シガール
「ああ、なんということでしょう」
背後から聞こえた声にアダンとマイが振り返ると、そこにはコーラカルが立っていた。彼女はゆっくりと歩を進め、跪いた。何かを持ち上げ、瞳を閉じてそっと額をそれにあてた。それは、アダンが切り落とした蜻蛉の頭だった。
「貴方はまた、自分の心に向き合えなかったのですね……」
蜻蛉の頭を優しく撫で、小さな声で「安らかに」とコーラカルが囁くと、蜻蛉の体も頭も、巨大な外殻も静かにその形を失い、溶解し、塵になった。そしてそのあとには何も残らなかった。まるで先ほどまでの命のやり取りが全て夢だったかのように、跡形も無く。
コーラカルはゆっくりと立ち上がると、アダンとマイに視線を向けた。
「おめでとうございます、アダン様。マイ様。お二方は彼の力を超えました……お二方は今、『神』に近づいたのです」
「一体、なにを……」
「犠牲は、大きいものでしたが……」
コーラカルは二人からゆっくりと視線を逸らし、もう一度瞳を閉じた。その顔が向く先には、シガールがいた。それに気が付いた二人は、倒れ伏すシガールに駆け寄った。シガールを仰向けにし、やっとのことで上半身を抱え起こす。
「おい、大丈夫か!」
「隊長!」
「すげえなアダン、マイ……あいつを……やっちまった」
低くくぐもった声で言うシガールの腹部からはとめどなく血が溢れ、地面にはすでに血だまりができている。
もう、助からない。シガール自信を含め、その場に居る全員がそのことを理解していた。無駄と分かっていてなお治療を試みる二人に、シガールは静かに「もういい」と伝えた。二人は手を止め、俯き黙り込むしかなかった。シガールがアダンの手に力なくその手を乗せると、アダンは顔を上げた。
「いいか……まずは拠点まで戻れ、それからはエフィの指示に従うんだ。あいつなら、うまく……やれるだろう……」
徐々に声が小さくなるシガールに、マイは、アダンですら、瞳に涙を滲ませた。だが、隊長の死の際に情けないところは見せられない、心配をかけたまま逝かせるわけにはいかない。アダンとマイは努めて明るい声色で答えた。
「わかった、あんたの言うとおりにする」
「そう、だから安心して! あんしん、して……」
「……なあ、ここにいるのは俺たちだけか」
「ああ、あとコーラカルもいるが」
「そうか……そう、か……」
力なく添えられるだけだったシガールの手に力がこもり、アダンは眼を見開いた。アダンの手を握りしめるその力は強く、痛みを感じるほどだった。
「アダン……! 俺はこんなところで死ぬのか、こんなところで……! 死にたくねえ……こんな形で……こんなところで、無念だ……無念、だ……ッ!」
シガールは叫んだ。歯を食いしばり、痛みと死の恐怖に抵抗しながら吠えた。
分かっていた、分かっていたんだ。
自分たちにできることなど何もないって。
だがそれでも足掻きたかったんだ、漫然と死ぬことなどしたくなかった。
蟲に脅え、死の恐怖に震える命を見捨てることなどできなかった。
安全なところで世界の終わりを見ていることなどできなかった。
だから『鶯』を結成して蟲たちと戦ってきたんだ。
少しでも世界を良くしようとしてきたんだ。
ろくでもない俺が少しでもまともになれるよう戦ってきたんだ。
だが、その結果はどうだ。
いくつもの若い命を俺の独りよがりな正義に巻き込んだ。
ああ違う。正義ですらない、俺の功名心に巻き込んだ。
なんの価値もない俺が英雄になれんじゃないかと勘違いしたんだ。
粗暴でろくでもない俺が、壊すことしかできない俺が。
何かを壊すことだけで名を残せるんじゃないかと思ったんだ。
そうやってあいつらを巻き込んだんだ。
そのあげくに、巻き込んだ張本人はこんなところで野垂れ死ぬ。
貴族たちの言う通りだ、俺はただの馬鹿だ。
10人ちょっとの仲間を集めて何が変えられた。
その仲間に何をしてやれた。
ああそうだ、その仲間。
アダン、マイ、エフィ、リュシオル、ファレーナ、アカリ、オー、グリレ。
それにコーラカル。
いいやつらだ。こんな俺を隊長と呼んでついてきてくれた。
そんなやつらを残して死んでいく。
ただそれだけが心残りだ。
「俺は……お前たちを置いて……死んじまうのか……」
「……」
アダンは黙ったまま自分の掌に力をこめ、シガールと同じだけ強く握り返した。アダンはシガールの苦痛と無念に歪む顔を正面から見据え――ゆっくりと、しっかりと頷いた。
「……あダ、ン……」
「シガール……ありがとう——」
アダンの口からこぼれ出た言葉は、ありふれた陳腐な台詞だった。なぜそんなことを口走ったのかアダン自身も分からなかった。だが、その言葉でシガールの苦悶の表情は薄れ、手の力も弱まってきた。もうシガールには喋る力は残されていなかった。
だから最期に彼は笑った。
目を閉じて、ほんの少しだけ口元を上げるだけの力のない笑顔。けれども、安らかな笑顔。アダンとマイに向けた笑顔。
ほんの数秒の笑顔の後シガールの表情は消え、アダンの手から彼の手が滑り落ちた。自身の血だまりの中に落ちた手から温もりが消えた。
シガールは、こと切れた。
強く握られた手の感触が、シガールが生きていた証が、アダンの手にまだ残っていた。その掌のしびれは、蜻蛉の体液が染みた傷口よりも、さらに熱く疼いた。アダンはその熱さを忘れぬように、拳を強く握りしめた。
シガールの、最期の笑顔を頭に浮かばせて。




