密漁船の出る夜
O君とコロダイの夜釣りに行った時の話である。
クロダイの入力間違いではなくコロダイ。強烈なファイターなのだが、釣り物のとしてはマイナーな部類に入る。
当時、私はコロダイやハマフエフキ(タマミ)といった強引な引きをする対象魚に嵌っていて、よく夜釣りに出掛けていた。
その晩も、過去に何枚か大判を水揚げした事があるゴロタ浜まで車を飛ばして、仕掛けを投入し終えた処だった。
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コロダイ釣りでは硬調の投げ竿か石鯛竿に、太糸を巻いた大型スピニングリールを取り付け、岩礁混じりの沖の砂地めがけて遠投する。
両軸受けリールの方が撒き上げ力は強いのだが、遠投にはスピニングに分が有る。
エサは私が生干しのスルメで、O君が生蛸の脚だったのを覚えている。
関西ではマムシと呼ばれるイワイソメの一匹掛けの方がアタリは多いのだが、生干しのスルメや蛸脚の方が圧倒的にエサ取りに強い。
竿尻には尻手ロープという10mほどの長さの細目のロープを結んでおく。
尻手ロープの先は、ゴロタ石の中から人間の頭くらいあるのを選んで縛り付けておく。
コロダイやタマミの一撃は強力だから、竿受けに立てかけている投げ竿は、最初のアタリで海中まで吹っ飛んでしまう事も多い。
竿が持って行かれたら、まずは尻手ロープを掴んでの綱引きから始まるという釣りなのだ。
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陽もとっぷりと暮れ落ちた頃、O君が沖を指差して「今日はダメかも分からんね。」と言い出した。
私も竿をもう一本用意しながらも、気付いてはいた。
私たちは70mほど先にまで仕掛けを飛ばしていたのだが、投入点から更に50mほど沖の海域を、赤色灯が右に左に行ったり来たりしているのである。
どうも船が一隻出ているようで、夜闇に乗じて浅場へ接近して来るはずコロダイは、船を警戒してエサの所まで近づいて来ないだろう。
けれどもイカやイサキ狙いの遊漁船なら、船全体が輝くほどの明かりを灯してもっと沖に出るだろうし、根魚やイセエビ目当ての定置網漁の漁師だったとしても、ハンドライトやキャップランプも点けずに赤色灯一つだけ、というのが腑に落ちない。
夜の海は安全第一が基本なのだ。
それに珍しく海が油のように凪いでいるというのに、エンジン音が聞こえない。
普通、静かな夜のエンジン船の排気音というものは、おそろしく遠くまで響くものなのだ。
「密漁船かも知れない。」私は咥えた煙草に火を点けながら、O君にぼやいた。「エンジン音がしないもの。」
ゴムボートにバッテリー式の水中モーターを付ければ、限りなく静かになる。
けれど漁師は、手漕ぎボートやゴムボートなんかで、夜の海には出ない。
「脅かしてやろう。」とO君はマグライトを取り出した。
単一電池4個を入れる強力なヤツだ。
O君が赤色灯に向かってマグライトをかざす。
途端に赤色灯は消え、船がどこに居るのかは、分からなくなった。
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その後も一向にアタリは無く、この日は厄介者のエサ取りであるサメも、鈎に掛かってこない。
私はO君と釣り座を移動するかどうか議論した。
密漁船のせいで、今夜はここでは釣りにならないかも知れない。
けれども竿を畳んで全部の荷物を担ぎ、足元の危ういゴロタ浜を30分も歩いて車に戻り、他のポイントまで移動するのは億劫だった。
「面倒だね。今夜はここと心中で良いんじゃない?」
「そうだなぁ。朝マズメには流れも変わるかもしれないし。」
そんな事を言い合っていた時だ。
浜の先からゴロタ石を踏み締めながらガヤガヤと、懐中電灯の一団が近づいてきた。
蛍光イエローの襷を付けて、白いゴム長を履いている。
「あんたたちは釣りかい?」
イエロー襷の一人が、懐中電灯の光を浴びせてくる。
「コロダイ狙いですよ。今夜は全然ダメですけど。」とO君が答える。
それを聞いた襷組の一人が
「最近、コロもタマンも上がってないなぁ。ヨシキリ(サメ)が回ってっから。」
と教えてくれる。「この前、喰われたヤツもいるんだ。」
「喰われたって、サメにですか?」
私は驚いて訊き返した。
