの話。


「では――エリサ・ヴァルデリ伯爵令嬢。ご発言を」


 老廷臣が退き、視線の奔流がエリサに向いた。

 王太子も、リナも、ひときわ鮮やかな緋色と蜂蜜色でこちらを見ている。


「ご覧の皆さま。今朝、殿下より“私の不品行”を理由とした婚約破棄の宣言がありました」


 ざわ……


「よって今夜、真実を可視化いたします。――実況中継で」


 息を呑む音が、波のように広がった。


「第一水鏡、映像開始」


 エリサが指先で水面を弾く。

 青白い光が大広間に広がり、床と柱に投影されていく。


 映し出されたのは、昼前の王城私室回廊。

 緋の外套――王太子。

 蜂蜜色の髪――リナ。

 二人は贈答台の前で笑い、王家紋章入りの箱を開き、宝飾を手にとっていた。


 観衆が一斉にどよめく。


「王家備品室が管理する宝飾が、私的な授受に使われています。まずは、これが“金”の証拠」


 王太子が前のめりに叫ぶ。


「ねつ造だッ! どこで撮った! 誰が!」


「撮影は、王城内に常設されている品目監査用の水鏡です。映像改竄なし。証明印はこちら」


 エリサが第二水鏡を起動し、印章の赤を拡大表示する。

 印は、王室会計局の正式なものだ。


 王太子の顔が引きつる。

 リナの手が、ドレスの裾を握りしめて震えた。


「続きまして――“言葉”の証拠。音声を流します」


 第二水鏡が淡く光る。


『……あなたに似合う宝石ですわ』『誰にも言わなければ問題ない』『王家の品でも、殿下の物ですもの』


 囁く声。笑い声。

 精霊鑑定の赤い印章が音声に浮かぶ――真正確定。


 観衆がどよめきから嘲笑へ変わる。

 扇で口を隠しながら、目だけが愉悦で細まっていく。


「証拠3。――“紙”です」


 第三水鏡に切り替わる。

 宝飾店の台帳写し。日付。金額。受取人の署名。

 王太子の筆跡と、映像の署名が重ねて拡大される。


「殿下の署名と一致。鑑定ずみ」


 ここで王太子が叫ぶ。


「ふざけるなッ! 映像も音声も偽物! 署名も捏造だ!」


 エリサ、即答。


「では――神殿書記官による公開鑑定を。すでに会場入りしています」


 灰外套の書記官たちが進み出る。

 場が一気に緊張に包まれる。


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

 リナが声を上げた。「こんなの罠よ! 私が殿下から贈られただけで、悪いことなんて――」


「王家備品を“私的贈与”すること自体が違法です。知らなかったと言うなら、それは“無知による共犯”です」


 リナの顔から血の気が引く。

 周囲の貴族たちの扇が、一斉に――ぱんっと閉じられた。

 それは社交界における“断罪の音”。


 エリサは一歩下がり、短く告げた。


「真実は、光の下で裁かれます。感情は不要です。必要なのは、記録と確認のみ」


 王太子の顔が怒りで染まる。

 しかし――逃げ場は、もうどこにもない。


「書記官、鑑定を」


「了解。――精霊よ、真を照らせ」


 灰外套が詠唱を始め、三つの水鏡が同時に赤金の光を帯びる。


 ――沈黙。


 次の瞬間、書記官が宣言する。


「真正、改竄なし」


 大広間が爆発したように沸いた。

 ざまぁ、ざまぁ、ざまぁ――声なき歓声が床まで震わせる。


 その中心でエリサは、ただ一言だけ述べた。


「――実況、以上です」


 そして、礼も笑みもなく、静かに視線を下げた。


 その無表情こそ、完全勝利の宣言だった。


 鑑定結果――真正、改竄なし。

 その宣言が落ちたあとも、広間の熱はしばらく波打っていた。拍手、失笑、囁き、ため息。音の粒が天井の水晶に当たって、きらきらと砕ける。


「――静粛に」


 老廷臣の声が届かない。群衆は今日という“見世物”をまだ終わらせたくないのだ。

 そこへ、靴音が一つ。重く、少ない。王の入場を告げる金の槌が壁を叩き、音が空気の骨を正した。


「御前にて、無用の喧噪は許さぬ」


 低い声が響いた。国王は装飾を削ぎ落とした黒の軍礼装。視線だけで広間の温度を下げる。

 王太子は青ざめた顔で膝を折ろうとして――ふらつき、側近に支えられた。


「殿下、こちらへ……!」


 側近の一人がエリサの水鏡へ手を伸ばす。

 その手首を、別の影ががっちり掴んだ。辺境伯セルジオだ。動きは短く正確で、刃ではなく鉄のように固い。


「公衆の前での記録物への接触は、妨害に該当する。退け」


「し、しかし、これは王家の――」


「王家の物なら、なおのこと手続きで扱え」


 側近は掴まれたまま、王へ助けを求めるように視線を泳がせた。

 王はほんの一瞬、エリサの方へ視線を移す。それだけで判断は済んだらしい。


「記録は残せ。廷臣は筆記を。――本日の一切、宮廷記録として保存する」


 ざわめきが別の層で起きる。記録は、もう“消せないもの”になった。


「王よ! これは罠だ! 偽りだ! あの女は我らを貶めるために――」


 王太子が叫んだ。息は荒く、言葉は感情で不安定だ。

 王は無表情のまま、灰外套へ顎をしゃくる。書記官が一歩進み、再び、短く宣言する。


「真正、改竄なし。――繰り返す」


 王太子の膝から力が抜けた。側近たちが慌てて支え、口々に何か囁く。

 広間の背後で、蜂蜜色の髪が震えている。リナだ。彼女は王太子の袖を掴みにじり寄ろうとして――掴めない。袖が、さっきより遠い。


「お助けください、殿下。わたくし、なにも……!」


「黙っていろ」


 冷たい一語。

 リナの足許から、社交の床が抜けていく音が、エリサにははっきり聞こえた。


「――王太子アレッサンドロ」


 王が名を呼ぶ。全員が息を呑む。

 王太子の喉がごくりと動いた。


「即時の謹慎を命ずる。居住区を離れるな。王家備品室は封鎖し、会計局は過去六ヶ月の出納を全面監査。関係者は出仕停止。……以上、命令だ」


 広間の空気が一段沈み、次に跳ね上がる。

 命令は淡々としていたが、それは“政治”ではなく“整頓”の口調だった。王は怒っているのではない。片付けているのだ。


「ヴァルデリ伯爵令嬢」


 王が視線でのみ呼ぶ。エリサは一礼した。


「本日の提示、しかと見た。私情に流れぬ口ぶりも、よい。――処分は法に委ねる。そなたはこの場を離れてよい」


「感謝いたします。……陛下、ひとつだけ」


「申せ」


「今夜提示した記録は、王都の回線だけでなく、各都市の公衆水鏡にも送信しています。見た目は刺激的ですが、目的はあくまで再発防止です。『王家が裁かれた』という話題ではなく『記録が守られた』という事実が、国中に届くよう、回線を調整してあります」


