73話 大切なげろげろ
「……先週の血液検査の結果も、問題は無し。カウンセリングでお話しした限り、メンタルも安定しているようですね」
「はい……妹が学校を休んでまで、そばに居てくれてるので」
さらにあれから数日。
今日は普通に患者さんが来る日……だけど、僕たちのためにって時間を取ってくれているらしい。
普通の病院なら絶対に不可能な扱いとあって、すっごく行きたくなかったけどもがんばってやってきた。
……優花に手を引かれて。
でも1番つらかったのはタクシーだった。
だって知らない人が同じ空間に居るんだもん。
手をずっと握ってくれてなかったら、普通に吐いてたもん。
引きこもりのなにが1番辛いのかって、対面と移動なんだ。
引きこもりは外に出る手段の全てが断たれているから引きこもりなんだ。
引きこもりのダメさ加減をなめるんじゃない。
なめられたら泣くし吐くし漏らすんだぞ。
「ご両親との会話が難しいのは課題ですが、ひとまず慣れている人相手なら……なるほど。ご両親へも、時間さえかければ解決するかもしれませんね」
何年も顔すら合わせていなかったからか、1週間程度を毎日朝から晩まで過ごした程度では優花の話題は尽きていないらしい。
だから話す内容は彼女が振ってくれるし、静かにしたいときには気まずくなったりしない沈黙の時間を過ごせる。
そのおかげで、だいぶ落ち着いて気がするんだ。
……それでも、未だに父さんどころか母さん相手でも近づかれるだけで体がこわばるのは確かに課題だけども。
あと、父さんは普通にびびって僕に近づかない。
聞けば、深酒をするレベルで落ち込んでいるんだとか。
……息子に嫌がられてそこまでしなくても、とは思う。
でも、やっぱ人って見た目だからね。
それが娘になってるんなら、やっぱりしょうがないよね。
「先生、改めて先日はお世話になりました」
「ました」
優花につられて頭を下げる。
最近は考えなくても妹のマネをするんだ。
「良いんですよ。私も心配だっただけですから」
そうして今日も僕は、保護者――妹同伴で病院へ来ている。
いい歳した兄が、妹に連れられて……しかも、手まで引かれてってのは、意識しちゃダメなやつだと思う。
「こちらが検査結果一覧……異常はないので必要ないかもしれませんが、一応。そしてこちらが戸籍の情報に、万が一必要になった場合の書類です。これを警官に見せれば大概は問題がないはず……いくつかご両親のサインが必要ですので、後日郵送で……」
「ありがとうございます。これで両親も安心……」
「………………………………」
……すっごくお世話になったし、なってるし、これからもなるだろうから深くは考えないようにしているけども……この先生、何者なんだろう。
見た感じ30には届いてない……いや分からないか、ただでさえ対人経験の少ない僕だ、他人の、それも女性の顔から年齢を推測するなんて無理だもんな。
それに、女性はすごく年齢を気にする生き物。
若く見えるんなら若いって思い込んでおいたほうが、お互いにお得なんだ。
たとえお医者さんだとしたら……少なくとも何年かは普通の人よりも時間をかけてお仕事に就くはずだから、僕よりも年上だろうことはほぼ確実だったとしても、それに気がつかないフリをするのが男のマナーだ。
……でも、なんでも「介護班」とかいう――僕からしたら極めて不名誉な保護者を気取る視聴者の人たちが、僕を守るためにダークでグレーな手口とかを使ってるらしいってのを優花からちらりと聞いているし、感謝しておくだけが無難かも。
ニートは養ってもらっている家族には文句を言えない存在なんだ。
介護班とやらが僕を守ってくれる保護者なら、実質的には親も同然なんだから。
だから、ちょっと怖かったりしても耐えるしかないんだ。
だから、ちょっとおかしかったりヘンタイさんが多くても我慢するしかないんだ。
そういう協力がなかったら……今、僕はこうして妹に手を引かれてぼけーっとしてる余裕なんてなかったかもしれないんだから。
