03.見知らぬ天窓
目が覚めるとベッドの中にいた。
高い天窓――ステンドグラスが嵌まっている――から差し込む光で、もうだいぶ日が昇っていることを知る。
頭が痛い。ガンガン脈を打っている。アルコールの残り香がやばい。
視線を動かす。
白塗りのそっけない壁には見たこともない絵が1枚だけ掛けられている。絵というか、線? 幾何学の問題みたいだ。
一輪挿しが飾られた出窓には仰角に高く向いた望遠鏡が設えてある。一脚だけのロッキングチェアにはファブリックが掛けられクッションが置かれている。その前には雑然と本が積まれた小さな丸テーブル。視線をぐるっと一周させると壁に角がないことに気付く。円錐状の部屋だった。灯台や見張り台みたいだ。下へ向かう階段だけがあって上に向かうそれがないから、最上階かもしれない。部屋の中央あたりに両側と上が抜けた腰壁のようなものがあって視界を遮っている。本以外のものが少なめでがらんとした印象の部屋だ。
「どこ、ここ……」
身動ぎすると、背後から静かにすーっ、すーっ、という音がした。
誰かが同じベッドで寝てる。
いや待って。ちょっと待って。なにこの状況。落ち着いて。落ち着こう。
身体を起こすと、あたしは服を着ていなかった。上から下まで、なにも。
あ、だめだこれ。
さーっと血の気が引く。酔っ払って記憶が飛ぶとか笑い話ではよく聞くけど、まさか自分がそんなことになるとは。
とりあえず服。服を着なきゃ。どこだ、服。
「ん……」
背後の人が、起きた。心臓が壊れるかと思った。冷や汗がどばっと噴き出す。
どうしよう。まったく覚えてない。
何もかもすっ飛ばしてお持ち帰りされて婚前交渉してしまうとか、そういうやんちゃな人生を送る予定ではなかった。
恋愛小説みたいに色々な経験をともにしてお互い理解を深めてから逢引とかそんな感じの手順を踏む予定だった。
いきなりこんなの、見知らぬ婚約者以上に想定外だ。
夜の蝶たちだってドン引きだ。
「起きていたの?」
予想外のソプラノ――! セーフ、これはセーフ。
振り返ると、ベッドに広がる金色の長い髪。
掛かった上掛けが華奢な肩から腰にかけて繊細な稜線を描く。
少し紫がかった蒼い瞳。
ほんのり色付いた薄い唇。
ソバカスの散った透き通るような白い肌。
お人形よりも人形らしい、ちょっと想像を絶するようなとんでもない美少女が、いた。
あたしと同じか、少し下の年齢、という雰囲気だ。
誰?
きみまだ酒場に来るような年齢じゃないよね?
その華奢な身体で標準より大きめの私をお持ち帰りすることなんかできないよね?
え、じゃあなに、お持ち帰りしたのはあたし……? 実現可能性でいうならそちらのほうが高くない? それなら、ここはどこなの。ていうか、アウトじゃないそれ? あれ? どういうことなの?