近頃テレビは不倫報道ばかりで、この辺りで人がサメに襲われたというニュースは観ていない。
「夜中に鮑やら雲丹やらを狙ってた馬鹿が、やられたのさぁ。ウエットスーツごと、ズタズタだぁ。こっちはいい迷惑さ。」
被害者は密漁犯だったという事か。
死人が出たとなると、それが密漁犯だったとしても大事なので、地元漁協は人手を出して警戒に当たらねばならず大変だ。
「浜からのブッコミ釣りなら大事無いとは思うけど、くれぐれも海には入んないように、気ぃ付けてなぁ。」
O君と私は襷組に、海には入らないと確約したが、さっきの赤色灯が気になる。
「100mか150mくらい沖で、ライトが点いていたんですよ。密漁かなあって見てたんですがね。」
「100m? 密漁なら、そんなに沖には出ねぇよ。せいぜい30mから50mくらいだなぁ。荷物は浜に置いといて、そこでウエットスーツに着替えて入るんだよ。150も沖に出ちまったら流されるのも怖ええし、第一、底まで潜るのが大変だから。」
襷組の別の一人が「警戒船を見たんじゃねぇの?」と言うが、更に別の人物が「今日は皆、浜側からのパトロールに出てるから、警戒船は出てねぇよ。だって、ほら……。」と否定する。
どんな明かりだったぃ? サーチライト、照らしまくってたか?
私が「赤色灯一つだけ。ハンドライトも無しでしたね。こっちからマグライトを向けると、むこうは消してしまいましたけど。」と言うと、襷組の間にザワッとした空気が流れた。
「あんたがた、私らと一緒に港へ戻れ。悪い事は言わん。」
「そうだな。しかも返事まで、やっちまってる。帰った方がエエ。」
パトロール隊のただならぬ様子に、私はO君と顔を見合わせた。
もしかすると、釣り客と密漁者との間にトラブルが起きたような事が有ったのかも知れない。
私とO君が仕掛けを回収しようと竿に手を伸ばしたら
「そんなモンは、後だ。あと。明るくなってから、やればエエ。ほれ、急ぐぞ。……誰も盗みになんか、来ねぇよ。」
と、すごい剣幕で制止された。
そうまで言われると従うしかない。
私たちは竿も道具も置いたまま、襷組と一緒に危なっかしい足取りで漁港に急いだ。
皆、妙に無口だった。
私が事故の事を訊こうとしたら
「今は口を閉じておけ。振り返るなよ。前だけ見て歩め。」
と厳しい口調で釘を刺された。
一切合切が奇妙な感じで、『事故』が普通の水難事故――サメに襲われた被害者が出たという時点で普通の事故ではないわけではあるが――とは違っているのだ、という予感を濃厚に感じざるを得なかった。
黙って歩いているので、ゴロタ浜の波音が異様に高ぶって意識される。
今日は凪いでいるので、普段なら小川の潺程度の音しかしていないはずなのに。
向かって右手側にあたる大海原の闇が、むくむくと濃さを増しているような気がする。
考えてみれば、絶好の夜釣り日和だというのに、私たち以外にゴロタ場に釣り客がおらず、沖に遊漁船が出ていないのも変なハナシだった事に、その時気付いた。
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空身で道を急いだせいか、漁港にまでは何という事も無く、20分ほどで無事に辿り着くことができた。
防波堤の脇に祀ってある祠の前で
「せっかくだから、手ェあわせておきな。」
と襷組に促された。
ポケットを探って小銭を賽銭箱代わりの石皿に入れ、柏手を打つ。
柏手は、ぱあんという陽気な音が出せず、ぺちぺちと景気悪く響いた。
なんだか、音すらも夜の闇に吸われて力を失っているような気がした。
祠は大漁祈願の恵比寿様のもののようだが、蛭子神は福の神であると同時に、蛭子や水死者を祀ることも思い出されて、少しだけ心がザワつくのを避けられなかった。
襷組の一人が「もう大丈夫だな。夜明けまではどうするね? 今からじゃあ、宿も取れんだろ。車で夜明かしかい?」と、訊ねてくる。
先ほど、口を閉じておけ、と怒られた時とは違って、穏やかな口調だった。
「そうですね。カーラジオでもつけて仮眠します。道具を置いてきちゃったから、朝には取りに戻らないと。置いたまま帰るわけにもいかないし。」
私は事故の詳細や、後ろを振り返るな、と注意された理由を訊きたかったのだが、船幽霊の伝説などでは現場で船頭に質しても、夜の間は『寝ていなせぇ。見ちゃいけねぇ。』と諭されるのがデフォルトである。
