第5回 ロシア語
1 導入
最初に申し上げてしまうと、当方はロシア語がラノベなどのネーミングに用いられた例を、1つも見たことがありません。
にもかかわらずロシア語を本連載に加えたのは、当方がかつて別のエッセイで、ロシアの民話に登場するМорозкоというモンスターを大々的に取り上げ、自分の小説にも中ボスとして登場させたからです。ロシア産ファンタジーの認知度が上昇することは、当方自身の利益に繋がるのです。
Морозкоについて詳しくは、当方の「ファンタジー作家のためのネタ帳」第14講をご覧ください。この頁のいちばん下にリンクを貼ってあります。
ロシア語は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属し、特にウクライナ語およびベラルーシ語と近い関係にあります。スラヴ語派には上記の他、ポーランド語、チェコ語、セルビア語などが属します。
キリル文字(→2)という文字を使用します。発音はかなり規則的で、複数の文字を1つの音素に当てることはありません。
発音に関する限り、キリル文字を覚えることが最初かつ最大の、軟音(→4)を理解することがそれに次ぐ壁、という感じです。
2 文字
キリル文字はラテン文字と同じく、ギリシア文字の子孫に当たります。ロシア語だけでなく、ウクライナ語、ブルガリア語、モンゴル語などでも用います。
ロシア語の文字は、キリル文字を更に改良したもので、ロシア文字と呼ぶべき、という立場もあります。逆に、ロシア文字という呼称こそ不正確、とする本もあります。
いずれにせよ、我々には見慣れない形の字が多いです。しかし、事あるごとに「この文字、何だっけ?」とこの項目に立ち戻るのも不便です。なので以下、キリル文字の後には必ず、対応するラテン文字を掲げます。
もっとも、キリル文字をラテン文字に変換するシステムは、何通りも存在します。ですので、ラテン文字は参考程度にとどめておいてください。
キリル文字は以下の33文字です。大文字、小文字、名称、対応するラテン文字、発音の順に掲げます。
01 А/а アー a 母音。日本語のア。
02 Б/б ベー b 有声子音。ローマ字のb。
03 В/в ヴェー v 有声子音。英語のv。
04 Г/г ゲー g 有声子音。英語のdragon/ドラゴン(竜)のg。稀にv。
05 Д/д デー d 有声子音。ローマ字のdに近い(→3)。
06 Е/е イェー je 母音。ヤ行の子音とエ段の母音。イェ。
07 Ё/ё ヨー jo 母音。ローマ字のyと閉口音のオ。ヨ。
08 Ж/ж ジェー zh 有声子音。英語のmeasure/メジャー(巻き尺)のs(摩擦音)。
09 З/з ゼー z 有声子音。英語のz(摩擦音)。
10 И/и イー i 母音。日本語のイ。
11 Й/й イー・クラートカヤ j 半母音。ローマ字のy(→3)。
12 К/к カー k 無声子音。ローマ字のk。
13 Л/л エール l 有声子音。英語のl。
14 М/м エーム m 有声子音。ローマ字のm。
15 Н/н エーヌ n 有声子音。英語のdemon/デーモン(悪魔)のn。
16 О/о オー o 母音。閉口音のオ。
17 П/п ペー p 無声子音。ローマ字のp。
18 Р/р エール r 有声子音。イタリア語などの巻き舌のr(→3)。
19 С/с エース s 無声子音。ローマ字のs。
20 Т/т テー t 無声子音。ローマ字のtに近い(→3)。
21 У/у ウー u 母音。口を尖らせてウ。
22 Ф/ф エーフ f 無声子音。英語のf。
23 Х/х ハー kh 無声子音。ドイツ語のNacht/ナハト(夜)のch(→3)。
24 Ц/ц ツェー ts 無声子音。ローマ字のts。
25 Ч/ч チェー ch 無声子音。ローマ字のchに近いが、舌を奥に引く。稀にローマ字のsh。
26 Ш/ш シャー sh 無声子音。ローマ字のsh。
27 Щ/щ シシャー sch 無声子音。舌を奥に引き、ローマ字のshを長く発音。
28 Ъ/ъ 硬音記号 なし これ自体は発音しません(→4)。
29 Ы/ы ウィ y 母音。ウとイの中間(→3)。
30 Ь/ь 軟音記号 なし これ自体は発音しません(→4)。
31 Э/э エー e エ。オとは違い、開口音と閉口音の区別は無いようです。
32 Ю/ю ユー ju 母音。ローマ字のyと、口を尖らせたウ。ユ。
33 Я/я ヤー ja 母音。日本語のヤ。
3 発音|(注意すべきもののみ)
【Д/д =d、Т/т =t】多くの本は、単に「ダ行やタ行の子音」と記載しています。しかし少数ながら、「舌は歯茎ではなく、上前歯の裏に付ける」、とする本がありました。
【Й/й =j】日本語のyの後には、必ず母音が続きます。しかしロシア語のЙ/йは、語末や子音の前にも来ます。
母音が続く時はヤ行でカナ書きします。そうでない時は、イと書きます。
(例)домовой =domovoj/ダマヴォーイ(人家に住む妖精)
【Р/р =r】ライオンの真似をしてガルルルル……、と言う時の音。ラ行でカナ書きします。
【Х/х =kh】ローマ字のkに対応する摩擦音。kの音が生じる口の中の奥あたりで、口蓋と舌の間を狭め、その間を息が通過する時に出る音。
ハ行でカナ書きします。
【Ы/ы =y】日本語のウを言う時の口の形を作り、その状態で無理矢理イと言います。本当にウとイの中間のような音が出ます。wiでも、ドイツ語のü(ウー・ウムラウト)でもありません。
カナ書きする時は、ウ段の文字に小さい「ィ」を添えることが多いようです。ны =nyならヌィ、лы =lyならルィ、といった具合。
