花を吐く
「お嬢様。ガルーダ様より新たに本が届いております。こちらに置いておきますね」
「ありがとう」
メイドが持ってきてくれた本に添えられていた手紙を手に取る。今日もアリエスの好きな桃色の封筒だが今日は周りに美しい紋様が描かれている。蝋ではない。糸だ。直接縫い付けたのだろう。布と違って紙でできた封筒は固い。間違った場所に刺せば穴がポッカリと空き、軽く引っかけただけで穴は広がってしまう。簡単な模様なら少しコツを掴めば出来なくはないだろうが、アリエスの手の中にあるそれはペンで書いたように繊細だ。まさに職人技。まじまじと見ていれば口の中で小さな花が咲いた。一度手紙を置き、近くの桶に顔を突っ込むと息を吐くように水面に落とす。手の甲ほどの大きさの真っ白なフリージアを両親が見たらきっと喜ぶだろう。このサイズを最後に吐いたのはいつだったか。感情の起伏も年々少なくなり、最近は小さな花をポロポロと出してばかり。フリージアの花言葉は確か『慈愛』ーー奇病を患った妹のために大陸中を旅し、さまざまな贈り物をしてくれる兄に相応しい花言葉だ。
アリエスが『花吐病』を患ったのは六歳の時だ。父に連れられ、婚約者となった男の子と出会った。
「はじめまして。カーチェス=エーデルです」
金色の髪をサラリと揺らしながら微笑む彼に一瞬で心を奪われた。窓から差し込む光を浴びた彼はまるで天使のようだった。
「……キレイ」
自分の名前を名乗るよりも先に彼への感想が口から出た。今まで出会った誰よりも美しく、心が引き寄せられる。運命的な出会いとでもいうべきか。自然と涙が溢れた。
「アリエス。名前」
突如泣き出した娘を気にして、父がアリエスの背中をトンと叩く。ご挨拶しなきゃ。指先で涙を軽く拭い、口を開く。
「あ、あはひ、あひえふ……」
いや、正確には口にしようとした。けれどアリエスから吐き出されたのは兄達と何度も練習をした言葉ではなく、ピンク色の花だった。何種類もの花はぽろぽろと落ちていく。発生源はアリエスの口だ。和やかな空気は一気に凍りつき、綺麗な顔立ちのカーチェスの顔はみるみるうちに歪んでいった。奇術か何かだと思ったのだろう。けれどアリエスはそんなことをする娘ではない。異変に気付いた父はすぐにアリエスを連れて、エーデル家を後にした。
自分の身体に何が起きているのか理解できずに悲しみと混乱の涙と大量の花を吐き続ける娘を腕に抱いて。
謎の現象が起きてから数日が経っても花を吐き出すことに慣れず、けれど混乱は止まらない。感情が揺さぶられる度に生み出される花は吐くよりも発生スピードの方が勝った。何度も口の中で渋滞を起こしては涙を流しながらうぇっと唾液にまみれたそれを吐き出す。食事どころか水分補給すらままならず、けれどやってくる医者は彼女の病の正体を突き止めることができない。常に大きな桶を抱えるアリエスは透明な管から流れ込む栄養分によって生かされていた。家族は毎日花を吐き続けるアリエスのために国中を駆け回った。そして彼女の身体に起こっていることを突き止めた。
『花吐病』ーーそれがアリエスの身体に巣喰った病の名前だった。大陸中で発見されているその病は数十件ほど症例はあるものの、完治した人間はおらず、患者の殆どが発症一年未満で命を落とす。原因も治療法も分かっていないことから奇病の一つとして知られている。
花吐病について確実に言えることは二つだけ。
『感情が大きく揺れ動いた時に花を吐くこと』
『体内で作り出される種を開花させ、定期的に花を吐き出さなければ気管内に蔦や葉が蔓延り、最終的には息が出来なくなること』
そのため花吐病患者の多くは自死するか喉を掻きむしって死ぬことが多いとされる。
その事実を知った数日後、エーデル家との婚約は破談になった。いやもっと早い段階で破談になっていたのかもしれない。ただ花を吐き続ける娘に告げるのは酷だと先延ばしにしていてくれただけで。奇病にかかる前に運命的な恋というものを体験できて良かった。きっと自分はこの恋を胸に抱いて、他の患者同様に一年以内に死んでゆくのだ。
