満月の草原
驚いて「うわっ!」と声を上げた瞬間、私は棺の中から飛び起きていた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。そこにはもう子供だった私の姿はなく、代わりに旗を持った少年がつまらなそうに立っていた。
私の意識は遺体に乗り移り、一体となったのだろうか。
「ねえ。私の首に何か痕がない?」
私は少年に尋ねた。ロープの痕は自分では確認出来ないのだ。
「何もないよ。あの君はもうここにいないんだから。良かったね」
少年は首を振った。良く見てみれば服装もこの世界に来たときのままだ。
「ほら、わかったら行くよー」
少年は呆れたようにそう言うと、出口の方へ歩き出した。
「え、待って!」
私はよろけながら棺から這い出た。端から見ればかなり異様な光景であっただろう。去り際、誰かの拍手の音がした。あのシスターだろうか。気になったが、少年がどんどん先へ行ってしまうので確認はできなかった。
外に出ると辺りはすっかり暗くなっていた。草原を駆け抜ける風は夜の空気を含んで冷たかった。空には綺麗な乳白色の満月が出ている。
次はどこへ行くのだろうと考えていると、辺りにうっすらと霧のようなものが掛かり始めた。少年はまた旗を掲げると、ツアーガイドのような格好ですたすた歩き始めた。
草むらの中を白いうさぎが何匹も駆け抜けていく。私はそれを目で追いながら、ふとあることに気が付いた。
霧の中から何かがこちらに向かって走ってくる。「ブオオッ」という低い唸り声と、地面を揺らすような重い足音が近づいてくる。
「やだ、こっちに来ないで! あいつらを襲ってよ!」
誰かが声を上げた。よく目を凝らしてみると、教会から出て行った喪服姿の三人が、霧の中で一頭の熊に追い回されていた。なぜこんなところに突然熊が?
「あっ、こっちに来る!」
少年が声を上げた。
「なにぼーっとしてるの、走って!」
私は言われるがまま走った。熊が霧の中から牙を剥いて追いかけてきた。わけもわからず、全速力で際限なく広る広大な草原を駆け抜ける。
そのまま走り続けていると、何もない草原のど真ん中に線路が敷かれているのが見えた。すると左の方から汽笛の音が聞こえ始め、霧の中から汽車がぬうっと姿を現した。
「あれに乗ろう」
少年はその汽車に軽々と飛び乗った。私もやっとの思いで記汽車の手すりにしがみつき、悪いなと思いつつも勝手に連結部分のドアを開け、車内に入った。車窓から外を見ると、熊が悔しそうにこちらを見ているのが見えた。
汽車の中に乗客は一人もおらず、琥珀色の明かりがぼんやりと灯っていた。私と少年は操縦席のある一両目まで歩いて行ったが、そこに車掌の姿はなく、汽車はひとりでに草原を走っているようだった。
「どこに行きたい?」
唐突に少年が尋ねた。
「家に帰りたいかな……」
私はただ一言そう答えた。
「そうだ。ねえ君名前は?」
今度は私から質問した。
「教えない」
「じゃあ何者?」
「案内役」
「何の?」
「教えない」
それから暫く沈黙した。ただ黙って草原に敷かれたレールと霧が晴れてゆく様子を交互に見ていた。
「この汽車、君の家まで行くよ」
少年が旗の付いた竹竿をバキバキ折りながら言った。どうやらもう必要ないらしい。
「行かないよ。汽車なんてもう日本に走ってないもん」
「行くの!」
私がそう言うと、少年はむっとした顔をし、バラバラに折った竹竿を草原にばらまいた。
霧が晴れ、東の空が明るくなり、鳥の鳴き声が聞こえ始めたとき、前方にあのトンネルが姿を現した。この世界に来るときに通ってきた、巨大なトンネルだ。列車は吸い込まれるようにトンネルの中へ入っていいく。
トンネルの中は塗りつぶしたような闇が広がっていた。前方に小さく出口が見える。
「ねえ、あれってさ……」
私は不安に襲われた。もしかして、またまっ逆さまに落ちるのではないかと思ったのだ。堪らなくなって目を瞑る。
しかし私の予想は見事に外れ、どういうわけか列車は私の最寄り駅に停車していた。
当たり前のように扉が開き、少年は私に降りるよう言った。
「じゃあ、元気でね」
少年がそう言うとひとりでに扉が閉まり、汽車は煙を上げて発車した。
駅のホームにひとり残された私は、仕方なく家に帰ることにした。相変わらず町に人の姿はなく、日の出を喜ぶ鳥たちの歓声だけが響き渡っている。
アパートの部屋のドアを開け、靴を脱ぎ、ベッドの上にダイブした。緊張が解け、全身の力がすっと抜けていくのがわかった。