 王の目がわずかに細くなる。

 その目は、戦場で敵の地形を早読みしたときと似た光を帯びていた。


「よい。――お前は、王都の衛生兵のようだな。膿は出るときは痛むが、出ねば死ぬ」


「光に置けば、自然に乾きます」


 王は頷いた。それきり何も言わず、手を振って老廷臣に合図し、退場の導線を開かせる。

 王が去ると同時に、広間は二つに割れた。中央の赤い絨毯の片側には拍手と称賛。もう片側には沈黙と敵意。

 エリサは、そのどちらにも目を向けずに舞台を降りた。


「ミーナ、搬出。――第二水鏡は回線を公衆モードへ切り替え。大広間の外の噴水前に投影」


「了解、符を上書きします。五息で完了!」


 扉を抜けると、夜の空気が冷たく頬を撫でた。

 王宮前の噴水広場には、すでに群衆が波のように押し寄せている。商人、職人、兵士、子ども。みんな背伸びし、肩車し、広場の空に浮かんだ水鏡の大きな幕を見上げていた。


「見えるか?」「おお、あれが“王子断罪”の……!」


 ざわめきが、熱へ変わっていく。

 第二水鏡からは、先ほどの“要点のみ”を編集した短い再生が流れた。贈答品授受、音声の囁き、署名一致、そして真正のスタンプ。

 編集といっても、切り抜きだけだ。意味を曲げないために、余白は長く、字幕は簡潔にしてある。


「お嬢さま、流れてます。王都広場のほか、北門と市場、さらに城下三つの広場にミラー接続」


「よし。――“祭り”は、踊らせ過ぎない」


 群衆のどよめきに紛れて、背後で砂を踏みしめる足音が近づく。セルジオだ。

 彼は広場を一瞥し、短く言う。


「火は広がる。だが、燃え方は選べる」


「薪は“正しい言葉”。油は“憎悪”。――どちらを足すかは此方次第」


「ならば、楽隊を」


「え?」


「人は歌の方を覚える。今日を“嘲笑”ではなく“整頓の日”として覚えさせるために、正調の曲を上から流せ」


 セルジオは指先で衛兵に合図する。王宮楽長が呼ばれ、首を傾げながら走ってくる。


「正調で、ゆっくりだ。拍手を煽るな。足並みを揃える曲にしろ」


 楽長は目を見開き、うなずいた。

 やがて、澄んだ弦が夜空に満ちる。足踏みは自然と揃い、雑多な歓声は“うねり”に変わった。

 ざまぁの叫び声は、抑揚の少ない合唱の中で溶け、おだやかな拍手だけが残る。


「ありがとうございます、辺境伯様」


「君が“火の管理人”だ。俺は風向きを少し変えただけだ」


 ミーナが戻ってくる。頬は紅潮し、目は忙しい。


「お嬢さま、神殿前の回線も接続完了。書記官が“公開鑑定の手順”を併せて流しています。『捏造の見分け方』の基礎講座まで!」


「上々。――見せるだけじゃなく、教える。それが一番の火消し」


 そのとき、広場の端で甲高い声が上がった。


「うそだ! 王子さまがそんなことするわけない! 偽物だ、偽物!」


 声の主は、王太子派の若い貴族。周囲に同調を煽るように腕を振り、石を拾って水鏡へ投げる――

 石は、目には見えない結界に当たって、ぽすと鈍い音を立てて落ちた。すぐ脇で衛兵が無言で拾い上げ、少年に返す。


「投擲は犯罪だ。二度目は拘束する」


 短い警告。少年は顔を真っ赤にして叫びかけ、音の壁に阻まれて言葉が空回りした。

 セルジオが片眉を上げる。エリサはわずかに首を振った。止める必要はない。教育が先だ。


「――“怒りの出口”を、こちらで用意しましょう」


 エリサは第二水鏡の下に、細いテキストの帯を流した。

 《今日から王都広場と神殿前で、会計と記録の市民講座を開講。だれでも参加可/無料/一日十五分》


 群衆の前列がざわつき、次の瞬間、拍手が起きた。

 “ざまぁ”の熱は、行き場を得ると、“参加”という穏やかな火に変わる。


 広場奥から、灰外套の若い書記官が駆けてきた。息は上がっているが、目は生きている。


「令嬢! 神殿の長から伝達。『本日の手順と記録を、法学院の教材に』とのことです」


「ありがとう。君の仕事が速くて助かる」


「……勇気は、伝播します」


 短い会話の背後で、別の足音。

 昼にエリサへ掴みかかったあの側近が、今度は丁重に近づいてきた。顔色は悪いが、礼は崩れていない。


