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リュシオル

 蟲は――リュシオルは震えるような奇妙な声で、アダンの名を呼んだ。それから体を不規則に光らせ始ると、アダンの周りにいた蟲たちは自らの得物を、自身の首や腹部に突き刺した。どろどろと体液を滴らせながら、蟲たちは息絶えた。


「リュシオルお前……戻ったのか」


 アダンの問いかけに、リュシオルは静かに首を振った。彼は体をかがめてアダンを立ち上がらせ、すっと腕を伸ばした。アダンが目で追うと、どこかを指し示している。彼が指示した方向には、マイとコーラカルの足跡が見えた。彼女たちを追えと言うのか。


「リュシオル……」

「行、け……」

「だが、お前は……」


 リュシオルはもう一度首を振り、別の方向を指さした。その方向からは、また新たに蟲たちが飛んできているのが見えた。アダンが「あいつらは」と短く問いかけると、リュシオルはまた首を横に振った。あの蟲たちは操れないようだ。


「い、ケ……!」


リュシオルはもう一度そう言うと、アダンの肩を力強く押した。アダンはよろめくだけで倒れることは無かった。先ほどまで瀕死だったはずのアダンの体は、もう歩ける程度までは回復していた。アダンは瞬時ためらったが、「ありがとう」と言い残してその場を去った。

 リュシオルは離れていくアダンの背から目を離すと、迫りくる蟲たちに目をやった。彼は羽を広げ、蟲たちに向けて突撃した。

 異形の羽で風を切り、一気に蟲たちとの距離を詰める。先頭の羽虫を殴り飛ばしたが、一瞬で彼は蟲たちに囲まれてしまった。殴った蟲も死んではおらず、ふらふらと飛び上がると、当たり前のように包囲に加わった。リュシオルは醜く膨れ上がった奥から覗く、美しく整った顔を皮肉っぽく歪めた。

 蟲になって得た能力、蟲を操るという能力も、今はどうやら使えない様だ。夜間以外は効き目が薄いのか、能力の限界が来たのか、それとも何者かの意志なのか――。

 生えたばかりの羽で飛び回り、手足を振るって奮戦するが、斬られ、削がれ、粉砕される。片腕は潰され、両の脚は原形をとどめていない。

 それでもリュシオルは、蟲たちの半数以上を行動不能に追い込んだ。蟲たちは羽を広げ、リュシオルに背をむけた。アダンを追おうとしているのかと、リュシオルはすかさず蟲へと飛びつき、叩きつけた。

 だが、それは蟲の策略であった。リュシオルが地に伏した隙に、彼の体に残された蟲たちが一斉に襲い掛かった。体制を整えようとするリュシオルだったが、間に合わず体中に蟲たちの針や棘が突き刺さり、鋏や鎌で肉が削がれた。


「~~~ッ!!!!」


 生きたまま全身を微塵に切り刻まれる激痛。半端に蟲になったリュシオルには、意識も痛覚も残されていた。痛みに意識を手放すことも、発狂することも叶わないまま、リュシオルは少しずつ殺されていく。

それでもリュシオルは声など上げてやるものか、こんな世界を創ったやつを喜ばせてなるものかと、歯を食いしばって耐えた。歯にひびが入り、砕け始めてなお、彼は声を発しなかった。



