世迷いゴート
穴が あいていた
涙が こぼれた
その日、夏が終わった気がした。
白い花がゆらゆらと鳥肌を立てていた。
長い太陽が青くまばたきをして何もない空に硝子片をばら撒いては、風の中で雪のような傷口にしみてくる長い虫を長い長い長い腹のうねうねとした透明で鋭い襞の輪郭だけを白くきらきらとびっしりと一面に貼り付けて青くまばたきをして青く
穴があいていた。
目の前に突然に。
だから指を入れてみた。
ぬち、となにか生温いものに触れた。
よくわからなかったので手を、そのまま手首まで入れてみた。
すると、空気に触れた。
ぐっとひじまで押し込んでみた。
「ぐえあ」
横に座っていたおじさんが呻いてのどをかきむしった。
ふと目をやると、そのおじさんの首からはえているのは女の手だった。
眺めているうちに、おじさんは痙攣して泡を吹き、やがてがっくりくずおれた。
穴の中に入れていた腕に、重さがのしかかってきた。
ああ、これは私の手なんだ、と万里花は思った。
指を曲げたり伸ばしたりしてみると、おじさんからはえている手も同じ動きをした。
ゆっくり穴から手を引き抜くと、赤くべったりと濡れていた。
ああ、そうか、と。
これが人間の腹の中の感触なのかと。
想像していたとおりの、ただの糞袋だなと。
万里花は思った。
とりあえず臭いので洗おうと思った。
穴はたびたび万里花の目の前に現れた。
万里花は落ち込んでいた。
死のうと思っていた。
仕事がすごくつらかった。
うまく立ち回れないせいで、厄介な雑用はみんな彼女の元に回ってきた。
周りの人間が生き生きと楽しそうにしている中で、ひとり死んだ目をして黙々と働いていた。
どうして自分ばかりこんなに苦労をしているのかわからなかった。
そして彼女の仕事を誰も評価しなかった。
無駄な仕事ばかりため込んで何もできないと嫌味を言われるだけだった。
あなたが放り出したせいで私はこれをやらされているのに。
あなたが中途半端なせいで私が残りをやらなければいけないのに。
残業が続き、睡眠時間は減り、目の前は暗くなり、吐き気がいつも消えない。
そんなときに、たびたび、穴は現れた。
そして指をそっと入れると、やわらかい肉に触れる。
所詮みんなただの肉の塊だ。
ただの糞袋だ。
そう思うと安心した。
肉壁を撫でるだけで満足するときもあったし、肩まで突っ込んでめちゃくちゃにかき回してやるときもあった。
公園、道路、電車の中。たいていそばにいた気持ち悪いおっさんが、そのたびもがいて死んだ。
汚い内臓をぶちまけていた。
どうせおまえも老害なんだろ?最近の若いもんはなっとらんとか言いながら他人に負債を押し付けてのうのうと生きてるだけの屑なんだろ?若い女にはセクハラを当然のように強要するんだろ?と、死んだ目で、倒れるおじさんを眺めては、内心で万里花は毒づいて、少しすっきりするのだった。
突然倒れるおじさんを見て周りの人間が悲鳴をあげパニックになるのも少し快感だった。
ああ、おまえら人が倒れたくらいで、そんなに珍しいのかと。
こっちは毎日毎日毎日死のうかと考えているのにと。
きっと私が自殺したところで、可哀想ねと口先だけ憐れんで他人事だろうにと。
誰も自分のつらさをわかろうとはしないのだろうにと。
目の前でそれが起きれば、そんな反応をするのかと。
これみよがしにこっぴどく叱ってくる上司。
勝手に手伝ってきて見返りを求めてくる先輩。
調子のいいことを言って平気で仕事を他人に押し付ける後輩。
気分で指示がころころ変わる取引先。
万里花はそいつらを殺したいと思うようになっていた。
みんな死ねばいい。
おまえらみたいなクソ野郎は死んだ方が社会のためだ。
会社の中で穴に触ったことはまだなかった。
別に情があるからやらないのではなかった。
仮にここでそいつらが死んでしまったら、その分の仕事のしわ寄せがぜんぶ万里花にくるだろうことがわかっていたからだった。
また残業が増える。また睡眠時間が減る。
そう思うと、黙って従ってひたすら仕事をこなすことの方が得策だと思えたからだった。
「あーあ、こんなミスして馬鹿じゃないの。なんでみんなの頑張りを台無しにするの。1週間くらい徹夜しないと取り返せないね」
その日もやっぱり最悪だった。
ささいなミスを取り沙汰されて、余っていた他の仕事を上乗せされてしまった。
