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1.「月が追いかけてくるの!」

 なにがなんだか、わけがわからない。

「助けて! 月が追いかけてくるの!」と、その二十代後半の女は助手席に乗り込んでくるなり、室井むろい 志倶麻しぐまの肩にしなだれかかった。「早く! あれ(、、)が襲ってくる! お願いだからいっしょに逃げて!」


「月が襲ってくるだって? まさか、そんなことが――」と、志倶麻はシフトレバーをローギアに入れ、車をスタートさせながら言った。女はリアウィンドウの向こうをおびえた様子でふり向いている。

 正気じゃないのだろうか? リストカットを趣味とするような情緒不安定のタイプだったら、トラップに引っかかったも同然だ。


 ――いや、そうは見えない。

 たしかに極度に怯え、ただごとではない取り乱しようだが、眼にはちゃんと理性の光が宿っている。この女はあきらかに月を隠喩メタファーとする何者に追われているにちがいない。


 仕事帰り、町はずれで女を拾った。おない年ぐらいの美人だった。なんにせよ、ヒッチハイクにしては切羽詰まりすぎているような気がした。

 志倶麻に下心がなかったと言えばウソになる。心細げにたたずむ女は往来ですれちがえば、思わずふり返りたくなるほど魅力的な人だった。

 むしろここで女を拾わなければ、男として失格だと思ったほどだ。だからこそ車をとめて、声をかけてしまった。




 志倶麻は車を飛ばした。彼女の必死の頼みに後押しされ、アクセルを吹かしていた。

 海沿いの道路だった。右手には砂浜と消波しょうはブロックの小山が連なり、その向こうは黒い海。白い波頭が砕けていた。その様子は巨大ななにかが、ずらりとならんだ前歯をむき出しにしているようだ。


 かたや左側は郊外だけに、家の数もまばらだ。これより先へ進めば、それも完全に途切れる。

 二人きりでドライブし、おたがいの身と心の距離を近づけるにはもってこいだった。

 二〇時をすぎていた。あたりは暗い。黒一色の世界をヘッドライトの光芒でかきわけて進む。行政はこのあたりを見捨てたも同然のようだ。街灯がまるっきり立っていないのだ。


 バックミラーでうしろを見た。

 山の稜線にかかった雲がちぎれかけていた。淡い光を放つ満月が見えそうになっている。

 助手席の女は、志倶麻の肩につかまり、眼をつむったまま、

「あなた、名前は? こんなことに巻き込んでしまって、ごめんなさい」と、言った。長い髪からいい香りがした。


 志倶麻は女の細い肩を抱いた。悪い気はしなかったが、こうも身体を押しつけられると、車はもちろん、男としての理性もコントロールすることができない。


「おれのダチはシグマって呼んでる。ギリシャ文字みたいで、いい名だろ? ドキュンネームって言うなよ」

「じゃあ、シグマ。――なんとか、あいつから逃げて。あなただけが頼りなの!」と、女は顔にかかった髪をわきにどけながら甘えた声で言った。「私はミハルって呼んでくれたらいいよ」


「頼られるのはいやじゃない。安心しな、ミハル。おれに拾ってもらえて幸運だった。こう見えて、車の運転はまずくはないと思うよ。タクシードライバーで食っていく自信はある」


 志倶麻はまっすぐな海岸沿いを加速させた。

 太平洋に面した海岸線が美しい道路だ。ふだん片道一時間をかけて通勤に利用しているので、あらゆる地形は頭に入っている。


 月が追いかけてくる、か――。

 気の利いたレトリックだ。たしかに、あれほどまでの完璧な円周は、自然界には存在しまい。とくにスーパームーンなど、じっと見つめていると、うなじの毛が逆立ちそうになることもある。気持ちはわからないでもない。


 と、そのときだった。リアウィンドウのはるか向こうの雲間から満月が姿を見せた。

 ――月だ。

 恐るべき均整のとれた円周の天体。地球唯一の伴侶はんりょにして、まごうことなき恐怖のシンボル。


 ミハルが後方を見て悲鳴をあげた。

 志倶麻もつられて、ミラーごしに見た。

 見てしまった。


 なんということだ!

