3.逃がしはしない!――攻める!
直線で加速すると、S字コーナーが目前まで迫る。
ぎりぎりまで粘ったすえブレーキを思いきり踏みつけ、クラッチを切った。同時に、踵でアクセルをあおる。シフトレバーを4速から2速に入れた。強烈なエンジンブレーキがかかり、車体が斜めに流れた。
リアタイアが鳴く。
カウンターをあてながら、アクセルで微調整した。踏みすぎれば内側にスピン、緩めすぎれば、反対側に尻をふることになる。
続けざまのコーナーを、氷上をスケートするかのごとくクリアしていく。文字どおり、フィギュアスケーターが舞うような華麗さだ。
さしもの月もS字は苦手らしく、追跡が鈍った。
ここで差を開けるしかない!
コーナーの立ちあがりでアクセルを踏み込み、一気に突き放した。
直線になった。バウンドする月の姿が見えなくなった。
ざまあみろってんだ、間抜けなフンコロガシ野郎!
そうは問屋が卸さないらしい。
ゴロゴロ転がる奴がさらに輝きを増し、カジキマグロそこのけに突進してきた。憤怒の色を浮かべているようにも見えた。
いや待て――様子がおかしい。
回転する巨大なボウリングはでたらめな光を四方八方に放っていた。見ようによっては、標的を索敵しているみたいに青白いサーチライトを照射していた。事実、半分は当たっているかもしれない。まさぐるように光で志倶麻の車の居所を探しているのだ。
もしや奴は、視力を失いつつあるのではないか? 知能と視力をもってして、志倶麻の車を追っているというならばだが……。
一撃必殺の大ジャンプをくり返し、自らにダメージを蓄積させていたのかもしれない。現に至るところから光が洩れているのは、なによりの証拠。あれは亀裂に他なるまい。破裂寸前のように見えた。
しかも、以前ほどの爆発的なスピードは明らかに落ちている。
この勝負の行方、まんざら志倶麻に勝ち目がないわけでもなさそうだ。
そう安心したのもわずかな間だけだった。
見る見るうちに月との距離が開いたと思ったのに、奴は青白いサーチライトを一点に集束させ、逃げる車めがけ、一直線に照射してきた。
光がなにほどのものか!
志倶麻は油断していた。その怪光線をもろに浴びてしまった。
車内がまばゆい光に満たされた。青白い溶接のアーク光みたいな強烈な光が暴れに暴れた。
明滅するストロボが二人を浮き彫りにした。
志倶麻は前方を見すえつつも運転に集中している。なんら変化はない。
しかし、ミハルには効果をもたらした。これもLunaphobiaだからだろうか?
聞くにたえない悲鳴をあげた。がくがくと全身をふるわせ、しまいには上半身を海老反りにさせた。
口を大きく開け、舌を突き出し、大量の泡をほとばしらせた。
志倶麻の身に変化はないとはいえ、あまりにもまばゆい光に幻惑され、視界が利かない。これでは運転すらままならない。
ブレーキをかけるべきか?
いま急激に速度を落とせば、たちまち奴に追いつかれ、オカマを掘られる。
ええい、ままよ!
山道はS字コーナーの連続を抜けたら、しばらく直線が続くはずだった。そう記憶している。
コースから逸脱しないよう、祈るしかない。
アクセルをゆるめず、むしろ攻め続けた。下を向いて眼をカバーしていた。
志倶麻は薄目のまま、助手席の女を見ようとした。
わが眼を疑った。声をあげることさえできない。
ミハルの頭部は、ありえないものに変わっていた。さっきまでの美しい女のものではなかった。
とんでもないものが、か細い首に乗っかっていたのだ。サッカーボールなみの白い球体にすげ替えられていた!
単なる球体ではない。――月だ。黒い模様に、ぼこぼこのクレーターもそのままに、ミニチュアの月がミハルの首に乗っていた。ネオンサインよろしく、淡い燐光まで放っていた。
身体の方はものも発することができないため、両手で顔があったあたりをさまよわせている。
まるで、『私の顔はどうなってしまったの?』とでも言いたげな仕草をしていた。絶望ぶりを表現するパントマイムを演じていた。
「ミハル、しっかりしろ! 変わっちまうんじゃない!」と、志倶麻は叫んだ。
ゴンゴンゴン!と硬いバウンドする音が近づいてきた。不吉すぎる音だ。車のすぐうしろに迫った。
ミハルは月に憑りつかれ、完全に化け物へと取って代わられてしまうのか。
もはや手遅れなのか? 間に合わないのなら、かくなるうえは、奴と刺しちがえるしかない。
月を倒せば、もしかしたら彼女はもとに戻るかもしれない――。すべては賭けだった。
ミラーを見た。縦スピンをかけて大ジャンプするのを待った。
おそらく奴も次あたりの攻撃をしくじれば、みずからのボディを痛めつけ、ただでは済むまい。
おたがいラストチャンスだった。
でたらめなバウンドをしていた月が、ひときわ大きく跳ねた。しかもこれまでのものより、高い――。
この一撃に賭けているのだろう。トドメを刺すつもりだ。
「これを待ってた! カウンターを決めてやる!」
折れんばかりにブレーキペダルを踏みつけた。
車体のフロントが沈みこみ、志倶麻たちは前につんのめった。シートベルトが肩に食い込む。
これも紙一重で、車のすぐ前を球体が落下し、弾んでいった。
渾身のボディスラムもかわしたぞ!