今、質問を試みても、何も教えてはもらえないような気がしたのだ。
O君も同感らしく、私の言葉に黙ったまま頷いた。
私は注意して返答した心算だったが、襷組の一人から
「それがエエな。大丈夫だとは思うんだが、どうせ車で夜明かしするんなら、海を見んような、見られんような場所まで移動するんが良いかねェ。」
と、嫌な後味の残る貴重なアドバイスを頂戴するハメになった。
ここでO君が「本当に、お手数をお掛けして申し訳ありませんでした。あなた方は、どうなさるんですか? これからパトロールに戻られるんですか?」と下手に出て、情報を得ようとする。
襷組からは「番屋に戻ってオキヨメだな。……その後の事は、分かんねェよ。」と、何とも言い様の無い返事が返って来たばかりであった。
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結局私たちは、港からは低い里山一つ隔てた公民館脇の小さな公園に車を停めて夜を明かした。
私が自動販売機で熱いコーヒーを2本買って戻ると、O君はしきりに携帯を弄っている。
訊くと「この辺りで水死者が出た事故のニュースを探しているんだが、見付からないねぇ。」という返事だった。
まだスマホが出る前の時期だったから、アウトドアでの情報収集は携帯でネットに接続するしかなかったのだ。
その後もO君は、この辺りの地域に『七人御崎』や『船幽霊』に関する都市伝説にあたってみているようだったが、結果ははかばかしくなく、それらしいものは何もヒットしなかった。
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翌朝、充分に陽が昇ってから、私たちは海岸へと戻った。
なんという事だろう! 朝の漁を終えた漁船が、何事も無かったかのように港に戻って来つつある。
昨晩の物忌っぽい雰囲気は皆無なのだ。
私とO君とは顔を見合わせ、ゴロタ浜を釣り座に急いだ。
クーラーボックスや竿ケース、タックルボックスやリュックサックは、ちゃんと釣り座に残ったままだった。
ただし、海に仕掛けを投げ入れていた石鯛竿と投げ竿は消えていた。
私のものが二本とO君のものが二本の計四本だ。
竿受けが波打ち際にまで飛ばされていたから、海中に引っ張り込まれしまったと想像は付くが、尻手ロープを結わえ付けていた石までが姿を消している。
如何に剛力のコロやサメでも、ここまでの事はしない。
私は魚の仕業に見せかけて、実は泥棒が竿を盗んだのではないかと疑った。
けれども竿ケースの中の予備竿は無事だった。
私は過去に大型魚を上げたお気に入りの二本をブッ込んでいたから、消えた竿よりも残っていた竿の方が値は張る。
思い入れのある竿を失ったのは地団駄踏むほど悔しいが、釣り具ドロボウの仕業にしては間が抜けていると言わざるを得ない。
「変だね。海に投げてた竿以外は、無くなったものは何も無いよ。」
O君がリュックから一眼レフを取り出して頭を捻っている。「やっぱり、大物が咥えて行ったのかなぁ?」
「でも魚なら、尻手ロープの先の石までは無理だろう?」
私の反論にO君は頷きながらも
「案外、日本記録更新級の超大判だったのかもね。それなら惜しい事をしたね。」
と苦笑した。
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漁港に戻って道具を車に積み込むと、私はもう一度、祠を覗いてみた。
石皿に入れた100円玉は無くなっていた。
蛭子様の像は愉快そうに笑っている。
私はヤレヤレと溜め息を吐くと、再び100円玉を投げ入れた。
車に戻ったがO君がいない。
どこかでトイレでも済ませているのだろう、と煙草をふかしながら待つことにした。
朝の光に満ちた漁港は快活な雰囲気で、昨夜の陰鬱な感じは全く残っていない。
私は、案外昨夜の襷組が密漁者のグループで、邪魔な私とO君とを追い払うために一芝居打ったのではあるまいか、などと空想を巡らせた。
竿も盗んで、尻手ロープは外して持ち帰ったのかも知れない。竿は中古屋で売り払い、ロープは後で目に着かない場所で処分すればよい。
繋いでいたゴロタ石は海に投げ込んでしまえば、元から存在していた石と混じって区別が付かなくなる。
リュックの中身やタックルボックスに手を付けなかったのは、あくまで竿を持って行ったのが『巨大魚の仕業』に偽装したかったのだろう。