「ヴァルデリ令嬢、もしや今後の手続きにつきまして、会計局との協議の場を……」


「設けます。ただし公開で。非公開の議題は、最初から議題ではありません」


「……承知」


 側近は退き、肩の力を落として人波に消えた。

 “敵”だった人は、これから“業務相手”になる。戦は終わっていないが、武器は変わった。


「お嬢さま」


 ミーナがそっと袖を引く。肩が小刻みに震えていた。


「やっと……やっと、勝ち筋が現実になっていってる気がします」


「泣くのは、全部片付いてからよ」


「まだ、片付いてない?」


「半分。――明日の朝、紙が残っていたら、その時に泣く」


 ミーナはうなずき、鼻をすすった。

 セルジオが静かに言う。


「今日はもう屋敷に戻れ。護衛をつける。今夜の勝利は、明日の敵を連れてくる」


「承知。回線は神殿と楽長に託します。――撤収」


 エリサが指を鳴らす。ミーナが器用に符を畳み、水鏡を保護布で包む。

 最後に第二水鏡の映像が“祝祭の光景”を大写しで映した。

 子どもが拍手し、老商人が頷き、見知らぬ人同士が肩を叩き合う。そこに嘲笑は少なかった。

 “ざまぁ祭り”は、ただの嘲りではなく、秩序を戻す祭になりつつあった。


 屋敷へ戻る通路で、短い足音が後ろから追いかけてくる。

 振り向けば、蜂蜜色の髪――リナだった。化粧は崩れ、香りはきつく、目は泣き腫らしている。


「……どうして、こんなことを。あなたが黙っていれば、誰も傷つかなかった」


「黙っていたら、私が傷つき続けた。――そしてあなたも、いつかもっと大きく」


「わたしは、好きになっただけよ。殿下が、わたしを選んだだけ」


「選び方には手続きがある。王家の印章は、恋の道具じゃない」


「あなた、正しさしか喋らないのね。息が詰まる」


「息が詰まるのは、嘘の部屋よ。窓を開けたら、風が入る」


 リナは唇を噛み、何か言いかけて――言葉が見つからないように、首を振った。


「わたし、これからどうすれば」


「法が教えてくれる。……それが怖いなら、学ぶのが早い」


 リナは涙を拭い、ふらふらと闇へ消えた。

 哀れみは簡単だ。だが、それは相手の学びを奪う。エリサは追わなかった。


 夜風が、頬に優しかった。王都の塔が遠くで時刻を告げる。

 セルジオが横に並び、目だけで問う。


「大ごとは、過ぎた」


「ええ。……“ここから”です」


「君が泣くのは、いつだ」


「明日の朝、紙が残っていたら」


「残る。残るように、俺も動かす。――君は、辺境に来い」


「唐突ですね」


「唐突なものほど、準備してきた」


 エリサは小さく笑った。

 泣きたさは喉に来ていたが、まだ飲み込める。飲み込む。

 屋敷の角を曲がる前、彼女は一度だけ振り返り、広場の合唱を見た。

 音は遠く、でも温かかった。


「――祭りは、火種にした」


「火種?」


「明日、整えるための火。燃やすためじゃない。暖めるための」


 セルジオは満足げに頷いた。

 夜は深く、しかし、風は澄んでいた。


 夜が明ける前から、王都は目を覚ましていた。

 パン屋の竈より早く、噂の火が上がる。――“実況の夜”。“真正”。“断罪”。

 王宮広報局の灯も消えない。徹夜の文案、差し替え、回覧。


「本件は誤解であり――」


「だめ、弱い。『誤解』は責任回避の語彙だ、炎上の燃料になる」


「では、『内部精査の結果』は?」


「遅い。精査より先に真正が出た。時間軸で負けてる」


 局長の額に汗。文官たちは羽根ペンを折り、紙片が雪のように散った。

 やっと出た公式文は、一本の細い綱の上を歩くような言い訳だった。


《王家は事実関係を重く受け止め、王太子殿下に謹慎を命じ――》


 だが、送信の“前”に、広場の水鏡はもう朝版を流していた。

 要点だけを二分にまとめた映像。“王命”“謹慎”“全面監査”の三語を大きく。

 文より速く、映像は走る。映像より速く、数字は刺さる。


 王宮の文書が路地の掲示板に貼られる頃には、パンは焼き上がり、職人は読み、子どもが読み、商人が値札を書き換え、寺子屋の先生が黒板に「今日の単語:真正」と白墨で書いた。


