俺が見たいのは、笑顔だけだ。
静寂の中、神が倒れ伏す音だけが、世界に鳴り響いた。
その衝撃で、世界の端に亀裂が生じた。
アダンの居る場所からも見えるその亀裂は、少しずつ閉じ始めている。
アダンはその亀裂に足を向けた。
だが、いくら歩いても距離が縮まらなかった。
自分はこの世界から出られないのだと実感し、彼は足を止めた。
気が付けば、アダンの全身は黒く濡れていた。
神の血なのか、自分の血なのか、別の滴りなのか。
それは分からなかった。
ふわりと、小さな光がアダンの頬に触れた。
小さく美しい、黄金色の光。
黒く濁りきったこの世界には、似つかわしくない美しい光。
『アダン様』
小さな光から、聞き覚えのある声が聞こえた。
『これで、ご主人様は開放されました……本当にありがとうございます。アダン様には、償いきれないものを押し付けてしまいました……』
「……」
コーラカルの声だった。
アダンが光球に目を向ける。
『私も、思念体として残る事ができました。長く生きていた影響でしょうか……何時までこうしてお話できるか分かりませんが、それまではご一緒に居させてください。何の償いにもなりませんが、どうか……』
「…………」
アダンは黙ったまま両腕を広げた。黒く濡れた腕にひびが入ったが、アダンは構わずに腕を動かし始める。瞬く間にアダンの眼前に、いくつもの図形が現れた。淡く光るそれは、暖かい色を湛えていた。
『アダン様……?』
図形をずらし、揃え、最後に優しく押し込む。すると、図形を中心に光が広がり始め、アダンたちを包み込んだ。やがて光が収まると、その場にはコーラカルが肉体を取り戻した姿で座っていた。代わりに、アダンの体が足元から塵になっていく。
「これ、は……ッ!?」
『これでいい……お前はここに残らなくていい……』
「なぜ、何故ですか。これではアダン様は、永遠に独りで!」
『俺の願いは……知ってるだろう……』
「そんな、そん、な……ッ!」
『俺は……お前の笑顔が……見たかっただけだ……』
コーラカルは消え行くアダンにすがりついた。だが、もうどうすることもできない。コーラカルは散っていくアダンの前でうつむき、大粒の涙を流した。
「アダン様、お待ちに……!」
『コーラカル……』
「待ってください、待って……!」
『笑顔も好きだが……誰かを想って流す涙も……美しいな……』
「どうして、待って……!」
『だが……俺はやっぱり……笑顔が好きだ』
「……ッ!」
『だから……笑ってくれ……』
アダンの言葉に、コーラカルは弾かれたように顔を上げた。
震える足を動かし、アダンの前にまっすぐに立つ。
それから、美しい人間の手で涙をぬぐい――笑顔を作った。
涙で濡れ、すぐにでも崩れてしまいそうな不恰好な笑み。
それでも、アダンには十分だった。
誰かを想って浮かべる、暖かな笑顔。
アダンが、大好きな笑顔。
『……いい笑顔だ――』
アダンもまた、笑顔を浮かべ――世界に溶けて消えた。
コーラカルの体が、世界の端にできた亀裂へ引き寄せられていく。
彼女は大粒の涙を流しながら、今いる世界に留まろうと抗った。
だが、彼女の体は閉じ行く亀裂に向け、止まることなく引き寄せられる。
「アダンさまあぁああ――――!」
彼女が叫びを残して亀裂をくぐり抜けると、その世界は閉じられた。
コーラカルの意識はそこで途切れた。
彼女が目を覚ましたのは美しい草原の上だった。
足元に咲く、一輪の花を踏まないように立ち上がり、周囲を見渡した。
だが、そこに彼女の見知った顔は無かった。
ふと、彼女の肩に一羽の小鳥がとまった。
碧色の小鳥は、彼女に向けて小さく囀った。
彼女が触れようとすると、その小鳥は飛び立ち、空の向こうへ消えた。
穏やかな日差しの降り注ぐ緑の芝生の上で、
雲一つない空を見上げ、コーラカルは、
大声で泣き叫んだ。