頭が混乱してきた。
「……もうお昼だし」
疑問はすべて言葉にならず、どうでもいいことを答えた。
美少女が身体を起こす。下着のような薄いシャツ1枚だけだけど、服は着ていた。ほっとして息を吐く。
セーフだ。たぶんセーフ。
あたしが服を着てないのは、寝ぼけて脱いだとかそういうことなんだ。家でもよくやらかすしね。何もしてないし、されてないに決まってる。貞操の危機は考え過ぎだった。たぶん。絶対。
「そうね。なにか食べる?」
美少女がベッドから起き上がってスリッパをはく。
あたしは首を横に振った。頭はガンガンするし、胸がいっぱいすぎて食欲どころではない。むしろ吐きそう。
「それで昨日のことだけど」
心臓が胸から飛び出しそうになる。この際、心臓には家出してもらったほうがいいかもしれない。身体がもたない。
あたしの様子を見て美少女は苦笑いした。
「その様子だとなにも覚えてないみたいね」
「仰る通りです……なにか失礼なことをしていたなら、本当にすみませんでした」
ベッドの上で正座して額がマットレスに叩きつけられる勢いで頭を下げると、美少女は呆れたように言った。
「失礼、ね。覚えてないくせに謝罪するのね。フィオナなら絶対にそういうことしないと思うけど」
「すみません」
そうだね。姉貴は絶対謝らないよね。自分に非があってもね。
ん? ということは、この人は姉貴の知り合いだろうか。
それなら姉貴がここまで酔っ払ったあたしを運んで見知らぬこの人に押し付けた挙句、自分はさっさと帰ったのかな、とか、いろんな疑問に説明がつくけど。
「そういうのいいから。身に覚えのないことで謝罪されても逆に失礼だわ。それよりも先に服を着てくれる? 目の毒よ」
「それがその、どこにあるのやら……」
言い終わる前に、床に脱ぎ散らかしていた服が拾われて投げつけられる。いたい。
「いいから早く着て」
「はい」
「あなたは二度とお酒を飲まないほうがいい」
アルコール中毒者に向かって医者が言うように深刻な表情でトリスが言う。
いったい何をしたんだ、あたし。
のろのろ着始めると、美少女はすたすたと腰壁の向こうへと姿を消した。
それからコンロに火を入れる音や、水音、野菜を刻む音が続く。
腰壁の横のコート掛けには灰色のローブがかかっていた。
なるほど。あの店にいたのか。ということは、少なくとも私と同じかそれ以上の年齢ってことか。驚きの童顔だな。
「手伝うよ」
着替え終わってから棚の裏手にあったキッチンに顔を出す。
「あなたにできることはないと思うけど。包丁を握ったことはある?」
「自分で狩った鹿や鳥を捌くのは得意だけど、野菜はあまり得意じゃないかな。芋の皮剥きなら早いほうだと思うけど」
作業台の上にあった芋を取ると、自分の短刀でしゅるると剥く。
野営では料理班に回されることが多かったから、晩餐に出るような繊細な料理なんかは無理だけど、なんでも鍋に突っ込んで煮込むだけの雑な料理ならかなり得意だ。
短刀だって自分で研いで手入れをしているぶん愛着もあるし扱いも上達している、はず。
「貴族のお嬢様にしては変わってるのね」
「姉貴ほどでは」
むしろ貴方の手つきのほうが余程危なっかしいのですが。
そう思ったけれど礼儀正しく口には出さなかった。
◇
焼いた芋とパン、切った野菜と薄い紅茶。
キッチンの脇に折り畳み式の椅子とテーブルを出してブランチだ。二日酔いの頭に紅茶が染みる。
「お名前をお伺いしても?」
切り出すと美少女は驚いたように目を丸くした。
「知らないの?」
「なにを」
「てっきりフィオナから紹介されているものと思っていたから」
「姉は雑なので」
「そうね。雑よね……私はベアトリス・エリュダイト。トリスでいいわ」
「あたし、レベッカ・エヴォリュシオン。よろしく、トリス」
握手のつもりで差し出した手は、ごく自然に無視された。かなしい。
「……それで、あたしはどうしてここにいるんでしょうか? なにかやらかしたことがあるのであればお詫びなどをいたしたくですね、その、きちんと教えていただければ」
「そうね」
トリスは溜息を吐いた。
「あなたは気にしなくてもいいわ。苦情なら、フィオナに言うから」
「いやあの、姉に言うぐらいなら直接言ってもらえませんか? わかるでしょう、あの姉を通せばどんなことになるか!」
「どう言われても、この件に関してはあなたには言わない」
きっぱりと言い切って、トリスは話題を打ち切った。
これ以上、続ける会話もなかった。
だからこれが最初で最後の出会いなのだろうと思った。
まさか姉貴が組織してあたしを巻き込んだ竜討伐隊の一員としてまたトリスと顔を合わせることになるだなんて、このときはまったく思いもしなかったのだ。