 屋敷の窓辺で、エリサは湯気の立つ杯に指を当てた。

 ミーナが新聞束を抱えて駆け込む。


「朝刊、全紙一面です! 『実況の夜』『真正の印』『殿下謹慎』」


「見出しの名詞が、感情じゃなく手続きになってる。――上出来」


「広報局は『誤解』と言いかけましたけど、間に合ってません」


「間に合わないように設計したから」


 コツ、と窓枠に杯を置く。

 静けさの芯に、薄い鈴のような音が鳴る。――客の到来を知らせる鈴だった。


「お嬢さま、来客が十組超えました。玄関が渋滞です」


「抽選か、番号札を配って」


「番号札は、とっくに配りました。縁談と顧問依頼が半々。上は侯爵家から、横は商人同盟、下は郷紳、遠くは他国使節の代理まで」


「他国?」


「『監査手順の共有を』って。ついでに『王都に滞在中なら夕餉でも』って」


「公務じゃないのに外交を掛けてくるのは、外交が下手な証拠。――丁重にお断り」


「了解。……あ、辺境伯家からは使者ではなくご本人が」


 ミーナの言葉と同時に、廊下の空気がさっと整列した。

 鋼の瞳が、朝の光を細く割る。セルジオだ。


「朝食は?」


「まだです」


「では、俺の分を半分やる」


「いりません」


「なら、三割」


「話を三行で」


「一、王家は“誤解”と言えない。二、今日以降“火消し”は王家ではなく手順が担う。三、辺境に来い」


「三行目が重いですね」


「重さは必要だ。軽い言葉に引っ張られると、国は転ぶ」


 ミーナがくすりと笑い、茶器を並べた。

 セルジオは卓に地図を広げ、辺境の三つの要地に印をつける。


「堰、橋、穀倉――不正がもっとも起こる場所だ。君の“実況”は、秩序を守る。辺境でやってくれ」


「条件は?」


「監査の独立性。報告の公開。君の侍女二名の身分保障。そして――俺が時々、意見を言う権利」


「最後のは権利ではなく雑談です」


「雑談は、戦に勝つ」


 エリサは笑って、そして真顔に戻った。


「今は即答できません。――まずは事務所を立ち上げます」


「王都に“監査官令嬢”の看板を?」


「看板は文字が多いほど、庶民が迷う。三語でいきます。『記録、残します』」


「良い」


 短い肯定が、喉の奥で金属音のように響いた。


 廊下の奥で鈴がまた鳴る。

 ミーナが控え扉を開くと、七色の羽根帽の老侯爵夫人、軍装の若い准将、商人同盟の太った代表、そして――手紙で山ができた。


「お嬢さま、求婚状が、もう山に」


「上から三通、読み上げて」


「ええと――

 一、『監査と婚姻を結びたい(侯爵家次男)』

 二、『正義に心打たれた(法学院教授)』

 三、『わが領の台帳を整理してほしい、結婚はおまけ(肥満の商人)』」


「三番は、順番が雑。――二は心はありがたいけど、台帳が優先。

 一は“監査と婚姻”の並列が危険。どちらかが腐る」


「全部、お断りテンプレで返しますか?」


「丁寧に。『まずは契約、縁談は棚の上』」


「棚の上、了解」


 ミーナが器用にペン先を走らせる。

 その横で、もう一つの鈴が鳴った。

 門番が駆け込む。


「リナ嬢の実家に制裁が下りました! 罰金と一年の社交停止。それから――」


「“王家備品に関わる者への接触禁止”も付くでしょう」


「はい。書面にそう」


「書面が先に動く。良い流れ」


 ミーナがほっと息を吐いた。

 だが、息はすぐ詰まった。――玄関先で、甲高い声。


「ヴァルデリ令嬢はどこ! 謝罪に来たのよ!」


 リナだった。化粧は薄く、目は腫れている。両手には封のない紙束。

 付き添いの乳母が必死で押し留める。


「お嬢さま、どうされます?」


「応接室で五分。録字鏡、起動。――非公開で」


 エリサはゆっくり扉を開けた。

 リナは紙束を突き出し、震える声で言った。


「返すわ。宝飾の代金。全部。だから――もう、終わりにして」


「代金で戻るのは宝飾だけ。手続きは残る」


「あなた、ほんとうに……硬い」


「柔らかい言葉は、あなたをもっと傷つける。記録に従いましょう。――学びたいなら、講座に来て」


「講座?」


「広場で毎朝十五分。『捏造の見分け方』から始めます」


 リナの目に、一瞬だけ光が入った。

 だがすぐ、影が戻る。


「……行くわ。多分」


「多分で十分」


 五分が終わる。

 リナは紙束を置いて去り、応接室には甘い香りと、未練の空気が薄く残った。

 ミーナが窓を開ける。冬の手前の風がカーテンを膨らませ、香りは外へ逃げた。


「お嬢さま。看板はどうします?」


「大きくは要らない。人が読める高さに、三語だけ。――『記録、残します』」


「字体は?」


「太く、丸く。怖くない字で」


「裏口に掲げるのが粋ですけど、表に出しましょう」


「表に出すのは、正しさ。裏に回すのは、臆病」


 ミーナが笑い、板に下書きを始める。

 玄関の鈴が、また鳴る。また鳴る。また鳴る。

 列が収まらない。だが、エリサは焦らない。順番表。面談時間。議題。公開の可否。

 全てをカードにして、机の上に“見える化”する。見えると、人は落ち着く。


 昼前、セルジオが立ち上がった。


「俺は王宮へ。会計局の“全面監査”の段取りをねじ込む」


「ねじ込む?」


「段取りのない正義は、すぐ腐る」


「正義に料理比喩を使うの、説得力がありますね」


「腹が減るからな」


 扉へ向かいかけて、彼は振り返る。

 視線がまっすぐ、短い。


「夕刻、もう一度来る。――答えを聞くために、ではない。皿を運ぶために」


「皿?」


「机が足りない。人が増える。君の事務所は今日から戦時だ」


 セルジオは去った。廊下が静まり、すぐまた鈴が鳴る。

 ミーナが顔を上げる。


「“監査官令嬢 事務所”、本日開所です」


「本日の受付、最大十件。『公開原則/守秘の例外』を入口に掲示」


「受付票に“公開希望/非公開理由”のチェック欄、追加します」


「よし。――最初の案件、通して」


 入ってきたのは、帽子を握りしめた小さなパン屋の男だった。

 震えながら言う。


「王都の粉賦、配分が変で……帳面が、僕には読めなくて……」


「読めるまで、一緒に読みます。――十五分で概略を掴みましょう」


 ミーナが砂時計を返す。

 エリサはペンを取り、パン屋の前に帳面を広げた。

 文字は怖くない。怖いのは、見ないこと。

 砂が落ちる音と、鈴の音と、外のざわめき。

 “実況の夜”の余熱は、“手続きの昼”に形を変えて燃え続けた。


 昼下がり、看板ができた。

 表の扉の横、目線より少し低い高さに、黒い板。白い字。


 ――記録、残します。


 通りがかった子どもが読み、母が読み、商人が指でなぞる。

 看板の前に、そっと小瓶が置かれた。中に一枝のローズマリー。

 ミーナが見つける前に、セルジオが拾い上げる。夕刻、もう戻っていた。


「皿、持ってきた」