謝り疲れて自席に戻る。
立ちくらんだような青黒い視界に穴はあいている。
思い切って穴に拳を突き立てた。
上司の田中が咳き込んだから、よしこいつだ!と思って、ありったけの殺意を込めた。
だが、それ以上何も起こらなかった。
田中の腹から万里花の腕は出てこなかった。
他の誰も、苦しみ出しはしなかった。
万里花は拍子抜けした。
田中はこっちを見て、「どうした変な声をあげて、ストレスか?」と言ってきた。不細工な顔で。
家に帰ると、父親が倒れていた。
腹に大きな穴をあけて死んでいた。
葬式の日は1日だけ休みをもらえた。
それ以上は無理だと言われた。
常識だとか社会のルールだとかを諭されるのを、万里花は上の空で聞いていた。
母親はずっと泣いていた。
そして葬儀の翌日に首を吊った。
「また休むの?なんで?」と上司の田中は不思議そうな顔をした。
「万里ちゃんクソ真面目だからストレス溜め込み過ぎて、親殴っちゃったんじゃないの? 息抜きしなきゃ駄目だよーみんなに迷惑かかるんだからー」
そう言って笑い転げた。
なにがおもしろいのか万里花にはまったくわからなかった。
穴は見えなかった。
万里花は資料の重い本を持ち上げて、それを田中の脳天目がけて振り下ろした。
何度も何度も、角で殴り付けた。
過労によるなんとかかんとかと医者の診断書をもらって、万里花は長期休暇をもらった。
田中は全治何ヶ月かなにかで、しばらく入院らしかった。
その上の上司の山田が神妙な顔で「君がいなくても仕事は回るんだから、きちんと休んで治しなさい」と言った。
田中の分の仕事が万里花に回ってくることはなかった。
ひとりの家で万里花は膝を抱えていた。
そこらじゅうが穴だらけだった。
ひそひそとどこからか声が聞こえてくる。
「万里ちゃんどうしたのかしら」
「万里ちゃん仕方がないね」
「万里ちゃんやっぱりまた駄目だったんだね」
「万里ちゃんったらどうしようもないね」
「若いだけが取り柄なのにね」
「なにもできないまま年をとったら老害になるしかないね」
「努力が足りないから成果が出ないんだね」
「才能ないなら頑張るしか生きていく方法はないのにね」
「頑張らないと万里ちゃん」
「頑張って万里ちゃん」
「頑張らないと万里ちゃん」
「頑張って万里ちゃん」
「頑張らないと万里ちゃん、もっと頑張らないと」
「万里ちゃん、頑張らないとなにもできないよ万里ちゃん」
嘔吐物で汚れた床を、土色の動物が這っていく。
足のたくさんある赤い虫が、青いきらきらしたものを一生懸命かじっている。
にこにこした黄色い鳥が卵を産み、卵からはウミガメが産まれて部屋の壁の中を泳ぐ。
洪水がベッドからあふれては波が家具をひっくり返す。
散乱した乾いた米粒にはびっしりとお経が書かれていて、読んでいるうちに自分の肌にもその細かい筆の文字が浮かび上がってくる。
お経の書かれていない部分を毛むくじゃらの指がはがして持っていく。
叫ぶ。
我に返る。
部屋にはなにもいない。嘔吐物だけが散らかっている。
また吐く。
さっき食べた蛾が口の中からあふれてくる。
粉でいっぱいになって咳き込むと、資料の本が天井から山のように降ってくる。
本の角で身体中に青あざができ、むくんだ肌が切れると中から蛆虫がわいてくる。
胃液が虫を溶かす。
お葬式の棺の中の父も母も白い顔で笑っている。
叫ぶ。
我に返る。
部屋には誰もいない。
仏壇の写真が目に入る。
父も母もそれほど笑ってはいない。
仏壇の黒い色はカブトムシみたいなぬるぬるした光で動いている。
その金色の縁取りのカブトムシは、花瓶に挿された花をもしゃもしゃと食い、供えられたおはぎをこちらに投げ付けてくる。
おでこに当たってぼたりと落ちると、それは赤黒く、あの日父の腹からはみ出ていた心臓である。
心臓は節のある脚をはやして身を震わせながら床を小刻みに歩き、ごみ箱にぶつかって喜劇のように転ぶ。
飛び出した動脈がきりきりと裂けて唇になり、父の声を再生する。
「できそこないの娘ですみませんが、なにとぞよろしくお願いいたします」
畳の目と天井の木目が立ち上がっていっせいに拍手をする。
『できそこないの娘で』
『すみませんが』
いっせいに復唱する。
『すみません』
『すみません』
椅子とテーブルも立ち上がって歓声をあげる。