そう思っていたアリエスだったが、病を発症させてからもう十二年が経過している。
どのくらい開花が間に合わなかったものが気管内で発芽してしまったかはアリエス本人も把握していない。ただし優しい家族のお陰で未だに呼吸困難に陥ることはない。
王子様と結婚した姉はアリエスのために情報を集めてくれているし、二番目の兄は大陸中を巡ってアリエスの感情を揺さぶるものを探しては贈ってくれる。両親と一番目の兄は常にアリエスを気遣ってくれる。カーチェス様との婚約が流れた後も励ましてくれる。公爵令嬢であるにも関わらず社交界に出なくても変な噂一つ立たないのは彼らのおかげだ。ただ兄の妻である義姉は少し変わり者で、アリエスの吐き出した花を集めては専用の液体に入れて保管しているほどだ。新しい花が出れば押し花にしてコレクションブックにまとめている。それらのコレクションは厳重に保管してあるらしく、作成中のもの以外、アリエスも見たことはないが。
なぜそんなものを集めているのか。気持ちが悪くはないのかと問えば、彼女はきょとんと首を傾げてから花の浮いた桶に視線を落とした。
「アリエスちゃんの気持ちってどれも綺麗よね〜。私は特にこのシオンが好きなの。あなたらしくて素敵なお花だわ」
アリアスがよく吐き出す花の一つを手に乗せながら笑う彼女はなんて変わった人なのだろうと思った。励ますにしてももっといい言い方があるだろう、と。けれど何年も同じ屋敷に住んでいればわかる。気味悪く思うこともなく、哀れむこともなく、ただ綺麗だと本心から思ってくれているのだ。彼女が綺麗だと言ってくれるおかげで花を吐くのが辛くなくなった。
家族のおかげで今、アリエスは生き永らえている。
ーーけれどこんな生活はいつまで続くだろうか。
すでにアリエスの部屋は兄が贈ってくれた大陸中の物で埋め尽くされている。四方に設置されている天井まで続く本棚はもう空きがない。書庫に移動するにしても限界がある。それにアリエスのために一体どれくらいの額を使ったのだろうか。家のためにもならないのに……。自ら命を絶つ勇気があればどれほど良かっただろうか。アリエスは兄の愛情のたっぷり詰まった手紙を胸に抱きながら、小さな花を水面いっぱいに浮かべていく。
「ああ、こんなに出たってバレたら心配させちゃうわ……」
弱音と共に喉元で止まったままの花を吐いた。
「アリエス、君の結婚の日取りが決まった」
「……っ!」
父から告げられた言葉にアリエスの口から花が漏れた。けれどすぐについに厄介払いされるのだと納得した。驚きと悲しみ、そして諦め。それぞれの感情を一度外に出し、潰すようにポケットに突っ込んだ。
結婚の話が持ち上がっていることを本人に告げずに日取りまで決めているのだ。アリエスが反対したくなるような相手に違いない。だが奇病を患った、いつ死ぬかも分からない女を娶ろうとしてくれるだけありがたいものだ。
「結婚の日取りはいつでしょう?」
「来週だ。アリエスの体調も考えて式は挙げないことになった」
「そう、ですか」
「……アリエス、そう気を落とさないでくれ。何年間もずっと君を思ってくれた相手だ。彼はきっと幸せにしてくれる」
「それは一体どういうことでしょうか?」
「来週になれば分かるさ」
それはどういうこと? 訳もわからずにアリエスは結婚準備に追われることになった。準備と言ってもアリエスがすることはほとんどない。どうしても持っていきたい物があれば選んでいいと大きめのバッグを渡されたくらいだ。どうやら生活に必要な物はあちらが全て揃えてくれているらしく、このバッグも結婚相手が用意した物らしい。一体どんな相手なのか。ますます謎が深まるばかりだ。だが量が決められていたことはアリエスには都合が良かった。なにせ何でも持っていっていいと言われれば間違いなく部屋の全てを持っていくと告げただろう。この部屋は家族の愛情で出来ている。いつ死ぬか分からないアリエスはこれらを手放したくはなかったのだ。結婚してからもこの部屋は残しておいてくれるそうだが、それでもアリエスは思い出を一つ一つ手にとって別れを惜しんだ。