 思えば、僕は何のために生まれたのだろうか。


 親の顔は見たことがない。

 親からもらったものはこの見てくれだけ。

 それを、僕は歪んだ形で利用した。


 体を差し出せば、大人から驚くほど金がもらえた。

 そうやって生きる糧を得ている子供は沢山居た。

 普通の子供たちは、薄汚れた宿屋や裏路地で客を取る。


 でも僕は違った。

 見てくれの良さを買われて、貴族たちの相手ができた。

 貴族たちはこぞって僕を求め、お金以外も与えてきた。

 ベッドに入る前には、どんな贅沢でもさせた。


 食べきれないほどの御馳走が机に並べられた。

 華美な装飾が入った衣服を着せられた。

 無駄な意匠が入った大きな風呂に入らされた。


 ベッドの上で媚び、奉仕すればそれらが簡単に手に入った。

 世界がこんな状態なのに、僕は命の危険に晒されることは無かった。

 それは幸福なんだと、僕は毎晩自分に言い聞かせた。


 体液の匂いが残る、ベッドの中で。


 ある日、僕は柵の外側に出た。

 城壁の中の貴族が、下界の様子を見たがったのだ。

 僕も煌びやかな服を着せられ、馬車に乗って同行した。


 馬車の中から見る外は最悪だった。

 貧困、飢餓、不潔、暴力――絶望。

 貴族の家にあった趣味の悪い絵の世界が、目の前にあった。


 汚らわしい、見ていたくないと、そう思った。


 僕は隣に居た貴族に体を寄せ、早く帰りたいと言った。

 脂肪で膨れた腹を撫で、顔を近づけ、精一杯媚びた声で。

 貴族は鼻息を荒くして、すぐに帰るよう伝えた。


 馬車が踵を返したその時、視界の端に彼らが映った。

 泥だらけ煤だらけで、談笑する『鶯』たちの姿が。


 何の変哲もない、ただの日常の風景だ。

 だが、僕は雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。


 僕にはあんな風に笑い合える相手はいない。

 ああやって肩を組んで話せる相手はいない。

 不平不満を隠さず顔に出せる相手はいない。


 ただ媚びへつらった笑顔を作るだけ。

 汗と体液にまみれた体を重ねるだけ。

 自分を殺し無理に嬌声をあげるだけ。


 汚らわしいのは、一体どっちだ。


 気が付くと、僕は馬車を飛び出していた。

 後ろから聞こえる貴族の声から逃げるように、必死に走った。

 美しい衣服を泥だらけにして、彼らの元に走った。


 そうやって僕は、鶯になった。


 でも、もう皆どこにもいない。

 僕が仲間と呼んだ人たちは、ほとんど死んでしまった。

 僕もこうして蟲になった。


 虫になって得た力が、他者に頼る能力だなんて皮肉が利いている。

 結局僕は変わらないのだろう。

 誰かにすがって、体を使って奉仕するしか能がないということか。


 だったら最期までそうしようじゃないか。


 だけど、この世界をお創りになった神様に奉仕するつもりはない。

 奉仕する相手は自分で決める。

 アダン、マイ、コーラカル……皆のためにできることをする。


 アダンならやってくれる。

 この地獄を、終わらせてくれる。

 そのために、僕は体を使おう。


 最期にひとつ。

 皆の役に立てただろうか――。



 激痛で歪み、ぼやけたリュシオルの視界に蟲の姿が見えた。腕を振り上げ、彼の頭を叩き潰そうとしているようだ。リュシオルは静かに目を閉じ、自身の死を待った。辺りに、蟲の体液がまき散らされた。


「……?」

   

 だが、それはリュシオルのものではなかった。彼がいつまでも意識があることに疑問を抱いてまぶたを上げると、黒い影が視界に映った。


「ア…ダン……!」


 黒い影はアダンだった。彼は蟲の体液の武器を振るい、リュシオルを取り囲んでいた蟲たちを次々に葬っていく。彼の反応速度は人間のそれではない。もはやリュシオルよりもその動きは機敏であり、瞬く間にその場に居た蟲を皆殺しにしてしまった。アダンは蟲の体液で汚れた顔を拭うと、リュシオルを見下ろし、跪いて抱き起した。


「何故……」

「すまない、放っておけなかった」

「……馬鹿ダな、きミ…は、本当に馬鹿だ」

「ああ、そうだな」

「……台無しだ、こレでマイを助けに行くのがオク、れる……」

「すまない」


 アダンが感情の読み取りにくい顔でそう言うと、リュシオルはやれやれと首を振った。その顔には生気はなく、死を免れることはできないようだった。


「……死ぬのか」

「しぬ、だろウね」

「そうか」

「この姿で生きツヅけるのナン、て…ぞっとす、る……」


 リュシオルは顔を歪め、血を吐いた。人間のものではない不気味な色の液体が、アダンの腕にかかり、僅かな傷口から浸み込んだ。瞬時沈黙が訪れた後、リュシオルは残された片腕でアダンの襟を掴んだ。


「あだン、お願いが、ある……!」

「……なんだ」

「……救ってくれ、マイを……この世界を……!」

「……」

「わかってるよ、馬鹿みたいなことだ、子供みたいな……ねガい……でも、そのほうがいい…そうだろ、こんな……こんな世界、間チガってる……コーラカルは言って、タ……救えるって……だから、ダカ、ら……」


 アダンは襟を掴むリュシオルの手を握り、静かにうなずいた。


「必ず俺がやり遂げる。だからもう、休め――」


 アダンの言葉に、リュシオルは僅かに微笑んだ。アダンの手から彼の手が零れ落ち、リュシオルは静かに息を引き取った。


「……」


 アダンは前へと傾いていく自分の体を止められなかった。また、目の前で仲間が死んだ。救えなかった。リュシオルの亡骸に額を押し付け、アダンは固く目を瞑った。目を閉じた暗闇の中で、どろどろとした何かが、自分の体の中をめぐっている事に気が付いた。怒りか悲しみか、それとも感情ではないのか。アダンにも、誰にも分からなった。

 それでもアダンは立ち上がり、前へと駆け出した。マイとコーラカルの痕跡を追って、ただひたすらに足を動かす。人ならぬ速さで駆け続けている間、リュシオルに言われた言葉が頭をよぎる。


「……すまない」


 アダンはリュシオルに謝った。世界を救ってくれと頼まれた、そのことに対してだ。アダンは世界のことなどよく分からなかった。だから世界の救い方など分からない。それでもアダンが足を止めないのは、仲間のためだ。これ以上仲間を死なせないためだ。


 これ以上、仲間の笑顔を奪わせないためだ。


 アダンは前を向き、マイたちが向かった方角へ一直線に向かう。そこに蟲は居る。この不幸を、絶望を広げる者たちがそこにいる。蟲を倒せば、この悲劇は終わる。これ以上、仲間の笑顔を奪われることもなくなる。


 アダンは更に速度をあげ、マイたちを追いかけた。

 自分勝手で、利己的な願いをかなえるために。


 自分の世界を、救うために。

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