2 大食い剣奈 父を思い冒険への思いを強くする
剣奈は窓際に立って外を眺めた。窓の外には武蔵野の街並が広がっていた。剣奈の父が龍岡門大学に通っていたとき、ここ桃林病院からそう遠くない学生寮に住んでいた。
剣奈(剣人)が幼い頃、父は留学生たちと触れ合いを話してくれた。剣人はその話を聞くのが大好きだった。正月の餅つき。食材を持ち寄っての各国料理の食べ合い。懐かしそうに身を細めて話す父の横顔が大好きだった。父の話を聞いていると「ボクの知らない世界がボクを待っている」そんな高揚感が高まってくるのだった。
ガラッ
千剣破がトイレのドアを開けた。千剣破は用を足したかったわけではなかった。しかし剣奈に不審がられないためにしばらくトイレに籠っていたのである。しかも水まで流している。千剣破、お疲れ。
千剣破は窓際に立つ剣奈に寄り添った。風が木々の葉を揺らしていた。千剣破は玲奈が病院に運ばれてからの日々を静かに思い返していた。
夏の日差しはあっという間に過ぎ去った。秋、そして冬と季節が移った。主治医は神経内科主治医回診とICU/HCUの履歴説明で「低覚醒・原因不明」「高次脳機能障害・経過観察」と繰り返し告げるだけだった。
千剣破は剣奈を連れて病室を後にした。そして六階の洋食レストランGarden Terraceに足を運んだ。おしゃれな店である。料理も華やかである。母子は玲奈のお見舞い時、時々このレストランを利用していた。
二人は春の日差しが差し込む窓際のテーブルに座った。そしてメニューを眺めた。剣奈はシェフおすすめのパスタランチに加えて薬膳カレー 五穀米を注文した。相変わらずの大食いである。千剣破はパスタランチだけを頼んだ。母子が談笑する間に料理が運ばれてきた。
「おまたせしました」
「うわぁおいしそう」
剣奈は運ばれてきた「薬膳カレー 五穀米」を興味津々に見つめた。五穀米の彩りとたっぷりの野菜、やさしいスパイスの香り。剣奈は顔をほころばせた。ひと口食べると、ほんのり甘くヘルシーな味わいに笑顔がこぼれた。
「おいひい!」
――無邪気なものである。母は黙っているが玲奈の入院費の経済的負担はものすごいぞ?そんな無邪気に大食いしてもいいのかね?まあ千剣破がニコニコしてそれを見つめてるからいいか……
「そう?よかったわ。剣奈はホントにおいしそうに食べるのね」
「はって、ほんほひほいひいはほん」
「剣奈?口に入れたまましゃべってはだめよ?剣奈はもう女の子なんだからね。女の子がそんなことをしたら「はしたない」って陰口をたたかれるのよ?」
剣奈はシュンとした。学校でのいじめを思い出したのである。ヒソヒソ話される聞こえよがしの陰口。辛かった。
剣奈はイジメの原因を自覚していない。しかし超絶美少女にも拘わらず男の子っぽい気さくさを残す剣奈である。剣奈にあこがれる男子は多いのである。剣奈を苛める女子は案外そんな剣奈への妬みも大きいのかもしれない。千剣破はそんなふうに思っていたのである。
いじめられている剣奈は母の言葉にうつむいて涙ぐんだ。千剣破は焦った。「地雷を踏んでしまった」と。
「あ、ええと。その」
千剣破はすぐに優しい声で語りかけた。
「ごめん。剣奈。お母さん、意地悪なこと言っちゃったかしら。気にしないで。剣奈は剣奈のままで。好きなように食べてくれていいんだから」
剣奈が涙ぐむのを見て、千剣破はそっと剣奈の手を握った。
「大丈夫。お母さんがいるわ。来くんもいつもそばにいるんでしょ?玉藻さんも、白蛇さんも。ほら。食べよ?好きなものを思いきり食べて、楽しく過ごそ?」