そして一週間悩みに悩んで五冊の本と二着のドレス、そして兄が旅先から送ってくれた手紙をバッグに詰め込んだ。
「幸せにおなり」
「あちらでも元気でね」
「ちゃんと手紙送るんだぞ!」
「ありがとう。私、この家に生まれて幸せだったわ!」
「アリエス……」
「じゃあ行ってきます。お元気で」
結婚相手が用意してくれた馬車に揺られて数刻ーー辿り着いたのは山奥にひっそりと佇む屋敷だった。周りを見渡しても木や草ばかり。とても近くに人が住む場所があるとは思えない。父はきっと幸せにしてくれるだろうと言ったが、扉の向こう側にアリエスが想像するような幸せがあるとは思えなかった。籍だけ入れて、隔離されるのだろうか。幸せの形なんて人それぞれと言い聞かせ、御者の手を借りて馬車を降りた時だった。
屋敷のドアが大きな音を立てて開き、長身の男性が馬車に向かって走り寄ってくる。
「アリエス!!」
頭から爪先まで漆黒で塗りつぶされたような男は目を輝かせ「ずっと会いたかった」とアリエスを抱きしめた。おそらく彼が結婚相手なのだろう。しみじみと「綺麗になったな……」と呟くが、アリエスの記憶に彼と同じ容姿の持ち主はいない。それでも胸の中に広がる懐かしさのようなものはなんだろうか。
アリエスの交友関係は六歳時点から広がっていない。お茶会デビューをした直後のことで友人と呼べる相手はおろか、家族や使用人以外の相手と話す回数も数えられるほど。その中に彼が含まれているのだろうか。
「あの……」
「っすまない。つい嬉しくて」
身体が離され、温もりがあった場所には冷たい風が吹く。まるで身体が離れがたいと思っているようだ。誰かも分からないくせに。恥ずかしそうに頬を掻く男に、アリエスはおずおずと問いかけた。
「あなたが私の旦那様になる方ですよね?」
覚えていないと伝えるようで気が引けるが、誤魔化すよりもマシだろう。いざとなったら印象が変わってしまって分からなかったと伝えればいいだけだ。
「ああそうだ。十二年前からこの日をずっと待っていた……」
「十二年、前?」
「アリエスが十八になるまで生きていたら結婚を許すーーそれが婚約を白紙に戻す条件だった」
「婚約を白紙?」
「アリエスは忘れているかもしれないが、私はかつて君の婚約者として紹介されたことがあって」
『十二年前』『婚約』となれば当てはまるのは一人しかいない。
「カーチェス様?」
運命を感じた相手にして、醜態を晒してしまった相手でもある。口に出しては見たものの、彼が再び自分と縁を結ぼうとする理由がないと軽く首を振る。少し気が動転したからか口内で咲いた花を手の器の中に吐き出す。
「すみません、人違い……」
「覚えててくれたんだ! 嬉しいな……」
「え、本当に? でもカーチェス様の髪は金色で……」
アリエスの脳裏には未だ顔を歪めた彼の姿が焼きついている。幼い天使様を思い浮かべながら目の前の男をまじまじと見つめる。髪色はすっかりと変わってしまっているが瞳は同じ。角度によって黒っぽくも見えるが、近くで見ればあの時の、吸い込まれるような深い海の色。
「染めたんだ」
「染めた?」
「金髪が嫌で嫌で」
髪を弄る彼の瞳はどこか闇を孕んでいるようで、それ以上踏み込むなとプレッシャーを放っている。アリエスが言葉に詰まっていると、彼はふんわりと笑った。
「もしかしてアリエスは元の色の方が好きだった?」
「いいえ、その色も素敵です」
「ありがとう。アリエスに気に入ってもらえて嬉しいよ。ところでその花」
「あ、えっとこれはその……感情が昂ぶると出てきちゃうもので……」
「もらっていい?」
「え、ええ。構いませんがこんなもの何に」