「それで、先生……兄の状態は」
「ええ。先ほどのカウンセリングを……こはねさん?」
「大丈夫です。優花になら」
ただでさえお医者さんな彼女は、なんと、カウンセリングの資格もあるらしい。
体と心、両方を治せるってすごいよね。
すごい人ってのは本当にすごいんだ。
僕みたいに自分の能力値を知っている種族からすると、羨ましいって発想は出てこない。
隔絶している才能と努力で、たくさんの人の役に立つんだから。
生まれ持った才能とそれを活かすための努力できる才能、そして本人の努力の量……それは、僕みたいななめくじとは隔絶しているんだ。
「こはねさんに教えてもらったところ、特に妹さんが心配されていた自傷癖は……これまでに数回程度ということです」
「え、でも、去年――」
「優花。あのとき、僕……風邪引いて体調、悪かったんだ」
「……そう、なんですか?」
「うん。フラッシュバックしても、滅多にあんなことはしないんだ。ただ……具合が悪いときって、うなされるように嫌な夢ばかり見るから。それで、特に調子が悪かった時期で」
半信半疑。
それはそうだろう、だって去年、僕は自分で自分を傷つけていたところを優花に見られ――
「……げぇっ」
「兄さん!?」
びしゃっ。
僕のかよわい体は、小さな猫みたいに一瞬で胃の中のものを吐き出す。
「だ、大丈夫……せんせぇ、なにか拭くものを……」
幸いにして、外に出た時点で覚悟はしてた。
だから、吐く場所だけは間違えなかったんだ。
「うぇ゛ぇ……」
あ、もっかい出そう。
「妹さん――優花さんも、落ち着いてください」
「でも!」
お、なんとか根性で押さえ込めそう。
「こはねさんが――直羽さんだったときには、嘔吐のほうも今と比べると相当に少なかったようです。……この姿になった直前の時期が久しぶりに多かった、とのことですし、普段はそこまででないのは配信でも知っています」
「そう……ですね。確かに、周期的に不安定になって今回のが特別に……」
僕は僕の体から吐き出されたげろげろを眺める。
そのげろげろへ、僕の唇からつーっとよだれが垂れていく。
……「これ」のことが好きってのは、やっぱネット上でのじゃれあいのための冗談だよね。
そうだよね……?
「やはりこれは、肉体という器が幼くなったからこそ――恐らくは脳そのものが幼くなり、ために感情が以前よりも強く表れてしまうためだと。発育の関係上……感情を制御する部分は、20代の半ばまでかかってようやく成長しきるものですから。大脳、その中でも前頭葉は……ましてや、男性から女性ですし」
「……成人しても、まだ完成はしてないんですか? でも、高校生くらいにはもう……」
「いえ、成人というのは、あくまで通過点――まだまだ未成熟なんです。肉体だって、やはり少しは成長しますし。……ほら、言うでしょう? スポーツ選手が引退し始めるのが20台中盤だって。アイドル歌手の人たちだって、そのくらいから……肉体的にも、そこで成長が止まるんです」
「あっ……そういえばそうですね……」
先生は焦らず――そうだ、この先生はこの前のときも、ほとんど安心する笑みを浮かべてくれていて……たぶん意図的に動作も声もゆっくりとしているんだ。
「元の肉体のときは、ときどきアルバイトをできるレベルまでは回復していたと聞きました。調子の上下に幅はあっても、それを自分でセーブできる段階にまで回復していた……だからこそ、こはねさんになっても相手次第では……そう、思います。そして、ご自分から社会復帰を……自立をされたいという意思も。大丈夫、時間の経過を隠れて待つという方法は、こはねさんにはぴったりだったと思います」
ふきふき。
とまどう優花、イスの上で脚をぷらぷらしているだけの僕を見上げながら、先生が床のげろげろを拭き取っていく。
「……ここでなければ、この素敵な吐瀉物を……」
「え?」
「いえ、お気になさらず。メンタルケアの臨床で慣れていますから」
