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グリレ

 グリレの言葉で、アダンの意識は急速に蘇った。


 グリレの振り下ろしたノコギリはアダンの脳天、ほんの数センチ上で止まっていた。逆立っていたグリレの髪の毛が少し下がっているのが分かった。

 蚯蚓ミミズが握りつぶそうと自身の腕部分を引き絞り、アダンが血を噴き出すと、グリレは目を見開いて蚯蚓の腕部分にノコギリを突き立てた。半分ほど埋まった刃を引き、押し、引き裂き、蚯蚓の腕を断ち切った。

 二重人格故か、それともアダンに落とされかけたことで狂気が薄れたのか。どちらにしてもアダンはグリレに救われた。


「――ッ!!」


 アダンは足が付くと同時に地を蹴った。足の疼きと共に人並外れた脚力が発揮され、まとわりつく蚯蚓の腕から逃れた。


「グリレだいじょ、ぶか……!」

「グ、グゥウ……! あ、あああだ、ン……!」


 グリレから完全に狂気は取り払えていなかった。ノコギリ包丁を片手にアダンに殺意のこもった視線を向けている。完全に気絶させられればいいのだが、アダンもすでに満身創痍だ。仮に気絶させられたとしてグリレを背負って脱出しなければならない。

 そんなことできるはずがない。


「ガァっ!?」


 蚯蚓は残された腕部分でグリレを捕らえた。蚯蚓は先ほどのようにその場で締め上げることはせずに、ずるずるとツタの木々の中へ移動しようとしていた。暗闇へ引きずられていくグリレに、アダンは飛びついた。


「掴まれ!」

「ガアっ! ア……!」


 アダンはグリレの片腕を掴み、精一杯踏ん張った。うつぶせのような姿勢で引きずられていくグリレを助けるために足に力を込める。足の傷が疼き、常人以上の力を出せているはずだが、既にぼろぼろのアダンの体は十分な力を発揮できずに、暗闇の中へと引き込まれていく。

 諦めるわけにはいかなかった。諦めたらグリレが死ぬ。そんなことはもう嫌だった。だからアダンは軋む体に鞭打ち、グリレの腕を決して離さなかった。だが、無情にもアダンがそれ以上の力を出すことはできず、徐々にグリレとアダンは闇へと引きずられていく。


「グリレ、がんばれ……ッ!」

「グア、ガァア!」

「がんばれ、がんばるんだ……!」

「グ…ウ……」


 先ほどグリレがやったように蚯蚓の腕部分を断ち切ればいいのだが、いまアダンが手を離せばグリレは闇に引きずり込まれる。それにアダンの武器では太く絡まる蚯蚓の腕を切断するのはたやすい事ではない。

 状況は絶望的だった。それはアダンにも分かっていたが、諦めることなどできずなかった。グリレの片腕を掴んだ手を離さないように力を込める。少しでも考える時間を稼ぐために足の筋繊維を総動員して踏ん張る。

 アダンにできることはそれしかなかった。


「あきらめるなよ、絶対に……」

「……」

「しっかりしろ、大丈夫だ!」

「…………ン」

「大丈夫だ、助ける……!」

「……アダン」

 