使うのかと問おうとした時だった。カーチェスはアリエスの手の中から花を摘むとそのまま口の中に運んだ。
「美味しい。こっちはローズティーにしようか。この花は食べられないかな? 何に加工しよう」
「な、何を……」
カーチェスは恍惚とした表情でそれを食したのだ。綺麗だと保存していた義姉とはレベルが違う。
「この花は食べられないけど、花って食べられるものもあるんだ。この十二年でいろんな花を調べ尽くしたから大丈夫だよ」
彼はそう笑うといくつかの花を選んで再び口に運んでいく。まるでそれが当たり前かのように。戸惑いつつもアリエスの口から新たに吐き出された花を次々と食していく彼の姿を見ていると、自分の感覚がおかしいような気分になる。
「あの、もっと食べますか?」
「ああ! そうだ、ここじゃ寒いから中に入ろうか」
流れるような手つきで腰を抱かれ、アリエスは屋敷の中へと入って行った。廊下には花の入った小瓶がずらりと並んでいる。瓶には一つ一つタグが付いており、日付が記してある。制作日だろうか。それにしては複数の日付が記してあるものもある。それにこれらの花には見覚えがあった。
「それはアリエスの花達だよ」
「私の?」
「そう、君の義姉さんから譲ってもらったんだ。さすがに初めの方のものはないけれど……」
愛おしそうに小瓶を見つめる彼にアリエスの胸はときめいた。口内にはいくつもの花が咲き、振り向いた彼と目が合う。
「でもこれから全部僕にちょうだい。アリエスの中から生み出されたものは全て欲しいんだ」
彼はそう告げるとアリエスの口を塞いだ。舌をうまく使って花を摘み取ると、それを食んだ口をアリエスの耳元に寄せた。
「赤薔薇は『愛情』だよね。僕も愛してる」
ふふふと笑った彼の甘い息が耳に吹きかかる。身体からは力が抜けていき、アリエスはその場にへたり込んでしまった。恥ずかしさもあるがそれだけではない。なぜだかとても泣きたくなる。
いつだったか。彼の他にもアリエスに赤薔薇の意味を教えてくれた人がいた。そして愛の言葉を囁いてくれた。記憶には靄がかかってしまっており、それ以上はわからない。けれど幼い頃からずっと屋敷に篭り続けているアリエスにそんな相手はいなかった。
愛を囁いてくれたのは一体誰なのだろう?
「アリエス、大丈夫?」
「ありがとうございます」
再会できた彼の手を借りて立ち上がると、ほんの一瞬だけ彼の髪が金色に見えた」
あの人も綺麗な金髪だった。そう思うのに肝心の『あの人』が誰かは分からない。ただとても大事な人だったような気がする。なのに記憶の靄は晴れぬまま。カーチェスに支えられるように歩き出すと、霧は一層濃くなり、アリエスの記憶の中から『あの人』が遠ざかっていった。
◇◆◇◆◇◆
『花吐病』は奇病として知られているが、実際は病などではない。
「なんでカーチェスが……」
「今まで兄さんがそうだったはずなのに!」
「お父様……」
「あああの子も直に死ぬ……私は彼になんと詫びればいいんだ」
膝から崩れ落ちる父に、カーティスは言葉をかけることができなかった。ただあの子は自分のせいで死んでしまうのかと唇を噛み締めた。
アリエスと目があった瞬間、身体に電流のようなものが流れた。まるで運命だと神から告げられたようだった。彼女の婚約者になれるなんて自分はなんと幸せ者なのだろうと感謝までしてーーその結果が花吐病? 冗談じゃない。
そもそもあの魔法はまだ叔父にかけられているはずだ。同じ家系で同時に発症することはありえない。だってあれはとある男の魂にかけられた魔法なのだから。
始まりは何百年も前に遡る。
とある街に見目麗しい娘がいた。娘には不思議な力があり、彼女が作る薬はどんな病であろうとたちまち治してしまうのだ。他の者が彼女と同じレシピで薬を作ろうとも効果はまるで違う。彼女が作るものだけが特別だった。周りの者達は彼女に尊敬の念を込めて『魔女』と呼んだ。
