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怖い

 アダンは立ち上がり、レンガ造りの廃屋へ視線を向けた。木製の古びた扉から視線を外さず、「休んでるわけじゃないんだな」と小さく質問すると、マイは嗚咽を漏らしながら静かにうなずいた。アダンはマイをコーラカルに任せ、ゆっくりと廃屋に近づいていった。マイはコーラカルの服の裾をきつく握りながら、アダンの背中を見る事しかできなかった。

 アダンの疲労は極限にまで達しているが、ふらつく足は自然と廃屋まで動いていく。自分の足音とマイの嗚咽、生ぬるく冷たい風の音が、耳を通して脳に送られる。ほんの数メートルほどしか離れていない廃屋までの道のりが、嫌に長く感じられた。


「リュシオル、いるのか」


 廃屋の扉に向けて声をかけると、中で何かが倒れるような音が聞こえた。だがそれきり音は止み、また不快な風の音と軋む廃屋の音だけが、アダンが立つその場に漂った。

風雨で劣化した木製扉に手をかけ押してみると、何かが引っかかっているのか開かなかった。少し力を込めてみると、みしみしと湿った木が軋むような音が、小さく中から聞こえた。かんぬきか何かがされているようだが、少し力を込めれば開きそうだ。

 アダンが力を込めて押すと、内部でかんぬきが軋む音が大きくなる。リュシオルに呼びかけながら扉を押していると、ばきりとかんぬきが割れる大きな音が聞こえた。

それと同時に、内側から激しい足音が聞こえた。アダンに向けて駆け寄ってきている。アダンが反応するより早く、扉に内側から何かが突っ込み、アダンは吹き飛ばされた。


「入って来るな!」


 声の主はリュシオルだった。理知的で皮肉屋な彼に似つかわしくない、悲痛で必死な声色を聞いてなお、アダンは焦ることなく立ち上がると、廃屋の扉に一歩一歩近づいていった。


「おいリュシオル」

「駄目だ、入るな!」

「わかった、入らない」

「そうしろ…そうしてくれ……ああ、アダン無事だったんだな」

「……何があった」

「血が、血が出るんだ……」


 アダンが「血?」と聞き返すと、彼の背後でマイが硬く瞑った。コーラカルはマイを抱き寄せ落ち着かせるように、彼女の背を撫でた。


「マイ様、大丈夫ですか」

「き、昨日……夜に、焚火の前で一緒に居て…と、突然リュー君の鼻とか口とか…目とか……いろんなとこから血が……!」


 後ろから聞こえるマイの震える声に、アダンはアカリの姿を思い出した。彼女も赤黒い血だまりの中に居た。自分が刺した傷から流れ出たにしては多すぎる量の血だった。アダンは理解した。リュシオルも蟲になりかけているのだ。アダンは古い木の扉に手をあて、その向こうに居る仲間に静かに語りかけた。


「リュシオル……」

「アダン、僕は怖いんだよ」

「わかるよ、誰だって……」

「違う、違うんだよ。怖いのは血が出る事じゃない、死ぬかもしれないってことじゃない。僕は今こんなになっているのに……なあ、アダン。僕は今、すごく、すごく満たされたような気持になってるんだ。嬉しい、幸せ、楽しい……うまく言えないけど、何かから解放されるような、すっきりとした……ああ、血が出るたびにそんな気分になるんだ……それが怖いんだ、僕がボクでなくなるような……ああは……!」


 扉の向こうから、くぐもった声が聞こえた。笑い声なのか泣き声なのかもわからない、リュシオルのその声を遮り、アダンは淡々と口を開く。


「いいかリュシオル、お前はたぶん、蟲になる」

「……ああ、そんな気はしてたよ」

「……どうする」

「迷惑はかけられない。何か武器……自分で喉を掻っ切ったり胸を刺すのは嫌だな……あいにく首を吊れるようなものもなくてね、銃は持ってるか?」

「……アカリのがある」

「そうか、それはよかった」

「どうやって渡す」

「少し開ける、その隙間から渡してくれ……ああ、後ろを向いていてくれないか。今の僕は見てほしくない。大丈夫、後ろから襲ったりしない……今はまだ、ね……お前を襲うようになる前に、自分で処理させてくれ」


 アダンは目を閉じ、深く息を吐いてから了承した。アカリの小さな銃に弾を込め、扉に背を向けて後ろ手に銃を持った。少し離れたところで泣き崩れるマイとコーラカルが見える。アダンはコーラカルに目で合図を送り、彼女は頷いて、マイからアダンたちが見えないよう位置を変えた。

 背後の扉が開く音が聞こえた。手にした銃に何かが触れたのを感じると、そっと銃から手を離した。手から銃が離れ、扉が再び閉まる音を聞いてから、アダンは振り返った。


「アダン、ありがとう」

「気にするな」

「アカリ達の姿は見えなかったな……ああ、言わなくていい。アカリの銃をお前が持ってるって事はそう言う事なんだろ」


 アダンが無感情な声で「ああ」と答えると、しばし沈黙が流れた。


「……みんな、どうだった」

「なにがだ」

「死に際だよ、苦しんだのか」

「いや……分からない。ただ、エフィ、アカリ、オー……その誰が欠けても俺は死んでた」

「そう、か……それなら皆、よかったのかもな……僕とは違って」

「リュシオル……」

「せめて、迷惑かけないように死ぬよ」

「……大丈夫だ、皆向こうで待ってる」

「悪いが天国も地獄も信じちゃいない……でも、ありがとうアダン」


 それを最後に、リュシオルの声は聞こえなくなった。アダンは立ち尽くしたまま。目の前の扉を見つめていた。冷たい風が二度、三度アダンの頬をかすめると、銃声が扉の向こうから聞こえた。それきり、扉の向こうからは何も聞こえなくなった。

 扉の下、その隙間から染み出た赤黒い液体が、音もなく広がっていく。広がる血だまりが、アダンの足元を濡らす。アダンはその赤黒い液体を、身じろぎ一つせずに見つめていた。


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