志倶麻たちの前を、月がバウンドして遠ざかっていく。制御しかねている様子だった。バックスピンもかからない。走行中、はずれたタイヤのように力なく転がっていった。
月の表面にはマスクメロンの網目のような亀裂が生じていた。破裂しそうなほどひび割れ、ミラーボールそこのけの無数の細い光を洩らしていた。
立場が逆転した。
志倶麻は車を停め、すばやく外に出た。
助手席側にまわり込み、ドアを開けてミハルを抱えようとした。月の頭部をふらふらさせるミハルだったものは、志倶麻を引っかこうと爪を立てたが、かまわず引きずりおろした。脚でドアを閉めた。彼女を路肩に寄せて、寝かせた。
月は逆襲しにやってくる様子はない。どんどん遠ざかっていく。
ふたたび車に乗り込んだ。
逃げるつもりなどない。そして奴を逃がすわけにはいかない。
クラッチを切り、ギアを1速に入れ、アクセルを開けた。回転数をあげると、クラッチをミートした。
マシンが急発進し、身体がシートに押し付けられた。
月との距離はたっぷり開いた。これだけあれば充分加速させることができる……。
異形と化したミハルを置き去りのまま、マシンを走らせた。
3速から4速に叩き込んだ。
エンジンの咆哮が、志倶麻を奮い立たせた。
道は狭くなった。左右の木々はまばらで、地面は腐葉土のはずだ。クッションの役目を果たしてくれたらいいが……。
こんどは志倶麻が月を追う!
ドアがなくなったガラ空きの右側から、荒々しい風がなだれ込んできて志倶麻の髪は乱れた。
満身創痍のボディ。エンジンだけが志倶麻の怒りと同調し、命を燃焼させていた。こいつだけは力のかぎり闘い続けるはずだ。
いまこそ燃え盛る炎のごとき、みなぎる生命をぶつけてやる! 奴に! 逃げゆく月に! 逃がしはしない!
――攻める!
ありったけの加速。
まわりの景色が高速に流れていく。大気を切り裂く刃となれ。
たちまち月に追いついた。奴の寿命は尽きかけていた。
志倶麻はターゲットと外を見比べた。時速一〇〇キロに達していた。打ちどころが悪ければ即死は免れまい。
月に迫った。
ギアをニュートラルにした。
身体を半分、車外にさらした。風圧が凄まじい。
志倶麻はアスファルトの向こうの腐葉土めがけ跳んだ。頭を抱え身体をまるめた。木立に当たればそれまでだ……。
柔らかい大地に埋没すると同時に、前方でマシンが球体に激突した音が響いた。
マシンがクラッシュし、岩石が派手に砕ける大音響!
死んではいない。意識もクリアだ。
志倶麻はマシンが突っ込んだ方角を見た。
車は大破し、ボウリングの四散した光景が広がっていた。
忌々しい月が打ち壊され、卵の殻のような外側を散乱させているのだ。
――中身だ。
中身まで露出させていた。
なんと月のなかには、大脳のような生々しい神経中枢の肉塊がつまっていた。巨大すぎた。
それがちぎれ、つぶされ、熟れすぎた柿のようにうじゃじゃけていた。
奴は文字どおり意思をもった生命体だったのだ。
得体の知れないそれは死んでいた。もはや微動だにしない。道ばたで轢かれた小動物と大差ない。
志倶麻はどうにか路上にあがり、その残骸に近づいた。一面に岩石の破片、脂肪とタンパク質で構成された肉の欠片と、色とりどりの体液が散らばっていた。
ついに勝ったのだ。
両腕をかかげた。
長々と、戦士の雄叫びを張りあげた。
「シグマ!」と、背後で声が聞こえた。
ふり返る。
暗い道の向こうに、ミハルがよろけながら歩いてくるところだった。
月の頭部は消え、元通りの、女の顔がそこにあった。Lunaphobiaの呪縛から解放されたにちがいない。
「ミハル!」志倶麻は声のかぎり叫んだ。
傷ついた身体を引きずりながら走った。
二人はおたがいに走り、距離を縮め、そして抱き合った。
了
スペシャルサンクス……不充庵 濡良凛氏