魔女と呼ばれる女性は娘だけではなく、各地に存在する。血の繋がりは確認できないものの、皆共通して不思議な力を使うことができた。彼女のように薬を作る者もいれば魔法と呼ばれる術を使う者もいるのだとか。
魔女の近くに住まう者達には安息が約束されるーーそんな噂が大陸中で流れるほど『魔女』と呼ばれる女性達は特別視されていた。
魔女様、魔女様と称えられ、窮屈に感じていた娘の元に現れたのがエーデル家の男だった。天の使いと間違えるほどに美しい男は魔女のまえで膝をつき、愛を乞うた。
「私に目を奪われないあなたに私の愛を捧げたい」
魔女は突然の申し出に戸惑い、そして首を振った。
「ごめんなさい。私はあなたのことをよく知らないの」
だから受け入れることはできない、と伝えれば彼は「そうか」とだけ告げて魔女の元を去った。そして翌日から毎日、彼女へ愛を伝えるようになった。手には一本の花。彼女への愛の言葉と共に綺麗な花を捧げる。彼女は男の申し出に頷いてはくれなかったが、いつからか楽しそうに笑うようになった。
男は幸せだった。
男は魅了の魔法が使えるのではないかと噂されるほどに誰からも好意を寄せられる。初めは無償の愛。けれど次第に見返りを求められるようになったそれに苦しさを感じていた。
そんな時に魔女を見かけた。自分に目を奪われない人。初めは興味だけだった。少しずつ彼女を知る度に興味は次第に愛へと変わる。誰かを愛したいと思ったのは彼女が初めてだった。彼女の部屋に少しずつ増えていく花が嬉しくてたまらなかった。
今度は花瓶を贈ろうか。
リボンもいいかもしれない。
彼女は瑞々しさを失いかけた花すらも愛してくれるから。
彼女への愛を胸に膨らませる男だが、魔女を愛したからといって周りの環境が変わるわけではない。相変わらず誰からも愛され、そして見返りを求められる。波風立たぬようにたわいない言葉を返すが、それすらも勘違いされることもしばしば。襲われそうになった時もある。破れかけた服を胸の前で抱えながら、見返りを求めるその想いは果たして愛と呼べるのだろうかと考えながら夜道を駆ける。一方的に押し付けられる愛のまがい物などいらない。男は幸せな愛だけを抱きしめたいと願った。
だが事情の知らない魔女の目からは彼が浮気者に見えた。
「私だけを愛してくれるんじゃないの」
自分がいつまでも答えを出さないから、彼は甘い香りに誘われた蝶達にも手を伸ばすのではないか。魔女にとっても男は魅力的だった。けれどその手を取るのが怖かった。彼の申し出に応えればずっと隣にいてくれる確証なんてない。
その手を取れば彼は飽きてどこかへ行ってしまうかもしれないとさえ思った。魔女は無償で差し出される愛に何を返せばいいのか分からなかったのだ。
それからも魔女は毎日やってくる男から言葉と花を受け取り、彼の帰った後で一人涙した。どうすれば自分だけを愛してくれるのか。悲しさにくれる魔女を憐れんだ友人は彼女にとある魔法を教えた。
『北の魔女が作った魔法なんだけど、この魔法を使えば愛おしい人が自分だけを見てくれるんですって』
それは素敵な魔法なのだ、と。
友人に教えてもらったレシピ通りに魔法薬を作った魔女は男にその薬を飲ませた。
『彼が私だけを愛してくれますように』
それは小さな願いだった。
自分の気持ちを言い出せない弱虫な魔女が不思議な力に縋っただけ。
けれど魔女は知るべきだった。
その魔法が周りにどんな影響を及ぼすかを。
男に薬を飲ませてから、彼に寄ってくる女性は次第に減っていった。男は魔女の元へと一直線にやってきてくれる。幸せだった。彼の手が触れ、花が増える度に魔女はこの時間が永遠に続けばいいと願った。……願って、しまった。
魔女が異変に気付いたのは、薬を飲ませてから五日が経った日のことだった。近くの教会から呼び出され、出向いた先で何人もの女性達がバケツに向かって花を吐いていた。それも枯れかけた花ばかり。こんな症状見たことがない。一体何が起こっているのか。事情を聞けば、彼女達は急に花を吐くようになったのだという。伝染病を疑った魔女はすぐに同じような症状を起こした人物に覚えはないかと各地の魔女達に手紙を出した。多くの魔女は力になれそうもないと答えたが、数人は『北の地で似た症状を見たことがある』と答えた。そして同時にこうも書かれていた。