 山の稜線より上にかかる満月が、まるで絵画から飛び出したかのようにポロリと落下したのだ。

 ありえない! 遠近法がむちゃくちゃだ。満月は地面に達するとバウンドしながら、まっすぐこちらに向かってくる。


 獲物はミハルが乗ったこの車にちがいない。迷うことなくやってきた。

 岩石がぶつかる硬い音を立てて、月が迫りくる。道路の上を弾むたびに地響きがする。

 いくらアクセルを踏み込んでも逃げきることはできない。瞬く間に車の後方へピタリとつけられた。

 こんどはバウンドするのをやめ、ゴロゴロ転がりながら追ってきた。


 理由はわからない。

 あの巨大な天体が、いまでは運動会の大玉転がしより大きめのサイズになっていた。

 とはいえ、破壊力は充分のように見えた。唸るような回転音がこだまする。重さ一〇トンはくだるまい。志倶麻の車などいとも容易たやすくひしゃいでしまうだろう。


 淡い燐光を放ちながら、凶暴な黒豹そこのけに猛追してきた。

 まるでボウリングの球のように微妙な回転をつけながら車に迫った。たくみにコーナーを曲がり、食らいついてくる。


「こんなことが」志倶麻はステアリングを操りながら唾を飛ばした。うしろは無視し、とにかく車を走らせることだけに集中する。操作にタイムラグが生じれば、たちまち奴の餌食えじきにされてしまうだろう。「こんなのは悪い夢に決まってる! なんで月が車をつぶそうと襲ってくるんだよ!」


「ごめんなさい、私を助けてくれたばっかりに……」ミハルは志倶麻の肩をつかんだまま言った。「でも、あれから逃げるには、あなたしかいないの!」


「意味がわからないけど、やるしかない。覚悟を決めて月とレースだ。俄然燃えてきた!」

「あなたならできるはずよ!」

「だといいが。どうにかあいつをいて、みんなに自慢してやるよ。世界広しといえど、月とカーチェイスした男は、めったにいないだろうからな!」


 追いすがる月!

 意思を持った生き物のように、アスファルトを轟然と転がってくる!

 いくらアクセルをベタ踏みし、直線で稼ごうと、コーナーを鋭く攻めたとしても、化け物じみた球体はピタリと真後ろに張りついたまま、引き離すことができない。


 どうやら月は、あくまで車のすぐあとを追いかけてくるだけで、いますぐ手を出すつもりはないらしい。

 つまりその気になれば、いつでも車を弾き飛ばし、プレスすることも造作ないにちがいない。

 奴はもてあそんでいるのだ。

 しかるべき時が来るときまで獲物に死の恐怖を味わわせ、砂時計がじわじわと砂をこぼすように、ゆっくりと命をさいなむつもりだ。


 海沿いの道はしだいに入り組み、鋸刃のこばのような烈しいS字コーナーが連続するようになる。このあたりの海はリアス式海岸となっていた。

 負けじとステアリングを小刻みにさばいていく。ほぼ減速せずコーナーの内側を攻め、スムーズにクリアしていった。


 なのに、転がる月を撒くことができない!

 巨大な大玉転がしは地響きを立てながら、これもコピーしたような動きでコーナーから逸脱することなくついてくる。ガードレールに触れることもない、恐るべき姿勢制御能力だった。


 クソッ! なんて奴だ! こんな手強い相手とやりあったことがない!――志倶麻は胸の内で毒づいた。

 月に追いつかれることは死と同義であろう。いまは恐怖よりも、怒りが勝った。こんなにもマシンを酷使しているのに、追撃をふり払うことができない。それでいて、奴はこの殺人レースをサディスティックに楽しんでいるのだ。――屈辱とも言える仕打ちだった。


 月が重機のような唸りを立てて迫った。

 リアバンパーに触れた。火花が散った。

 ちょっと接触しただけで、車はだらしなく尻をふった。


 コントロールさせるのに、志倶麻は躍起になった。

「クソッ! クソッタレが!」

 なんとかマシンを立てなおした。

 眼つきが変わった。

 こうなったら、とことんまで勝負してやる!

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