瞳の中に
「こんなところに川があるとはね……」
エフィは霧の水面を眺めながら呟いた。背後では虫除けの草が焚かれ、鶯たちが一晩ぶりの休息をとっていた。どの顔も疲れの色が濃い。火を起こしていたマイが立ち上がり、エフィの元へと歩み寄る。
「エフィさ……隊長、焚火の設置完了しました」
「いいよエフィで、隊長なんて器じゃない」
「そんなこと……」
「いいや、私がもっと行く先を吟味していればこんな足止めを食らうことは無かった。渡る方法を考えるなんて余計な手間も……あの夜だってあそこを野営地に決めたからグリレ君は……そもそも私が蜻蛉を撃ち落とす技量があれば、シガールだって……」
独り言のように小さく呟くエフィの肩に、マイがそっと手を置いた。
「エフィさんがいなかったら私たちとっくに死んでました」
「……」
「エフィさんが指揮をとってくれたから、ここまで戻ってこれたんです。もし私たちだけなら、きっと皆ここまでこれなかった……」
「その通りです」
マイの言葉を後押しするようにコーラカルの声が聞こえた。彼女はいつの間にか二人の隣に立っていた。人形のように美しい顔で無遠慮にエフィを見据え、美しい声を出す。
「お二人が亡くなったのは貴女のせいではありません。全ては……」
「神の仕業だと?」
「はい、あの者を倒すことが叶えば絶望の連鎖は止まります」
「……悪いが今は、というより元々そんな話は信じられない」
「ごめん、コラーカルさん。私も……」
「謝る必要はありません。時が来れば皆様にも必ず分かっていただけるはずです。それよりも、今なすべきことはひとつだけです」
「なすべきこと?」
「それって……?」
コーラカルは白く美しい手をそっと上げると、マイの腹部を指し示した。数秒の後、ぐう、と大きな音が鳴った。コーラカルが表情を変えずに「お食事がまだです」と言うと、マイは赤面して腹を押さえ、エフィは小さく吹き出した。
「わ、笑わないでください!」
「あはは、申し訳ない。だが確かにまだ食事をとっていなかったな。まったくそんなことも気が付かずに弱音を吐き、空腹の仲間に慰められるなど、隊長の器でない証明だな」
「エフィさん……」
「いやいや、これからは気を引き締めるよ……『隊長』としてね!」
エフィがいつもの調子を取り戻すと、マイも表情を緩めた。折よくアダンとリュシオルも霧の中から姿を現した。二人は蟲の体液で生成した縄を持ち、船を引いてきていた。
「おお! 船が見つかったか!」
「ああ、渡し守は居なかった」
「残念ながら船は彼らの血でべっとりだ……拭かないと、な……」
言葉を詰まらせ咳込むリュシオルにマイが駆け寄った。
「大丈夫……って、顔真っ青じゃない」
「さっき血を吐いてたからな」
「おいアダン余計なことを」
「血だって!?」
「本当なのリュー君!」
「ああもう……!」
慌てた様子であれこれと言葉をかけるマイとエフィに、リュシオルはうんざりと言った様子で美少女じみた顔を歪めた。
「ちょっと疲れが出ただけだって、だから早く休ませてくれ」
リュシオルは詰め寄る二人を面倒そうに両手を払って遠ざけたが、なかなか二人は納得しない。質問が浴びせかけられ続けるリュシオルは大きくため息を吐き、アダンを睨んだ。
「みんな元気だね……」
「オォー……」
霧の向こうの人影を横目で見ながら、焚火の周りで休んでいたアカリとオーが顔を見合わせた。そうして少し笑うと、焚火の向こうに座っているファレーナが視界に入った。無くなった腕の包帯に血が滲んでいるのを見て、アカリはオーの膝の上から降りた。
「ファレーナお姉ちゃん、ホウタイ変えよっか?」
「……そうね」
「わかった!」
アカリは荷台に手を突っ込み、比較的綺麗な包帯を手に取り戻ってきた。
「あ、でもマイお姉ちゃんのほうが上手にできるかな」
「……そうね」
「でも、早くとりかえたほうがいいよね?」
「……そうね」
「お姉ちゃん?」
アカリがそっと顔を覗き込むが、ファレーナは反応しなかった。その視線をはアカリの後ろ、霧の向こう側を見ているかのようだった。
「……おねえ――」
「水が、あるの?」
「え?」
「この先に水があるのね」
「う、うん。そうみたい」
日頃聞いているのんびりとした口調ではない。無機質でどこか醒めたような――まるで蟲のようなその声色にアカリはほんの少し恐れを覚えた。
「お姉ちゃん?」
「水、水があるのね……」
「お姉ちゃん、どうか――」
アカリは言葉を詰まらせた。ごくりと小さな喉を鳴らしてファレーナの瞳を注視した。アカリは見えたような気がした。ファレーナの瞳の中に、細い糸のような蟲が蠢くのを。
動きを止め、アカリはそのままファレーナの瞳を見続けた。ファレーナはまるでそこにアカリが居ないかのように、虚ろな瞳のまま「水、水」とうわ言のように呟く。
恐怖に体が強張りファレーナの瞳から目が離せなくなっていたアカリだったが、初めに見たきり糸のような蟲が現れることは無かった。そのうちにうわ言が止まり、瞳の焦点がアカリの顔に合わさってファレーナは少し驚いたような顔になった。
「あら~アカリちゃんどうかした~?」
「え……あの、ホウタイ……」
アカリは状況が呑み込めず、手にした包帯を差し出す。ファレーナが「ありがと~」と間延びした声でそれを受け取ると、アダンたちが焚火に戻ってきた。
「あら~アダン君たちお帰り~」
「ファレーナ、大丈夫か」
「ちょっと包帯巻きなおしてくれるかしら~」
「じゃあ私が」
「ありがとね~」
じっとファレーナを見つめるアカリに、エフィが「どうかしたのかい」と声をかけるが、アカリは黙って首を振った。
今彼女の瞳の中に見たものは何だったのか。いや、きっと自分の見間違いだ。アカリはそう言い聞かせて巨人の膝の上に戻った。