 彼の後ろには、屈強な兵士が大きな木製テーブルを二枚、椅子を十脚、帳簿用の鉄のスタンド、予備の砂時計を運び込んでくる。

 音が、事務所の骨格みたいに鳴った。


「ありがとうございます。費用は――」


「王宮の“監査支援費”から落とす。手続きを通した」


「早い」


「君の“実況”に合わせて、俺たちも速度を上げる」


 エリサは頷く。

 ミーナが持ってきた封筒を差し出した。


「辺境伯様宛て。『本日の講座テキスト(初級)』。――寄贈」


「受け取る。辺境でも同じ看板を立てる。三語で」


 セルジオは黒板の白字を見て、ほんの少しだけ目元を緩めた。


「いい字だ」


「怖くない字を選びました」


「怖くない字で、怖いことをやる。――それが一番効く」


 外が橙に染まる。

 今日という一日が、二人と一人ミーナの間で、音もなく“次”へ手渡されていく。

 鈴が鳴る。砂が落ちる。字が増える。看板が光る。

 “ざまぁ祭り”の余波は、炎上ではなく、整頓になった。


「お嬢さま」


「うん」


「今夜、泣けます?」


「紙が残っていたら、泣く」


 ミーナは窓の外の掲示板を指差した。

 朝貼られた王宮の文は、まだそこにあり、その下に追記が白墨で増えていた。『監査講座:毎朝十五分』『教材は神殿でも配布』。

 風は吹き、紙は残っている。


「――残ってる」


 エリサの喉が、少しだけ詰まった。

 杯を口へ運ぶ。温い。

 涙は、杯の影に落ちて、音を立てなかった。


「泣く?」


「少しだけ」


 ミーナが頷き、セルジオは窓の外へ視線をやった。

 王都は、薄い藍色に沈み始めている。

 “実況の夜”は遠ざかり、“記録の灯”がともる。


「――明日も、十五分」


「明日も、十五分」


 三人の声が、机の上で合わさった。


 “実況の夜”から三日。

 王都は表向き落ち着きを取り戻していたが、空気にはまだ粉煙のようなざわめきが漂っていた。


 ――ざまぁは終わった。

 ――けれど、恨みは終わっていない。


 その兆候は、まず“噂”という形で現れた。


「見た? あれ、あの水鏡。実は映像合成だったって話よ」


「ほら、王家の紋章の光り方、おかしくなかった? 捏造って専門家が――」


「エリサ嬢は“録字鏡に魔術を仕込んだ”って……!」


 噂は“主語不明”の形で増殖する。毒は小瓶からではなく、空気から撒かれるものだ。


 その報告を、ミーナが息を切らせて持ってきた。


「お嬢さま、王都の下町回線で“捏造説”が流れはじめています! 書き込みの出どころが同時多発で……」


「同時多発は“自然発生”じゃない。誰かが**一斉送信環リング**を使った」


 エリサは淡々と答え、水鏡端末を開いた。

 すでに数字を追っている。噂の発生時間、文体の癖、語彙の偏り――


「三十七件。最初の発生源は宮廷回線。文体が“書状格式崩し”……公務文官の癖」


「つまり、殿下派の……?」


「殿下本人じゃない。もっと地味で、もっと悪質で、もっと執念深い人間」


 そこへ、扉が二度ノックされる。

 入ってきたのはセルジオ――ではなく、彼の部下・防諜班長のロメオだった。


「伯爵令嬢、報告。――昨夜、事務所倉庫が荒らされた。施錠破り、目的は紙類」


「写しが狙いね。原本は別庫だけど、外からは知られていない。……見られた?」


「いえ。あなたの“真っ白ダミー箱”のおかげで、奴らは何も盗めずに帰った」


「よかった。盗ませるのも罠になる」


 ミーナが目を丸くする。


「え、盗ませるって……どういう?」


「“写しを盗んだ”と思わせれば、向こうは安心して次の手を打つ。……つまり、正体を晒す」


 ロメオが頷き、羊皮紙を差し出す。


「その“次の手”が、もう届いた。――捏造依頼書の原版だ」


 エリサは封を切り、目を走らせた。

 そこには、こう記されていた。


《王太子無実を証明する偽鑑定書を作成せよ。報酬は銀貨二百。依頼主:宮廷出納官 クリストファーノ・ベラルディ》


 署名。印章。日付。金の流れ。

 しかも――精霊誓約の印が無い。


「ようやく出てきたわね。『証拠を否定するための証拠』」


「黒幕は、王太子ではなく“出納官”ですか?」


「“王太子の失敗”は、王家の顔に泥。でも“会計の失敗”は、自分の首が落ちる。必死なのは後者」


 ロメオが拳を鳴らした。


「我々が拘束してもいいが、あなたの“公開型”ならもっと効果がある。辺境伯も同意している」


「ええ。――やりましょう。第二の実況を」


 ミーナが息を呑んだ。


「また……やるんですね。今度は、どこで?」


「前回は“王宮舞踏会”。だから今度は神殿前広場。

 前回は“王家の場”。今度は“法の場”。

 同じ土俵に乗らないことで、“正義の継続”を示す」


「回線は?」


「全市。あと、会計局局員専用回線にも割り込み接続して」


「お嬢さま、局員にまで直送すると、相手は……」


「逃げ場が無くなる。だからこそ、誤魔化すより出頭した方が得になる」


 ミーナは震えながら、でも笑ってうなずいた。


「もう……本当に、“監査官の悪役令嬢”ですね」


「悪役じゃないわ。“帳簿の味方”よ」


 そのとき。

 扉の外で、重い足音。今度はセルジオ本人だ。


「第二の実況をやると聞いた」


「速いですね。まだ言ってませんが」


「言う前に動く奴の動きで分かる」


 セルジオは机に手を置き、視線を合わせた。


「場所は神殿前か?」


「ええ。回線は午刻(正午)。昼休みの庶民が最も集まる時間帯」


「護衛はこっちで組む。だが一つだけ問う――」


 セルジオの声が低くなる。


「君は、“許す”のか。“仕留める”のか」


 エリサは迷わず答えた。


「“訂正を受け入れる者”は許す。“隠蔽を続ける者”は終わらせる」


 セルジオは短く目を閉じた。


「それなら――俺は、君の後ろに立つ。前には出ない」


「ありがとうございます」


「礼は要らん。俺が前に立つと、“私怨”に見える。君は“手続き”だ。俺はただの壁だ」


 ミーナが小声で「カッコいい……」と漏らした。


◆ 正午 神殿前広場


 水鏡塔が昼光を反射し、白い石畳がまぶしい。

 すでに百人以上が集まり、ざわざわと期待で満ちていた。


「ほんとにやるのか?」「第二の実況って、また?」


 エリサは台座に水鏡三面を設置し、声を張った。


「先日の婚約破棄の“真実”を明らかにした件。――その続きを、本日ここに示します」


 ざわっ――と観衆が前へ押し寄せる。


「本日の主題は『捏造の依頼者』です」


 第一水鏡――開示。

 《偽鑑定書作成依頼状》が投影される。署名・印章・日付。


 第二水鏡――開示。

 依頼書を運んだ伝令の足跡・出納官室の地図・鞄の中身。


 第三水鏡――開示。

 収賄帳簿。金の受け渡し。記録の一致。


「依頼主は――宮廷出納官、クリストファーノ・ベラルディ」


 ざわああああああああ!!!