『それはおそらく伝染病ではなく、北の魔女がとある男にかけた魔法だ。男を心から愛した女に呪いがかかるように、と』ーーと。
『北の魔女の魔法』と聞いてすぐに魔女は彼女達に何が起こっているのかを察した。そして自分が一体何を作り、飲ませてしまったのかを。教会の人達に女性達を託し、魔女はすぐに北の魔女の元へと向かった。彼女が作った魔法だ。きっと解除方法も知っているはずだと思ってのことだった。けれど魔女が到着した時にはもう遅かった。彼女は家の中で恋人と共に死んでいたのだから。二人の前には冷え切った食事が並べられている。パンにはカビが生えており、もう何日も放置されていると見て間違いないだろう。だがスープには一切変化がない。状況から見て、毒入りスープを飲んだことで二人は息を引き取ったのだろう。魔女である彼女が毒になる食材を気付かず使ったとは考えづらい。おそらくは誰かに毒を盛られた。それは恋人かはたまた花を吐きはじめた女性達の家族か。北の魔女を訪問しただけでは分かるはずもない。
死者に手を合わせ「ごめんなさい」と短く詫びた後、魔女は例の魔法に関するメモがないか家中を探した。そして小さなメモと彼女の日記にたどり着いた。メモには例の薬の作り方が記されていたが解除方法についての記載はなく、代わりに日記には薬の効果について詳しく記されていた。数ヶ月かかって作ったらしいその魔法に関する記載は日とページを跨いで、飛び飛びに記載されている。それら全てを追い、そして答えに行き着いた魔女は絶望した。
あの魔法を解く方法などなかったのだから。
本来この魔法の効果は三ヶ月程度。呪いを受けた女性達が花を吐くのも十日ほどで、変な病にかかってしまったと思わせるだけの予定だったのだ。飲ませた後、数日間は効果があったと魔女自身も喜びを綴っている。
『これで懲りたらきっと彼も浮気をしなくなるし、女達だって近寄らなくなるわ』
そう、これは浮気性の恋人を懲らしめるための魔法ーーちょっとしたいたずらだったのだ。おそらく友人はこの段階の話を聞いたのだろう。けれど次第に計画は狂っていく。日に数回、口から花が出てくる程度だった娘達が突如として喉を引っ掻くように苦しみ始めたのだという。そして魔女が手を尽くす前に女性達は死んでいった。口からは植物の蔦や葉を覗かせる者もいたと記されておりーー日記はこの日を最後に終わっている。
魔女はレシピの原本と仮定の記された日記を胸に抱き、街へと戻った。最後まで枯れた花の記述はなかったが、魔法さえ解ければきっとその症状も治るだろう。そんな魔女の思いも虚しく、街に戻った頃には女性達は皆、命を落としていた。教会の人に話を聞いても北の魔女の日記に書かれていたような蔦や葉はなく、最後は皆、枯れた花に溺れるように死んでいったのだという。気になるのは彼女達の表情だ。満たされたように笑っていた、と。さらに彼女達が亡くなったのは魔女が街を出発した日もしくは翌日である。同じ薬を使ったというのに、症状も何もかもが北の地で起きていたことと違いすぎる。環境の違いだろうか。彼女達の死を気味悪がる家族に代わり、魔女は森のひと区画に墓地を作った。街から遠く離れてしまったのは街の住人達が死体であろうと近くに置くことを嫌ったためだ。
「ごめんなさいごめんなさい」
動かぬ女性達に何度も謝罪の言葉をかけ、魔女は女性達を埋葬した。それから彼女は魔法を解くための研究に明け暮れた。男に会うこともせず、来る日も来る日も薬釜と対峙した。ドンドンドンと強くドアを叩かれる度に魔女は責められているようだった。それでも何とか薬を完成させた魔女はやってきた男の気を失わせ、薬を飲ませた。そしてひっそりと息を引き取った。
