7 水面で屈折する
あれから1ヶ月になる。
俺たちのキャンパスライフも少しずつ日常を取り戻して落ち着いてきた。
トイレ問題はスマホで解決したし、お風呂のことや、同じベッドで寝ていることは、俺たちが言わなければわからない。
これを日常と言っていいならば——だが・・・。
サークルにも参加できた。
漫画研究会。
涼子は運動神経も良かったが、スポーツ系は避けた。
更衣室の問題があるからだ。
いつも誰かが涼子と一緒にいればいいが、もし間違って涼子が1人になってしまったら、その時点で消えてしまう。次に誰かが扉を開けるまで。
外から「誰かいる?」なんて声をかけただけで、鍵などかけられてしまったら・・・。
涼子は運動そのものが嫌いなわけじゃない。
むしろ体を動かしたがった。
なので俺は必然的に涼子のジョギングなんかに付き合わされることになった。
「りょ・・・涼子。おまえ、なんでそんなに速いんだ?」
俺は涼子が俺の視界の外にいってしまわないよう、ついてゆくので精一杯だ。
「昔からだよ。クラスではたいてい、かけっこ1番だった。だいたいお兄ちゃん、運動不足だよぉ。」
「はあ、はあ・・・。ちょ、ちょっと休ませてくれ。」
俺が膝に両手をついている間も、涼子はその場でくるくる回って足踏みしてたりする。
絶対にひとりで前に行ったりはしない。
俺の視認(重力)圏内にいるのだ。
「お兄ちゃん、おなかの質量減らさないと。」
「おまえ、水面で屈折したりする?」
「あはは。あたしの名前、光子じゃないし。あ、でも今度一緒にプール行きたいな。」
こんなジョークは2人の間だけでしか通用しない。
他の人が聞いても、何言ってるかわからないだろう。
そんな秘密共有感も俺は気に入ってる。
たぶん涼子もそうなんだろう。
だからこんな掛け合いにノってくるんだ。
涼子は中学生になってからは、プールの授業に参加したことがないんだという。
高校でもそうだ。
ちゃんとした更衣室が整備されていたので、ひとつ間違うとプールの授業のあと涼子は行方不明になってしまう・・・という危険性があったからだそうだ。
「毎回、体調悪いことにしてた。」
苦労してたんだな・・・。
「だから、お兄ちゃんに見ててもらって、思いっきり泳いでみたいな。」
俺たちは次の日曜日に市営プールに行ってみることにした。
可燃ゴミの焼却熱を利用した温水プール施設だから、一年中営業している。エコサイクルの市営リゾート施設みたいなものだ。
親父に車で送ってもらおうと思ったら、たまたまの休日出勤だった。
「まあ、バスでも行けるしね。」
涼子は家から服の下に水着を着て行くことにした。
日曜日だから女子更衣室にも人目はあるだろうが、万一を考えてだ。
人数が少なくなったり、誰もいなくなったりしても困るからだ。
まあ、後から誰か入ってくればそれでまた存在できるわけだが、その間着替えが止まってしまう。
「帰りは?」
「乾くまで、プールサイドでお兄ちゃんと話してればいい。水着で座れる喫茶コーナーもあるみたいだし♪」
さらに念の為に、俺は保安と辺鳥を誘うことにした。
「涼子ちゃんの水着姿が拝めるのか?」
「いいのか? 有羽!」
ああ、ぜひ目を離さずに拝んでてくれ。
とりあえず、日曜日の屋内プールはそれなりに混んでて人目もあるから大丈夫だろうとは思う。
涼子は本当に嬉しそうにはしゃいでいた。
泳ぎも上手くて速い。
高校でもちゃんとやれてたら、大会にも出られたんじゃないかと思うくらい。
もったいないよな。こんな体質じゃなけりゃ・・・。
俺は、きらきらと輝くような涼子を眩しく見つめている。
「いやあ、眼福、眼福。有羽、ありがとうな。」
「有羽は泳がないのかよ?」
「俺、運動苦手だし。」
涼子のアスリート並みの泳ぎを見ちゃったあとでは、俺の溺れてるのと区別がつかないようなクロールはちょっと・・・。
「そういえば、有羽は勉強も苦手だって言ってたし、美術も苦手だったよな。得意なことってなんだよ?」
・・・・・・・
得意なこと・・・・。なんか、あったかな・・・?
「おっ!」
突然、辺鳥が声を上げた。
「すげー美人!」
保安もそっちを見る。
「スタイル抜群! 大人の女の魅力だぁ!」
「しかも裸に近いくらい小さなビキニ!」
「有羽も見てみろよ。 眼福だぞ? 眼福!」
俺は涼子の方を見ている。裸なら毎日見慣れてるよ——。
「はあ〜。涼子ちゃんひと筋かよ? 見るくらいバチ当たらんぞ?」
うるせーな。・・・まあ、こんだけ人の目のある中なんだ。少しくらい目を離しても大丈夫かも。
辺鳥が指差す方を見ると、確かにすげー美女だった。
こんな市民プールにいるとは思えない・・・。
でも俺は一瞥しただけで、すぐに涼子の泳いでいるコースの方に目を戻す。
・・・・・?
涼子が・・・。
いない!?
コースの水底の方に人影が見えた。
「涼子!」
俺はプールに足から飛び込む。
無様な犬かきで必死に涼子が泳いでいたコースに近づく。
「ぶはあっ!」
と声がして、涼子が水面に顔を出した。
「い・・・今、目を離したでしょ! 気がついたら、プールの底にいた!」
「すまん! すまん! ほんの一瞬だけよそ見しちまった。」
これだけ人目があるから、大丈夫だと思ってた。
でも、考えたら、みんな自分が泳ぐことか自分の子どもを見ることでいっぱいで、人のことなんか見てないのかもしれない。
監視員だって、いかにも溺れてるという人には目がいくかもしれないが、突然消えたってそっち見てなきゃ気づかないよな。
甘かった!
「なんでちゃんと見ててくれないの? 溺れるかと思った。」
プールサイドに上がってから、半泣きで俺を責める涼子に保安と辺鳥の2人は慌てた。
「いや・・・、悪りい。俺たちが、よそ見させちゃったんだ。すごい美人がいるからって・・・」
「あたしじゃなくて、よその女の人見てたんだ!」
涼子の目から大粒の涙がぽろぽろこぼれ出した。
通りかかった子ども連れのお父さんが、ちらっと俺たちを見てそそくさと歩いていった。
絶対、痴話喧嘩だと思われた・・・。
今のセリフ。