「違う! 偽文書だ! 私は認めない!!」


 怒号とともに、宮廷出納官本人が衛兵を押しのけて前へ出た。

 顔は赤く、袖は乱れ、言葉はもつれる。


「私は! そんな依頼などしていない!! あれは偽物だ!!」


「では、公開鑑定をどうぞ。――神殿書記官、お願いします」


 静かに歩み出る灰外套。

 印章が浮かぶ。青白い光が依頼書を走査し――


「真正。改竄なし」


 終わった。

 観衆が一斉に息を吐き、次に怒号が広がる。


「王太子じゃなかったのか!」「会計の闇か!」「こいつが嘘を増やしてたのか!」


 出納官は崩れ落ちた。


「私は……私は埋めただけだ……! 最初の不正を……!」


「最初?」


 エリサの声は静かだった。


「では、最初の不正を――第三の実況で掘り返しましょうか?」


「や、やめろぉぉぉ!!」


 広場に笑いが走った。恐怖と快感の混合――それが“実況”の効果だ。


 セルジオが一歩前へ出て、短く告げる。


「出納官、拘束する。――逃げ場は無い」


 衛兵たちが動いた。出納官は引きずられ、広場の外へ消えた。


 残ったざわめきの中、エリサは言った。


「この実況は、“人を裁くため”ではありません。“嘘を測るため”です。嘘は、測れる道具の前では生きられません」


 拍手が起こる。

 最初は一人。すぐ十人。すぐ百人。


 ミーナが涙を拭う。


「お嬢さま……“二連勝”です……!」


「勝ち負けじゃない。――“整頓”が進んだだけ」


「でも……誇ってください。お嬢さまは、嘘より速い」


 セルジオが低く言葉を落とす。


「……速さが証明された。次は、“共に走るか”の番だ」


 エリサは横を見た。

 いつもの鋼色の瞳。

 その奥に、まだ言葉にならない熱が灯っていた。


 返事はまだしない。

 でも――逃げるつもりもない。


「――次の実況は、“婚約”ですか?」


 ミーナが悪戯っぽく囁き、観衆のざわめきが笑いに変わった。


 エリサは視線だけで返した。


「それは、手続きが揃ってから」


 布告は、朝の鐘と同時に降りた。


《王太子アレッサンドロの婚約無効を正式に確認する。あわせて、継承順位を見直す。会計出納に関する監査は全面的に継続する――王》


 王都の掲示板、神殿前の水鏡、各区の税務所。白い紙と青い光が同時に“同じ言葉”を映す。

 同時であることが、すでに勝利のかたちだ。後から書き足す言い訳の余地が無い。


 屋敷の応接で、ミーナが跳ねる。


「来ました、正式文! “見直し”ってやわらかい言い方ですけど、実質降格です!」


「言葉がやわらかいのは、国を揺らさないため。――内容は確実に硬い」


 エリサは紙面を三度読み、折り目をつけてから封筒に戻した。

 紙は残る。紙が残れば、明日は崩れない。


 扉が控えめに二度鳴り、執事が告げる。


「辺境伯セルジオ殿、お着きです」


「通して」


 鋼色の瞳が入ってくる。昨日よりわずかに柔らかい。けれど、余計な言葉はない。


「布告を見たな」


「はい」


「では、次は私の布告だ」


 エリサは瞬きした。セルジオは真っ直ぐ、短く言う。


「――契約婚約を結びたい」


 空気が、畳に落ちる針の音まで拾った。ミーナが盆を落としかけ、慌てて持ち直す。


「……理由を三行で」


「一、君の監査を公権として守るため。二、辺境の整備に“実況”を導入するため。三、俺個人が、君の前に立たないと決めたから、隣に立つため」


 エリサは息を吸い、吐く。胸の奥で、別の鐘が鳴る。

 恋の鐘ではない。手続きの鐘。だが、その音は暖かい。


「条件を三つ提示します」


「聞こう」


「一、監査の独立性を条文化。辺境伯家および王家からの口出しを禁ずる条項を契約文の第一条に」


「即時承認。文言は“監査行為は婚姻関係および封建的上下関係の外に置く”」


「二、侍女ミーナを含む同行人員の身分保障。危険任務では辺境伯の護衛権限で即時保護、職務権限は私の指揮下に」


「承認。“随行者は監査官の指揮下にあり、危難時は辺境伯の武断を容認する”」


 ミーナがこっそり拳を握る。目の端が光るのを、エリサは見ない。見たら泣きたくなる。


「三、不正の即時公開。王家・領主家の都合による公開延期は不可。生命の危険がある場合のみ、神殿が第三者としてタイムロック設定。最長七日」


「承認。“七日”は妥当。神殿に時限印を預ける。――他は?」


「愛の条文は、まだ要りません」


 セルジオが、わずかに目を細めた。鋼の中に、春の色が混ざる。


「それは、契約に書かず、生活で書く」


「そのくらいが、ちょうどいい」


「書記官を呼ぶ。契約文は今日中にまとめる」


「筆記は神殿書記官、立会は王家監査官、閲覧は公衆水鏡。――公開婚約契約にします」


「異議なし」


 ミーナが走る。灰外套の少年が、息を切らしてやって来る。机が整えられ、羊皮紙が広げられ、印泥の匂いが部屋に満ちる。


「条文読み上げます。第一条――」


 声が重なり、文が積み上がる。

 独立性、身分保障、即時公開、時限印、破棄条項、利害相反、贈答規制。

 婚姻契約と業務契約が、一本の“竜骨”に編まれていく。


「双方、署名を」


 灰外套が二人にペンを渡す。エリサは名前を書き、最後の点を置く。

 セルジオはゆっくりと、自分の名を重ねる。筆圧は強いが、丁寧だ。


「印を」


 赤。押す音。乾く時間の静寂。