ーーこれらは男と魔女の友人、そして彼女の書いた日記から推察される事の発端である。
そう、魔女は魔法を解いたのだ。彼女の他にも北の魔女の薬を作った魔女はいたことから、解除薬の効果は実証されている。実際エーデル家の男が気を病んで死ぬまで彼に恋した女性はいずれも花吐病を発症していない。
問題はそのあと。
魔女に魔法をかけられた男達の子孫に『生まれ変わり』と呼ばれる子が生まれてしまったのだ。全員ではなく、一部の家だけではあるものの、いずれも魔女に愛された男と同じ特徴を有している。そしてその子孫に恋をした女性は皆、花吐病にかかる。
『生まれ変わり』が生まれる頻度はどの家もランダムだが、どの家も共通して『生まれ変わり』が生きているうちは新たな『生まれ変わり』が現れることはない。そのことから魔法は男の魂にかけられたものだと言い伝えられるようになった。もちろんどの家も自分の家に魔法がかけられていることを公にはしない。恋をした女性達は理由もわからずに花を吐き、命を落とす。そのため奇病として広まったというわけだ。だがエーデル家を含め、どの家も花吐病患者を発生させないように努力はしている。実際、前の『生まれ変わり』であったカーチェスの叔父は魂を引き継いでいるとされた時点で、人里離れた場所にある屋敷に移されている。万が一に備え、外からは中が見えぬようにと窓は高い位置に三つほど設置されているだけ。また使用人はもしも『生まれ変わり』を愛したとしても花吐病にかかることのない男で固められている。完全に隔離された空間で叔父が生きている間はエーデル家に次の『生まれ変わり』は現れないーーはずだった。
そう『生きている』うちは。
アリエスが花吐病を発症した数日後、例の屋敷の使用人によってカーチェスの叔父の死が告げられた。時刻は彼女がエーデル家を訪れる少し前。大量の花を吐き出し、それに顔を埋めるようにして亡くなったらしい。叔父付きの使用人によればその顔はたいそう幸せそうであった、と。
こうして突如として『生まれ変わり』に認定されてしまったカーチェスはすぐに叔父が住んでいた屋敷に隔離されることとなった。
カーチェスを屋敷に移してすぐ、父はアリエスの家族に花吐病について知っていることを話し、謝罪したそうだ。けれど彼らはエーデル家を責めることはしなかった。ただ一言、カーチェスに手紙を渡して欲しいとだけ。過去に花吐病を発症した女性は皆、亡くなっている。手紙にどれだけの罵詈雑言が書かれていても、全てを受け入れるつもりだった。けれど書かれていた言葉は非常にシンプルであった。
「少し変わった体質になってしまった我が娘をどうか嫌わないで欲しい」
嫌うはずがない。私も彼女に恋をした。彼女が私に恋をしてくれたことを嬉しく、同時に彼女を苦しめてしまったことに申し訳なさを感じる。そう記した手紙を返したことで、アリエスの家族との不思議な関係が生まれた。
『アリエスが十八になるまで生きていたら結婚を許す』との条件で婚約が白紙になったのもこの時だ。アリエスとの婚約続行を願うカーチェスへの優しさだったのだろう。
けれどそれまではアリエスの体調が悪化する可能性があると彼女と会うことはもちろん、文通をすることは叶わない。代わりに彼らはアリエスの様子を細かく教えてくれた。そして彼女が生み出した花を加工して送ってくれた。
日に日に彼女への愛おしさは募り、同時に自分の中に入り込んだ先祖の魂が憎らしく思えた。彼の髪は透き通るような金髪だと聞けば、今まで自慢だった髪色が途端に気持ち悪く思えた。金色の髪を視界に入れたくなくて、常に短く切りそろえ、鏡を排除した。抜け落ちた毛すらも気に入らず、週に一度、髪を染めるようになったのは彼女と出会ってから三年が経過した時のことだった。
髪色を変えたカーチェスは魔女や花吐病について調べることにした。各地を巡る彼女の兄や、王子妃となった彼女の姉と情報交換したがやはり魔法を解く鍵はどこも落ちていない。ただ調べていくうちにカーチェスの中で疑問に思うようになったことがある。
