彼は春風とともにやってきた
彼は毎年、春風とともにこの村にやってきた。
お気に入りの銀色のハモニカを鳴らしては、心地の良い日差しに緩やかな旋律をのせた。
彼の隣に腰掛けた僕は、釣り竿を片手に足の下を流れる小川の水面をにらむ。夕方まで目一杯かかることもあった。その間中、彼はずっと得意のハモニカを吹いていた。
「ねぇ」僕が尋ねた。
「なんだい」彼は答えた。
「そのハモニカ、いつも持っているんだね」
「あぁ、大事なものだからね」
「へぇ、どこで手に入れたの?」
「ある人からもらったのさ」
「そうなんだ、どんな人だったか聞いてもいい?」
「構わないが、あまり沢山喋ることはないぜ。何せ僕も小さかった頃の話だし、その人の素性ってやつは僕もよく知らないんだ」
「不思議な人なんだなぁ」
「不思議も不思議」
「すごいや、話してみせて」
「それじゃあまずは出会いから話そう」彼はハモニカを膝の上でトントンとたたいてから、ゆっくりと話し始めた。
その人も旅をしていたんだ。いや、彼の方が僕より先だよ。僕はその人に憧れて旅を始めたんだから。
僕がまだ小さい頃、僕の村に彼が訪ねてきたことがあったんだ。本当にうんと小さい頃にね。僕はまだ、母のスカートの裾をつかんで隠れることぐらいしか出来なかった程さ。ある日突然、彼が訪ねて来てね、うちにしばらく留まることになった。ひょっとすると父の友人だったのかも知れないし、母の友人だったのかも知れない。結局あの人が語ることはなかったけどね。
彼が来てから僕の生活は一変した。母のスカートから離れ、彼に付いて外を出歩くようになった。ちょうどこんな風に二人で川の流れを追うのもやったし、市場にくり出しては、何も買わずに帰ってくるというのもやった。
彼は買い物が嫌いならしく、「人と善意で物を交換するなんて考えられない」といつも言っていた。「信じられないね」とも言っていた。
夜になると、彼は僕のベッドに腰掛けて、今までしてきた旅のことを話してくれた。幼い僕にはそれは夢のような話ばかりで、彼への気持ちが憧れになったのもその時だ。結局、僕が眠るまで彼は僕の部屋にいて、僕が眠るとそっと毛布をかけて、ロウソクの火を吹き消してくれた。僕は眠っていたけど、その感覚だけはなんとなく覚えているんだ。
しかし、一週間程で彼はもう発つことになった。また旅を続けるらしかった。
母は彼に、大きめのパンと、それと一緒にバターも少しだけ渡した。彼は申し訳なさそうにそれを受け取るとリュックサックのくちを開けて、中にしまった。
僕は悲しくて泣いていた。それはもう、悲しくて。この一週間が夢のようだったから。
僕も一緒についていきたいと言った。すると彼は上着のポケットから何かを取り出して僕に渡した。
「これを君にあげよう。もし、いつか君が大きくなって、旅をする日が来たのなら、それを持って出るといい。きっと素晴らしい冒険が待っているよ」
それは銀色のハモニカだった。
「これは?」
「僕の大事なものさ」
「もらってのいいの?」
「ハモニカには代わりがある。でも、君に代わりなんていないだろう?」彼は僕の頭をなでて少しだけ笑うと、黄色いスカーフをひるがして遠くへと歩いていった。
「だから僕はこうして旅をしているんだ。そうしていれば、またどこかで会えるに違いないからね」
執筆の味を占め始めました。
「彼」のモデルにピンときた方はぜひコメントください。