 書記官が宣言を置く。


「真正、成立。本契約は神殿に控えを納め、公衆水鏡にて公開する」


 ミーナがわっと小さく声を上げて、すぐ口を押さえた。

 エリサは息を整え、姿勢を正す。


「――これで私たちは、“隣”ですね」


「ああ」


 セルジオは、ほんの少しだけ近づいた。

 近づき過ぎない距離。けれど、十分に“温度”が来る距離。


「確認しておく。俺は君の前に立たない。守るときだけ、壁になる」


「壁は厚く、静かでお願いします」


「話せば、窓も開く」


「なら、壁に窓を」


「作る」


 不器用な応酬が、妙に楽しい。

 恋という単語はまだ口にしない。でも、未来形の気配は、部屋の角に灯る。


 記者が来る前に、契約の“周知”を先に済ませる。

 水鏡前で、エリサが簡潔に読み上げる。


「本契約婚約は、個人の好悪よりも制度を優先します。私的な贈答は禁止。監査に恋愛を持ち込まない。――以上」


 ざわ、と笑いが起きる。

 “恋愛を持ち込まない”と宣言することが、逆説的に“恋愛する余地”を残す。余白は、読者(民衆)の想像力を惹きつける。

 それもまた、炎上を避ける設計だ。


 解散ののち、短い静けさ。

 窓辺で、ミーナがそっと囁く。


「お嬢さま。……おめでとうございます」


「ありがとう。まだ“事務所開設記念”くらいの気持ちよ」


「十分に大ごとです」


 セルジオが時計を見やる。


「午後は、堰の視察だ。婚約祝いに、泥と風を贈る」


「最高の贈り物です。――外へ出ましょう」


 堰は、王都の外れ、乾いた川筋を掴んでいた。

 石の継ぎ目、砂の詰まり、帳面の数字。現場は、机上の理屈より雄弁だ。


「ここ、砂利の粒度が帳簿と違う」


 エリサは膝をつき、砂を指で揉む。

 ミーナが即座にメモする。セルジオは周囲の作業員に質問を飛ばし、流れを止めない。


「砂利を変えたのはいつだ」


「一月ほど前、納入先が……」


「契約書と納品書、照合。――“公開”が前提だと、嘘は短命になる」


 日が落ちるころ、簡易テントの下で三人は水を分け合った。

 風が、乾いた甘い草の匂いを運ぶ。


「君は泣かないのか」


 セルジオがふいに言う。

 エリサは空を仰ぎ、薄く笑う。


「泣くのは全部片付いてから。今日はまだ課題が残りましたから」


「どれくらい残ってる」


「七。細かいのが七」


「なら、二人で四つずつだ」


「四つと三つ。――ちょうど良いです」


「……ずるい配分だ」


「辺境伯は大柄だから、大きいの四つをお願いします」


「了解した」


 無表情同士の冗談が、夕焼け色を帯びてゆるむ。

 ミーナがごほんと咳払いして、小さく手を上げた。


「婚約、お祝いしたいんですけど」


「酒は夜に。仕事を終えてから」


「お嬢さまは、そう言うと思いました。――だから、夜のおでんを予約しました。湯気の出るやつ」


「最高」


 エリサとセルジオが、同時に言ってしまい、三人で少しだけ笑った。


 夜。

 屋敷の小食堂に、湯気と出汁の匂いが満ちる。

 記者は玄関の前で待たせ、今だけは紙を閉じる。生活の時間。


「いただきます」


 湯気ごしに、視線が合う。

 エリサは箸を伸ばし、たまごを割る。黄身がとろりとこぼれ、器の縁を染めた。


「殿――セルジオ様」


「ん」


「今日くらいは、“監査官”を少し休みます」


「いい。俺も“辺境伯”を少し休む」


 緊張がほどけ、湯気が笑いを柔らかく隠す。

 ミーナが徳利を傾け、盃を三つ、静かに回す。


「契約婚約、成立。……かんぱい」


「乾杯」


 盃が触れ、音は小さく、確かだった。

 酒が喉を落ち、胸に火が灯る。

 エリサは盃を置き、そっと言う。


「――私、隣を大事にします。前にも後ろにも置かない」


「俺は、窓のある壁でいる」


 視線が重なり、言葉がそこに置かれる。

 “告白”ではない。

 でも、告白より長く持つ言葉だ。


 食後。

 机に戻る前に、セルジオが戸口で立ち止まる。


「“愛の条文”をいつ書くかは、君が決めていい」


「条文は、日々の脚注で増やします」


「楽しみにしている」


 戸が閉まり、夜が少し青くなる。

 窓の外では、広場の黒板に白墨で書かれた三語が、月に照らされていた。


 ――記録、残します。


 その下に、誰かが小さな字で書き足していた。


 ――約束、守ります。


 ミーナが見つけて、指でなぞる。

 エリサは声に出さないで、頷いた。


「明日は、十五分から」


「十五分から」


 二人の返事が、静かに重なった。


 それは突然ではなく、自然に訪れた。


 “実況の夜”からちょうど一月。

 国王が布告を出した。


《嘘を照らす灯を絶やさぬため、毎年この日を“真実祭しんじつさい”とする。

 民と官が共に記録を学び、誤りを正す日とせよ――王》


 “ざまぁ祭り”という俗称はそのまま残り、“真実祭”という公称が加わった。

 ざまぁは笑いで、真実祭は制度で。名は二つで、意味は一つ。


「お嬢さま、今年の“真実祭”の準備、王都だけで十七件です! 水鏡講座、帳簿劇、子ども向け偽札見破りゲームまで!」


「“楽しさ”の中に“仕組み”があるなら、良いお祭りよ」


 ミーナが目を輝かせる。

 エリサはその横で、監査帳の束を閉じる。

 今日の仕事は、辺境の堰と水路――正式婚約前、二人で受けた“共同任務”だ。