『本当にこれは魔女の魔法だけなのか?』
調べれば調べるほど、死亡方法や死体の状態など地域によって小さな違いがあることがわかったのだ。おそらく誰の生まれ変わりに恋をしたかが関係するのだろう。エーデル家に関わる女性達は皆、枯れた花に埋もれて死んでいる。自死した者も全て、だ。さらに他の女性から発見された蔦や葉は気管内に蔓延ることはあれど口内まで侵食することはない。そんな偶然あり得るだろうか。
それに叔父の死ーー彼は花吐病にかかっていないはずなのに花を吐いた。それも彼の口から花が咲いたのは死の直前だけだ。他の女性達と似た死に方をした叔父。けれど決定的に違うのは花が生きているか死んでいるか。また今まで一度も生まれ変わりが死んですぐ違う身体に移ったという例はない。どんなに短くとも数年は期間が開いているし、次の生まれ変わりに選ばれるのは前の主人が亡くなってからだ。
ではなぜ男の魂は突如として叔父の身体から抜けて、すでに自我が確立されたカーチェスの元に来たのか。
まるでアリエスに会いに来たかのようだと考えてハッとした。あの時、彼女に運命を感じたのは本当に自分自身だったのだろうか。かつて魔女を愛した男が再会できたことを喜んでいたのではないか。
魔女は確かに魔法を解いた。
それでも男が何度も転生を繰り返し、花吐病を生み出すようになったのは魔女に見つけて欲しかったからではないだろうか。
エーデル家の生まれ変わりに恋をした女性達が枯れた花ばかりを吐き続けたのは、魔女以外の女性に生花を、愛を捧げることを男が拒絶したからではないか。
「愛してる、ミリアーナ」
スルリと口から出たのは知らぬ名前。けれど懐かしさを感じる相手へ向けた言葉は無意識に何度も口から溢れてしまう。
「会いたい」
「好きだ」
「なぜ俺を置いていったんだ」
「俺は君だけを見ている」
それはきっと愛を信じてもらえなかった男の嘆きなのだろう。涙をボロボロと流しながら、再び出会えたはずなのにまた会えなくなってしまった女性へと思いを馳せる。
「会いたい会いたい会いたい会いたい」
どんなに欲したところで彼女に会うことは叶わない。会えば彼女の身に何が起こるかわからない。手を伸ばせるのは彼女の家族から送られてくる花だけ。
アリエスへの想いだけではなく、男の魔女への想いまでもが脳内に押し寄せ、気が狂いそうになった。胸が苦しく、息苦しさで眠れない日もある。それでもアリエスをこの腕に抱けることだけを夢見て生き続けた。
そして彼女の十八の誕生日にようやく長年の夢が叶ったのだ。立派なレディとなった彼女を抱きしめ、彼女の名前を呼ぶ。
「愛している、アリエス」
カーチェスの中に巣食う男は「ミリアーナ」と頭の中で呼び続ける。その名前の女性はもうこの世には居ないというのに。目の前にいるのはミリアーナではなくアリエスーーカーチェスを思って長年苦しんでくれる愛おしい女性だ。
カーチェスは彼女が吐き出した愛を摘み、口に入れる。どんなものよりも甘くて美味しい魅惑の花。たまに吐き出す毒花やトゲのあるものすらも愛おしく、食べてしまいたい衝動に駆られる。けれど彼女を残して死ぬわけにはいかない。だからしぶしぶ枯れないように加工して新たなコレクションへと加える。新たな花を加える度、男は『ミリアーナ、思い出してくれ』と叫ぶ。頭がぐわんぐわんと揺れるほどの大声に気を失いようになる。けれどカーティスは負けるわけにはいかない。
「この子は私のものだ」
小さく呟けば、アリエスは不思議そうに首を傾げた。
「カーティス様、今なんと?」
「私は幸せ者だなって」
「幸せなのは私の方ですわ」
顔を赤らめて恥ずかしがるアリエスは絶対に渡さない。彼女を抱く手を強め、そして身体の中に住まう祖先に伝わるように強く念じる。
とっくの昔に死んだ男になんか譲ってやるものかーーと。