因みに、この発音はポーランド語にも存在します。ポーランド語はラテン文字を使い、この発音にはyの字を当てます。
4 硬音と軟音
ロシア語には、硬音と軟音という区別があります。軟音はいわば「イが混ざった発音」で、硬音はそうでない音です。
ロシア語だけでなく、同じスラヴ語派に属するポーランド語やチェコ語にも、硬音と軟音があります。
まず母音ですが、イと読むИ/и =iと、ローマ字のyを含むЯ/я =ja、Ю/ю =ju、Е/е =je、Ё/ё =joの5つが軟母音です。それ以外のА/а =a、У/у =u、Э/э =e、О/о =o、Ы/ы =yの5つが硬母音です。
次に子音です。ですがその前に、アと言ってください。
続けて、イと言ってください。今、舌の真ん中あたりが盛り上がったはずです。
この、「舌の真ん中あたりが盛り上がる」をやりながら発音する子音が、軟子音です。若干イ段に近くなりますが、母音は含まれていません。
対して、元の子音を硬子音といいます。
ほぼ全ての子音に硬子音と軟子音があります。ただし、Ш/ш =sh、Ц/ц =ts、Ж/ж =zhは常に硬子音で、軟子音になりません。逆に、Щ/щ =sch、Ч/ч =ch、Й/й =jは常に軟子音で、硬子音になりません。
Ь/ьは軟音記号と呼ばれる通り、直前の子音を軟子音にします。
また、И/и =i、Я/я =ja、Ю/ю =ju、Е/е =je、Ё/ё =joの軟母音が後続する子音も、軟子音になります。
直前の子音を軟子音にした場合、Я/я、Ю/ю、Е/е、Ё/ёからは、ローマ字のyの音が失われます。Я/яならばa、Ю/юならばuの音になります。
一方、Ъ/ъは硬音記号と呼ばれる通り、直前の子音を硬子音にします。というよりも、子音と軟母音の間に割り込んで、子音と軟母音の関係を断ち切ります。
その場合、Я/я =ja、Ю/ю =ju、Е/е =je、Ё/ё =joからローマ字のyの音は消えません。
また、子音字とЯ/я、Ё/ёの間に、軟音記号Ь/ьが入ることがあります。この時のЬ/ьは、硬音記号Ъ/ъとして機能します。よって子音は硬子音のままで、Я/яやЁ/ёにはyの音が残ります。
軟子音のあと母音が無ければ、カナ書きする時はイ段です。母音がある時は、小さい「ャ」、「ュ」、「ョ」を使った拗音になります。
また、Т/т =tの軟音はティというより、ほとんどチになります。カナ書きする時はチャチュチョを用います。
同様にД/д =dの軟音も、ディというよりヂです。日本語はヂとジを区別しませんから、カナ書きする時はジャジュジョ。ただし、専門的な本だとヂャヂュヂョとすることも多いです。
(例)дед =ded/ジェート(おじいさん):ディエートではない。
5 無声子音と有声子音の交代
К/к =kとГ/г =gは、無声子音と有声子音の関係にあり、対応します。同じことが、С/с =sとЗ/з =z、Ш/ш =shとЖ/ж =zh、Т/т =tとД/д =d、П/п =pとБ/б =b、Ф/ф =fとВ/в =vにも、それぞれ言えます。
上記の6つの有声子音は、語末か、無声子音の直前にあると、対応する無声子音になります。
語末が軟音記号Ь/ьで、その直前が有声子音であっても同様です。もちろん、このとき有声子音は無声子音になるだけでなく、軟音(→4)にもなります。
(例)мороз =morozマロース(寒波。なお、дед-морозでサンタクロース):マローズではない。
逆に、無声子音のうちК/к =k、С/с =s、Т/т =tは、直後にГ/г =g、З/з =z、Ж/ж =zh、Д/д =d、Б/б =bのいずれかが来ると、対応する有声子音になります。
間に軟音記号Ь/ьがあっても同様です。
同様の現象は、ポーランド語とチェコ語にもあります。
6 アクセント
アクセントのある母音は強く、長く、はっきりと読みます。
どこにアクセントがあるかは、単語によってバラバラです。ドイツ語やスペイン語のような法則はありません。
母音のうち、А/а =a、О/о =o、И/и =i、Я/я =ja、Е/е =jeは、アクセントの有無や、アクセントのある母音との位置関係によって、発音が変わります。
А/аは、アクセントが無いと曖昧母音になることがあります。О/оは、アクセントが無いとアか、曖昧母音のいずれかになります。
И/и =iは、アクセントが無いと、イとエの中間のような曖昧な音になります。
Я/я =jaとЕ/е =jeは、アクセントが無いと、母音の部分がイとエの中間のような曖昧な音になったり、本物の曖昧母音になったりします。子音yの有無は、直前が子音字であるか否かに従います(→4)。
上記の通り、アクセントの無いА/а =a、О/о =o、Я/я、Е/еの読みかたは、2通りずつあります。どちらになるかは、アクセントのある母音との位置関係によって決まります。
が、その法則がかなり複雑です。しかも、実際の辞書に付されている発音記号が、教科書に書いてある法則と異なる場合がまま見受けられました。
カナ書きする時は、アクセントのある母音には長音符を付けるものの、アクセントが無い時の発音の変化は無視して、О/оならば常にオ段、Я/яならば常にア段で表記することも、かなりあります。
(例)водяной =vodjanoj/ヴァジノーイ(水に住む妖精):ヴォジャノーイと書くのが普通。
(例)баба-яга =baba-jaga/バーバ・イガー(鬼ばば):バーバ・ヤガーと書くのが普通。バーバ・ヤーガは誤り。