 自身の名を呼ばれ反射的に顔を向けると、グリレと目が合った。

 その瞳からは狂気が失せていた。



 思えば、俺は何のために生まれてきたんだろうか。

 料理が好きだった。でも自分は大嫌いだった。

 人より劣る見た目に、二重に生まれ持った人格。

 そんな自分が嫌いだった。


 料理していない時の自信の無い自分が嫌いだった。

 料理している時だけ暴力的な自分が嫌いだった。


 だからどこへ行ってもうまくいかなかった。

 貴族は見てくれを蔑み相手をしてくれなかった。

 平民は性格を疎み厄介者として追い出した。


 でもそれは当たり前だ。

 自分が好きになれない自分を、誰かが好きになってくれるはずがない。


 でも、『鶯』は違った。

 ろくでもない俺に、料理人としての居場所を与えてくれた。

 自分の料理を誰かが食べてくれる喜びを与えてくれた。

 二つの人格を、劣った見てくれを受け入れてくれた。


 皆の好物は全部頭に入っている。


 マイは肉、シンプルな塩味だけでガツガツ食べる。

 アカリは菓子だ、簡単なものひとつで目を輝かせる。

 オーは食に無頓着だが、アカリと一緒に食えるようにいつも小分けにした。

 ファレーナは意外とお子様舌、彼女の食事はいつも甘めに味付ける。

 エフィは芋だ、特に特製ハーブバターがお気に入り。

 リュシオルは尖った味が好き。いつも酸味や苦みを利かせてやる。

 シガール、死んじまった隊長は辛い物と酒が好きだったな。

 アダンは何でもうまいと言うが、柑橘系の風味が好きだって俺は知ってる。

 コーラカル、あいつの好みは分からずじまいか。


 皆うまそうに俺の料理を食ってくれた。

 俺は俺が嫌いだが、皆は大好きだ。


 そんな鶯の仲間に自分は何をした。

 そして今何をさせている。


 俺みたいなやつを命を張って助けようとしてくれている。

 こんなにぼろぼろになってまで。

 ちょっと考えればわかるだろう、俺はもう助からねえ。


 アダン、お前は本当に訳の分からない奴だな。

 そんな君が嫌いじゃないけどね。

 

 俺に、ボクにできる事は――。



「……?」 


 グリレはアダンに掴まれていない、ノコギリ包丁を持った手を振り上げた。

 グリレは、一つ呼吸をして――自身の腕にその刃を振り下ろした。

 血が噴き出し、アダンの顔を濡らした。


「なに、して……」

「ぐあ……ああああああ!」


 グリレは雄たけびを上げながら、ぎちぎちと自らの手で自らの腕の肉を引き裂いていく。皮を裂き、刃にひっかかる筋肉や神経を引き裂き、骨まで刃を到達させる。顔を伏せ歯を食いしばり、必死に痛みに耐えていた。


「やめろ、やめるんだ! なにしてる!?」

「はあ、ああ……ああがあっ!」


 グリレが包丁に体重をかけると同時に、ぼきりと不快な音が響き渡り、アダンの腕から重みが消え去った。暗闇の奥で蚯蚓が、グリレを捕らえた腕部分を思い切り引き、グリレの体は闇へと引きずり込まれた。

 アダンは尻もちをついた姿勢のまま、もう届かない位置まで引きずられていったグリレに向けて手を伸ばした。


「待――!」


 闇へと引きずり込まれる寸前に、グリレは顔を上げた。

 月明かりに照らされたその顔は、笑っていた。

 その顔は死への恐怖で歪み、震えていた。

 

 だが、確かに笑っていた。

  

 グリレが闇に消えたすぐ後に、何かが押しつぶされるような音が聞こえた。

 何かが――肉や骨が握りつぶされるような音。

 悲鳴は聞こえなかった。だが、アダンは確信していた。


 グリレは死んだ。

 また、仲間が死んだのだ。

 

 膝を折り、アダンはグリレの消えた闇を呆然とした顔で眺めていた。その背後から、別の蚯蚓が近寄ってきていることにさえ気が付いていなかった。グリレを連れ去り殺した個体とは別の蚯蚓だ。

 蚯蚓はずるずると音を立ててにじり寄るが、アダンは気が付かない。蚯蚓はアダンも引き裂きばら撒き、沼を広げる栄養源にしようと、腕を模した蚯蚓の塊をアダンに差し向けた。


「オォオオーッ!!」

「……!」


 その時、木々を押し倒す轟音と共に巨人が現れた。オーだ、アカリもその背に乗っている。アダンの腰紐を頼りにここまで追いかけて来たのだ。オーは走ってきた勢いそのままに、アダンに手を伸ばす蚯蚓を殴りつけた。蚯蚓たちは突然の衝撃に統制を失い、バラバラと地面に落ちた。

 巨人の背に乗るアカリは散らばった蚯蚓たちに手のひらを向けると、何事かを囁いた。次の瞬間、アカリの手から炎の線が噴き出し、散らばる蚯蚓を焼き尽くした。巨人の轟音とアカリの光と熱で、アダンも正気に戻った。


「お兄ちゃん! 乗って!」

「ああ……」

「早く!!」


 アカリの声に従い、アダンはオーの背中に飛び乗った。巨人はアダンの紐を手繰るように森の外へと走って行く。アダンは振り返り、グリレが消えた闇をもう一度見つめ、強く唇を噛んだ。

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