――ナルホド。それなら完全犯罪成立だ。「魚の仕業では無い」という事は証明不可能なのだから。
私は公民館脇で夜明かしをする際に、『インスマウスを覆う影』や『クトゥルフの呼び声』などのラヴクラフト作品を思い出して怯えていた自分に、苦笑を禁じ得なかった。
O君が戻って来たのは、しばらくしてからの事である。
私が「遅かったじゃないか。大の方かい?」と訊ねると、漁港の魚市場へ今朝の獲物を水揚げ中の漁師に、サメの件を確かめに行っていたのだ、と言う。
「それが変なんだよね。そんな事故なんか起きて無いって言うんだ。そもそもサメも回っていないらしくってね。『狸にでも、化かされたんじゃねェの?』って笑われちゃったよ。定置網にはカワハギやメジナなんかが、どっさり入っていたみたいだったよ。」
「じゃあ、やっぱり密漁者に騙されたんだ。」私は先ほどの推理を、O君に得々と語った。「竿も、行きがけの駄賃に盗られたんだな。」
O君は私の意見には懐疑的だった。
「鮑が小売で1個5,000円の値が付くとしても、浜値の卸値じゃあ3,000円が良いトコだろ? 100個盗っても、30万だ。後ろ暗い鮑なら、20万でも捌けるかどうかだよ。昨夜のパトロール隊は5人組だったから、一人頭では4万円にしかならない。濡れ手に粟の4万円なら、いい稼ぎとも言えるけど、捕まれば窃盗罪だからね。それに引き換え僕のカメラは、17万はする。どうせドロボウをするのなら、見逃す手は無いね。」
言われてみれば、ナルホド、頷けない話ではない。けれど……
「じゃあ、騙された件と、竿が持って行かれたのは別件かい? それも一晩の内に?」
O君は、確かに妙なコトではあるけどね、と苦笑いしたが「でも、泣きっ面に蜂って言うじゃないか。僕たちツイていなかったのさ。……いや、カメラや予備竿は無事だったのだから、丸っきり運が悪かったというのでもない。大判を釣り逃がした事まで含めても、せいぜい末吉程度の福は有ったのさ。密漁グループと悶着を起こさなかっただけでも、メッケ物だったのかも知れないよ。」と続けた。
「だって君は、ひどく気が短いじゃないか。」
そこまで指摘されると、乱闘沙汰にならなかったのは幸運だった、と肯定せざるを得ない……かな?
私は消化しきれないモノを抱えながらも、恵比寿様の笑顔を思い出して機嫌良く帰宅する事に決めた。
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残りはツマラナイ後日譚である。
私はお気に入りの竿を失った事でもあるし、また、あの夜に感じた異様な闇の圧迫感の事もあって、ゴロタ浜でのコロ狙いからは足を洗った。
今では乗合船での沖釣り一本である。船釣りでは重い道具を抱えて地磯やゴロタを長々歩く必要も無いし、その時期に好調なポイントまで船頭が間違い無く案内してくれるから、気楽である。
O君にも薦めているのだが、彼は頑固に沖に出るのを嫌がっているから、この前釣り上げたたヒラマサの写真を送ったら、あの浜で仕留めたと思しきコロの大物の画像を送り返してきた。
今では彼も一眼レフは使わず、互いにスマホのカメラ機能を使っての撮影となって、時の流れを感じさせる。
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以上がM氏の手による掌編小説のようなシロモノで、二週間ほど前に送られてきたものだ。
内容は、私たちが若かった頃に出会った事件とも何とも形容し難い出来事なのだけれど、あの頃を思い出して懐かしかった。
文中で「O君」と記されているのが私の事だ。
M氏――いや、他人行儀に「氏」づけでなく、Mさんで良いだろう――は、海難事故により二年前に亡くなった。
けれども、今でもこうして時折釣りに誘ってくる。
一体、どこで釣りをしているのやら、と勘繰りたくもなるが、メールに返信してもナシのつぶてだから、連絡の取り様はない。
但し小説の内容からは、こっちからのメールが届いている風でもある。
もはやMさんに怒られる事もなかろうから、勝手に転載する事にした。
短気な彼の事だから、著作権侵害! とか言いながら懐かしい姿を見せてくれるかもしれないが、そうなったら、よく夜釣りの友に持参していたベビーチーズと赤貝味付け缶で歓待するとしよう。
高級珍味や高い酒でもてなすよりも、Mさんは喜ぶはずだから。