千剣破は微笑みを浮かべながらそう言った。瞳に涙が浮かんでいた剣奈である。千剣破に手を握られて落ち着きを取り戻した。
「うん。お母さん……ありがとう……」剣奈は小さくポツリと答えた。
母子は窓から差し込む穏やかな日差しの中で見つめ合った。そしておいしい食事を前に再び笑顔で過ごしたのだった。
「帰りにお散歩する。お父さんの寮、すぐ近くなのよ?剣奈、お父さんの寮の思い出話好きだったでしょう?」
「うん!いくいく。」
剣奈の父が学生時代に過ごした三鷹寮は桃林病院から新川をまたいでそう遠くない場所にあった。
桃林病院を出た剣奈と千剣破は、優しい日差しの中、ゆるゆると散歩を始めた。病院の前は広い歩道だった。街路樹が美しかった。木々が春風にそよいでいた。母子は手をつなぎながら春の穏やかな空気に包まれて歩いていった。
「暖かくなったわね」
「うん」
千剣破が話しかけた。午前中には寒い風が吹いていた。しかし今は春のうららかな日差しに包まれていた。
散歩して身体を動かしているということもあるのだろうか。二人は寒さを感じなくなっていた。
道にはたくさんの自動車が行きかっていた。時折救急車のサイレンが響いた。春の太陽は柔らかく、二人の影が道に伸びた。
新川の静かな住宅街をみながら緩やかな坂道を上った。東八沿いに少し進むと三鷹寮の建物が見えてきた。
龍岡門大学三鷹寮は三鷹市新川の静かな住宅街にひっそりと佇む学生寮である。春休みのやわらかな日差しに照らされたその外観は無機質な美しさがあった。剥き出しコンクリートの連なる六つの棟が規則正しく並んでいた。建物は数十年の時を重ねているはずだが、どこかおしゃれな感じがした。
三鷹寮には世界各国から集った学生たちが暮らしていた。彼・彼女らは小さなカーテンやカラフルな洗濯物を干していた。バルコニーの一隅では、春の風にゆれるシーツと、留学生たちの色とりどりの民族衣装が見えた。
寮の外に早春の陽気に誘われた学生達がたむろしていた。彼・彼女らは楽し気に談笑していた。活気と静寂が共存していた。
「いいなぁ。お父さんはここに住んでいたんだよね」
「ええ。そうね」
「その頃にはお母さんと付き合っていたの?」
いきなりの無邪気でストレートな質問である。千剣破の顔が赤く染まった。
「そ、そうね。お父さんが学会で鶴甲大学に来た時に知り合ったから……そうかもしれないわね」
「あ、ナンパってやつ?」
「ち、違うわよ!学生同士の懇親会があって、そこで知り合ったのよ」
――いやいや千剣破君。それをナンパというのだよ。本人たちにとっては「出会い」。はたから見たら「ナンパ」。よくあることである……
二人はうららかな春の日差しに包まれた三鷹寮の前で立ち止まっていた。東八沿いだというのに静かな雰囲気だった。寮から聞こえる多言語の笑い声が混じり合っていた。その風景は、幼い日の記憶と、父が語った遠い青春の響きを感じさせた。
「剣奈が元気で春休みを過ごせるなら、お父さんもきっと喜ぶわ」千剣破がそっと語りかけた。
「うん、ボク、がんばるよ」剣奈が答えた。
いじめや迷い、悲しみはある。けれど冬を越えて訪れた春である。剣奈が経験してきたみんなとの冒険の日々、暖かい家族との記憶。それらは時に崩れそうな剣奈の心をそっと支えていた。
しばらくして母子はゆっくりと歩き出した。近くの新川バス停までゆるゆると歩いて行った。剣奈は言った。
「ボク、春休みにダンジョンに行きたい……」
母はゆっくりと微笑みで返した。
フワッ
春の風が二人を撫でていった。




