蚯蚓
ノコギリ包丁が振り下ろされる。
アダンは最小限の動きでそれをかわし、地面に刺さったノコギリ包丁に自身の剣を振るった。耳障りな金属音と共に巨大な包丁は跳ね上がったが、グリレの手からは離れなかった。
グリレを正気に戻すには気を失わせるしかない。だが、そのまま飛びつき首を絞めたところで返り討ちに遭うのは目に見えていた。だからまずは武器を無くし、動きを封じてからとアダンは考えたが、そう簡単にはいかなかった。
「グゥアアッ!」
グリレの喉の奥から獣のような声が絞り出されると同時に、ノコギリ刃がアダンに襲い掛かる。ぬかるむ足元で必死に攻撃をかわすが、刃が掠める度に血の気が引く。一撃でも喰らったら終わりだ。慎重に迎え撃たなければならないが、かといって時間もかけていられない。ここは蚯蚓の沼、いつ蚯蚓が現れてもおかしくない。
「ガァアアッ!」
「う……ッ!」
ノコギリの横っ腹がアダンにぶち当たり、みしみしと骨が軋んだ。痛みにわずかにアダンの意識が薄れると、狂ったグリレはアダンの体を蹴り飛ばした。アダンはぬかるんだ地面を転がり、口内に血の味が広がるのを感じた。
グリレはずるずるとノコギリ包丁を引きずり、アダンの前に立った。そして両腕を振り上げ、倒れ伏すアダンに向けて巨大な包丁を振り下ろした。ぐちゃり、と不快な音がして泥が飛び散った。だが、そこに血は混じっていなかった。
「グガッ!?」
突如グリレはバランスを崩し、べちゃりと地面に倒れた。立ち上がろうともがくがうまく立ち上がれなかった。グリレの脚には何かが巻き付いていた。アダンが道に迷わないようにと括り付けていた蟲の体液製の紐だった。アダンは攻撃をかわすと同時にそれをグリレの脚に巻き付けたのだ。
アダンは立ち上がれないグリレに馬乗りになり、リュシオルにやったように首に腕を回して締め上げた。もがき、暴れるグリレを押さえつけながら喉を締め上げた。
「ガ、ア……」
しだいにグリレの抵抗する力が弱まってくる。あと少し、アダンがそう思った瞬間、彼の体は宙に浮いた。徐々に地面から離れていく自分の体、全身を這いまわる不快でぬるついた感触。
「蚯蚓……!」
巨大な蚯蚓の塊がアダンを持ち上げていた。下半身のない人間のような形を形成している蚯蚓たちは、まるで人の腕のように集まった部分をアダンにまとわりつかせ、ずるずると蠢いていた。
「くそっ!」
蚯蚓の腕の中で剣を錬成した途端、体を這いまわっていた蚯蚓たちが、アダンの体を握りつぶすかのように収縮した。全身の骨が音を立て、筋肉が引き裂かれ、内臓が圧迫され体から絞り出されるような痛みが、アダンの全身を押しつぶす。
「ぐぶ……うがあああ!」
アダンは足の疼きに任せ、何度も足を動かすが、空を蹴るばかりで何も事態は好転しない。いよいよ全身の痛みは増し、口からごぽりと血が噴き出た。意識は朦朧とし始め、視界はぼやけた。焦点の合わない視界に映ったのはグリレの姿。蚯蚓の腕に飛び乗ってきたのだ。
「グウゥ……」
グリレの口から出た唸りで、まだ狂気から脱していないことが分かった。それが証拠にアダンを殺そうとノコギリ包丁を振り上げている。全身を握りつぶされる痛みに意識を薄れさせていくアダンは、ノコギリを振り上げるグリレをただ見ている事しかできなかった。
「ガァア!!」
ぼんやりとした視界の中、グリレが自身に向けて刃を振り下ろすのが見える。既に体の痛みすら薄れ始め、まるで時間が遅くなったかのようにゆっくりゆっくりと自分に向かって刃が近づいてくるのが見えた。アダンはぼんやりとした意識の中で何も考えることができず、ただその光景を見ていた。
「……」
ゆっくりと刃が近づいてくる。
そろそろ自分に届くだろうか。
まだ届かない。
そろそろだろうか。
いつまでたっても届かない。
「……ん」
「……?」
「ア…だん……!」
「――グリレ……!」




