3 存在しない問題
涼子の戸籍上の正式な名前は、量子だった。
「涼子」の文字は通称に過ぎないことがわかった。
観測されるまで、存在しない。
誰かに見られていないと、存在しない・・・・。
この名前をつけられたことでそうなったのか、それとも、元々の体質だったのか・・・。
両親がかわるがわる大学まで送迎していたのは・・・。
途中で人目のない場所にはまり込んでしまわないため・・・?
3日経っても喪服で玄関に立っていたというのは、そういうことだったんだ。
俺たち父子が玄関の扉を閉めた途端、涼子は存在しなくなってしまったんだ。
俺が再び玄関ドアを開けるまで——。
「涼子・・・、おまえ・・・。」
「誰も信じないもん。」
涼子はちょっと泣きそうな目で、口をへの字に曲げて言う。
「言ったって、信じてもらえないもん。」
叔父さんと叔母さんは、それを知っていた。
だから・・・・。
「俺は信じるよ。」
だって、さっきシャワーの音が・・・。
「ありがとう! やっぱり、あたしの味方はお兄ちゃんだけだあ。」
涼子が、ぺたっと俺にくっついてくる。
柔らかい胸が、俺の肩に当たる。
いや、こ・・・こ・・・これ、どうしよう・・・?
でも、こうしてくっついてるか見ててやらなきゃ、涼子は消えてしまうんだよな?
と・・・とりあえず、レポート書かなきゃあ・・・。
量子の振る舞いとして、方程式から導き出される解は・・・
観測されなければ、存在しない・・・・。
親父が帰ってくるまで、あと2日。
これまででも、問題は多岐にわたった。
特に困ったのが、トイレだ。
・・・・・・・
「見てて。・・・でも、見ちゃダメ!」
いや・・・ど・・・ど・・・ど・・・どうすれば・・・?
最初それを聞いた時は、涼子は変態なのではないか・・・とまで疑ったのだが、涼子はものすごく恥ずかしそうな顔でこんなことを言ったのだ。
「小さい頃から、トイレに一人で入れないの。家では、お母さんが見ててくれたけど・・・」
泣きそうな顔で、もじもじしている。
「お兄ちゃんは・・・さすがに、ちょっと恥ずかしい・・・けど・・・」
「どうすりゃいいんだよ? どうしてもできないのか? 1人で・・・。」
「うん・・・。」
「あ、じゃあ・・・。中に入ってドアの方向いてりゃいいか?」
「それで、手だけつないでて。」
女の子のトイレに個室まで一緒に入って、手ぇつないでる?
文字づらだけ追ったら、俺ら変態従兄妹じゃん・・・。
でも、真実を知った今ならわかる。
扉を閉めてしまったらその瞬間、涼子は用が足せなくなってしまうのだ。
厄介な体質だよ・・・。
「学校ではどうしてたんだ?」
「心理的な障害で一人で狭いところに入れない——ということにして、保健室の先生がついてきてくれてた。」
「大学でもそうなのか?」
「大学はそういうわけにもいかないから、なるべく水分取らないようにして家に帰るまで行かないようにしてる。」
「いや、それ、体に悪いし。」
「じゃあ、お兄ちゃんついてきてくれる?」
「いや、それ、もっとマズいし・・・。」
家では、まあ、開き直ればなんとかなる。
しかし・・・。
大学では、どうすれば・・・。
涼子の体質を信じてくれる女性の友達ができればいいけど・・・。
さらに・・・。
就職したら、どうなるんだ?
同僚に「一緒に個室に入ってください」なんて言ったら、クッソ誤解されるか、ドン引きされるか、のどっちかだ。
「消えてる間に、その・・・中身だけ消えてるってことはないのかよ?」
「そんなんだったら便利だけど。だいたい扉閉めたら最後、出られなくなるもん。」
あ、そうか。
消えてしまうから・・・・。誰かが次に扉開けるまで・・・。
でもって、開けた人は「しっ、失礼!」って言って、またバタンと閉めるわけだ。
カギくらいかけとけよ! って思いながら・・・。
いや、これは笑い事じゃない。
かなり深刻な問題だぞ?