 堰の上には風が吹く。砂と草の匂い。

 セルジオが測量棒を片づけながら言う。


「君の診断どおりだった。砂利の粒度偽装が、水量の二割ロスを生んでいた」


「放置すれば、十年で土壌が死ぬ。――今日、数字で止められた」


「今日、二人で止めた」


 その言い方が、妙に胸に来る。

 “二人で”という言葉は、たった四文字で、契約より強い。


「報告書、王宮にも送ります。……真実祭の前に“成果”を見せた方が国家議会が静かです」


「静かにさせるのが、君らしい」


「うるさくさせるのは、舞踏会と実況だけで十分です」


 風が止み、代わりに鐘が鳴る。

 城下からの伝達だ。


「お嬢さま! 王宮回線から通達! “正式婚約式”の日取りが決まりました!」


 ミーナが全力で駆けてくる。

 封筒を開き、読み上げる。


《エリサ・ヴァルデリ伯爵令嬢

 セルジオ・アレグリ辺境伯

 正式婚約式を、真実祭当日 午後に執り行う》


「……祝祭と婚約を、同日ですか」


「象徴性を最大化、ってやつだな。王家らしい」


「ああもう、忙しくなりますよお嬢さま! 式次第、衣装、随行、来賓席、誓約文、記録水鏡の角度まで!」


「落ち着いて。――誓約文は私が書きます」


「恋文じゃないのですか?」


「恋文は脚注で十分です」


 ミーナが笑い、セルジオが小さく吹き出した。


 真実祭当日。

 王都は淡い金色の飾りで満たされ、広場ごとに水鏡が立ち並んだ。

 “実況の夜”の映像が回想として流れ、子どもたちは「真正!」と真似をして遊んでいる。


「平和な“ざまぁ”って、思ってたより平和ですね……」


「“誰も殺さない断罪”は、娯楽に変わるのよ」


 エリサは深呼吸し、礼服の襟を正す。

 セルジオは黒の軍礼装ではなく、式典用の濃紺に身を包んでいた。金でも紅でもない、働く者の色。


「――始めようか」


「始めましょう」


 神殿前の高壇に上がる。

 そこに、婚約契約と同じ構造の “誓約水鏡” が設置されていた。


「これより、監査官エリサ・ヴァルデリと、辺境伯セルジオ・アレグリの正式婚約式を執り行う」


 厳粛な声が響く。

 だが民衆は、静かにではなく 期待してざわついている。

 “告白より条文”の二人が、何を言うのか。


「――誓約文を読み上げます」


 エリサが一歩前に出る。

 羊皮紙ではない。今日は 水鏡に直接文字を浮かべる。


『第一条 互いの信義を、紙と実務で証明すること』

『第二条 不正を見つけたとき、隠さず共に公開すること』

『第三条 愛情は、日々の脚注として加算すること』

『附則 脚注が本文を追い越した場合、それを“夫婦”と定義する』


 広場が――ざわっ……と揺れた。

 次に、爆発した。


「脚注ってなにそれ!」「どこまで事務的なんだこの二人!」「でも最高!!」


 ミーナは泣きながら笑っていた。


「き、脚注って……お嬢さまらしすぎます……!」


 セルジオが進み出る。

 彼は指輪ではなく、ひとつの 小さな砂時計 を差し出した。


「君が“時間”をくれたから、俺は“待つ時間”を贈る」


 その一文で、広場が静まる。

 砂が落ちる。音はしないのに、確かに“永続”が聞こえる。


「――誓うか?」


「誓います。脚注が増えて、本文を飲み込む日まで」


「誓う。窓のある壁でい続ける」


 書記官が手を上げる。


「契約、真正。婚約、成立」


 光が走り、水鏡に二人の立像が映る。

 王都全域、辺境、神殿、全回線に――“正式婚約”が送られた。


 拍手。足音。笑い声。

 ざまぁ祭りは、ついに“祝福の祭り”に変換された。


 式のあと、控え室。

 喧噪の外側、静けさの内側。

 エリサは扇を閉じ、セルジオを見た。


「……あの条文、笑われましたね」


「笑われた条文は、覚えられる。覚えられた条文は、残る」


「じゃあ、脚注をひとつ追加しても?」


「聞こう」


「“この婚約は、恋愛の自由を許可する”」


「許可された。――では脚注二つめ」


「え?」


「“この婚約は、溺愛の義務を含む”」


 条件反射で返す。


「条文に“義務”を入れるのは危険です」


「君は義務に弱い。だから、あえて義務にする」


「……ずるい人」


「君も、ずるい」


 視線が重なった。

 もう実況はいらない。もう証拠はいらない。

 これは“公開”ではなく、“私事”だ。


「――実況しませんよ?」


「しなくていい。ここは、俺たちの非公開回線だ」


 扉の外で、ミーナの声がする。


「お嬢さまー! 祝杯の準備できました! 市民広場で“無料おでん”ですって!」


 エリサは笑った。


「行きましょう。――脚注を増やしに」


「十五分だけな。祭りは長い。俺たちは、ゆっくり書けばいい」


 二人は並んで立つ。

 前後ではなく、真正面でもなく――隣り合って。


 夜。

 王都から少し離れた丘の上で、水鏡がひとつだけ点っていた。

 そこに映るのは、未来のための言葉。


《次回実況予定:

 “水路拡張計画の透明化”

 日時、後日発表

 ――監査官エリサ&辺境伯セルジオ》


 風が画面を揺らす。

 誰かが読み、笑い、期待して帰る。


 物語は終わらない。

 実況は続く。

 脚注は増え、本文を追い越す日が、きっと来る。



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