きっきゅっとアルコールタオルで拭き直し、ビニール袋に詰められた僕のげろげろが、バイオなハザード的な映画で出てくるようなシールの貼ってあるゴミ箱に捨てられる。
……それを捨てようとして何秒か固まってたのは、はたしてどんな理由からか。
ひょっとして――内容物を解析してなにかが分かるかもとか思ったのかな。
「念のためのお薬も出しておきます。基本的にはこはねさんの判断に委ねて差し上げてください。『彼』は、ご本人的にも法的にも成人男性ですから。非常時以外は、こんなにも頼りになりますから……ね?」
「……そうだと良いんですけど」
僕は気まずくて、ふいと顔を逸らす。
……まさか、こんな幼女――じゃなくて女の子――になっても、普通に大人扱いしてくれるとは思わなかった。
だって、ほら……顔バレする前でさえ、女の子疑惑があった段階から視聴者たちが、こぞって子供扱いしてきたし。
僕が頼ったのもあるけども、優花でさえ僕のことを子供として面倒見てたし。
お風呂からトイレから、なにからなにまで……トイレは断固として拒否してるけどさ。
「こちら、ハーブティーです」
「ありがとうございます」
そうして――用意してあったらしいコップを受け取る。
……あったかい。
◇
「お薬、もらってきますね」
「そっか……保険が使えるのか」
「本当に公的なさまざまも、これまで通りのようで……それよりも」
「?」
優花が、じっと僕を見てくる。
「………………………………」
「………………………………?」
なんだろう。
「……薬局へ行ってきます」
「うん」
いってらっしゃい。
「着いてきますか?」
「ううん、人の居るところに行ったらまた吐くと思うし」
さっき我慢したげろげろくらいはね。
「ええ」
「うん」
うん。
「………………………………」
「?」
?
……すっ、と、僕の手が持ち上がる。
「……手。繋がれたままですと……」
「……無意識で繋ぎっぱなしだった……ごめん」
むぅ……どうやら僕の本能は、ずっと優花に守られたかったらしい。
「大丈夫ですか……?」
「大丈夫大丈夫。また別の日に行くと二度手間だし」
僕は意思を持って手のひらをこじ開け、優花を送り出した。
「………………………………」
誰も居ない待合室。
なんでも、僕のためにわざわざ受付の人まで空けているんだとか。
……元気になったら、何かお礼をしないとなぁ。
「………………………………」
「!?」
びくっと体が跳ねる。
だって、視界の隅に――
「………………………………」
――誰かが居たから。
「ふー……」
落ち着け。
居るとはいっても待合室の隅の方、僕とちょうど反対側に、たったのひとり。
しかも背丈的に大人じゃない。
大丈夫だ、僕は人見知りでも子供相手ならそこそこ問題ないんだから。
「………………………………」
どうやら相手は僕に気づいていない……か、次の受付待ち。
先生は時間を空けてくれていたけども、きっとかなり経ったから次の予約の人が来ちゃったんだろう。
いくら僕のためでも、さすがに待合室にすら入れないってのは不可能だろうし。
「ふー……」
大丈夫。
大丈夫。
僕は意識をして深い呼吸をして――それを20回くらいしたころには、かなり楽になっていた。
「………………………………」
あれ?
さっきは視界の隅に入っただけですぐに顔を伏せたから分からなかったけども……女の子?
それも、小学生くらいの。
さらには、
「……?」
あまり、怖くない……?
や、いくらなんでも小学生女子相手に本気で怯えるほどじゃなかったはずだけども……それにしては、怖くない。
どころか、「どこかで会ったことがあるから安心できる」って感じてる。
なんだろ、これ。
この体が大丈夫って認識できる相手としたら、配信に頻繁に来てくれてた何人かのうちのひとりくらいなのに……?
「新規こわい……けど、できたら最下部↓の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】とか応援コメント、まだの人はブックマーク登録してぇ……」