ソファが破けて白い鳩が無数に飛び出し、クッションは紙吹雪を噴出する。
戸棚のグラスが次々と身投げして、砕けてはクラッカーの音を立てる。
嘔吐するとのどからは硝子の破片があとからあとからわいて出てきて、割れたグラスと合流して組体操をはじめる。
高く組まれたタワーに鳩が突っ込んで喜劇のように崩していき、鳩自身も切り裂かれて赤い身を投げ出し、トビウオになった畳の目が跳ねては口でキャッチする。
家具たちがさらに歓声をあげ、耳が裂けそうになる。
叫ぶ。
我に返る。
穴があいている。
涙がこぼれる。
どこで間違ったのかわからないのだ。
真面目に生きてきたことのなにが悪いのだ。
愚鈍で、愚直で、素直で、なにもかもが羨ましくて、それでもただ頑張る以外に、自分にはなにもできなかった。
器用に生きれるならばそうしたかった。
それがおまえの罪なのだと、紫の豚が断罪してくる。
豚は鳴きながら自らの腹を裂き、汚い肉片を見せつけてくる。
所詮、ただの、糞袋だと。
夢を見るなんてどうかしていると。
携帯電話が鳴った。
田中からメールが届いていた。
「君が頑張っていたのは知っているから、ゆっくり復帰しなさい。ただ少し要領が悪かったね」
なんでおまえは生きているんだ。
おまえを殺したかったのに。
おまえが死ねば丸くおさまったのに。
無性に甘いものがほしい。
あと冷たい飲み物。冷蔵庫は空。
ふらつく足で外に出てみると、街はクリスマスのイルミネーションできらきらと光っていた。
ぼんやりとした色とりどりの丸い明かりが空間に波紋をつくって、そこらじゅうにあいた穴を隠してくれる。
ぎらぎらとした穴とよくわからないうごめくものたちを、いい感じにふんわりとさせてくれる。
不快なささやき声たちを、鈴の音とクリスマスソングが覆って塞いでくれる。
万里花は笑い出して、大声できよしこの夜を歌った。
なんだったんだろう、いったい。
これまで自分はなにをしてきたんだろう。
穴はずっとあいていたし、きっとみんなそれをこんな浮かれた光で見えないふりをしているのだ。
いままで自分はそれを知らなかっただけなのだ。
くだらねえ糞袋だ。
ふわふわした気分でワインを数本買って帰り、道すがらラッパ飲む。
それだけで街灯や信号機まで、イルミネーションのようにきらきらと輝き出す。
自分はなんて偽善者だったんだろう。
一生懸命やれば許してもらえるんだと思っていた。
よい心を持って努力をすれば、よい心の人だけがそれを理解してくれる、それでいいのだなんて。
そんなものは関係なかった。
この世界はそんなふうにはできていないのだ。
心を抉った分だけ水が流れ込んでくる。
頑張った分だけ窒息する。
誰かが許してくれるまでと抉って抉って抉り続けて、底に見えたのがその穴なんだろう。
自分のケツの穴に指を突っ込んだら、同じ肉の感触がする。
こんなに一生懸命やってるんだから誰を傷付けても許されるだなんて、思い上がっていたもんだ。
ああ、くだらない。
なんてくだらないんだ。
ぱっと視界がひらけたような気がした。
ワインの空き瓶で家の表札を叩き割った。
壁一面にお経が浮かび上がって、それはなにかメリークリスマスみたいな横文字になって宙に舞った。
コウノトリがその文字を食って、そのコウノトリをカバが大口あけて飲み込む。カバの耳から羽毛が噴水のようにわき上がる。クジラがその羽毛を歯で漉いていく。まるで祝福のように、吹き上がった潮に虹がかかる。
酒でも飲んで適当に生きよう。
一生懸命頑張って他人を傷付ける、そんなうんこを原料にうんこをつくるような人生、糞袋にはお似合いだ。
晴れ晴れとした気分で、翌朝、会社に行こうと万里花は家を出た。
駅のホームで、思い詰めた顔で電車を待っていた若い女性が、唐突になにか救われたような表情をして、ふらりと線路に落ちた。
通過する電車が走り抜けていった。
電車が遅延することを知って舌打ちをし「死ぬならよそで死ねよ、迷惑かけんなよ」と毒づくサラリーマンたちも、バラバラになって吹き飛んだ若い女性も、まるで昨日までの自分を見ているようだと万里花は思った。
定時には会社に着かないが、万里花は苛立ちはしなかった。
《了》
※※例の事件にインスパイアはされましたが※※
※※実在の事件、人物、団体とは一切関係ありません!!※※