許嫁?
「ごきげんよう」
「……こんにちは」
現実で“ごきげんよう”だなんて初めて聞いたけど、言い慣れてる人はやっぱり違うな。全然違和感を感じない。でも、きっと私が同じように言ったら彼女には不自然に聞こえるんだろうな。
「あの……?」
育ちの良さそうなお嬢様なのに、たった一人で突然いらっしゃった女性を前にこちらも生憎一人で対応している私は普段引き込もっているため、こんな時どうしたら良いかわからず突っ立っていると、お嬢様は訝しげに首を傾げていた。
「ごめんなさいっ、失礼ですがどちら様でしょうか?」
「まあっ!あなた、わたくしをご存知でないの!?……そういえばあなた見たことのない顔ね、新しいメイドかしら?」
「いえ、こちらでお世話になっております吉乃と申します。はじめまして」
どうやらこのお嬢様は神田家にはよく訪れる程のご関係の様だ。
私は名乗ったんだからお嬢様も自己紹介してくれると思ったんだけど、なぜかこのお嬢様はその気の強そうな大きな瞳を更に見開いて固まってしまった。
「まあ……それでは、あなたが!」
?
自慢じゃないけど私はこの3年で数えるほどしか外出してないし、更に言えばお客様に会う事など皆無に近いんです。だから、私の事を知ってる人なんてここの家人か使用人の人たちぐらいだと思うんですけど、その気になるリアクションは何ですか?
「あなたがねぇ……。クスッ、噂も当てにならないものね、心配して損したわ」
噂が何なのか気になる所だけど、とりあえず今私が馬鹿にされてるのは理解したぞ。
「あの、失礼ですが」
「あら、ごめんあそばせ、わたくし宮森香弥子と申します。…忠之様の許嫁なんですのよ、ご理解頂けましたかしら?」
許嫁――ああ、彼女がそうなんだ。
宮森香弥子さん。
そんな名前だったっけ?
ああもう、漫画の内容をほとんど覚えてないや。ただ覚えてるのは忠之さんと鈴ちゃんが結ばれる事だけ。それなら、彼女も私と一緒じゃないか。
「ちょっと、聞いてますの!?わたくし忠之様の許嫁と申してますのよ!」
「あ、あの……忠之さんはまだお仕事からお戻りになりませんが……お約束でしたか?」
平日の昼間なんだから、普通仕事に行ってるってわかると思うんだけど。それに前もって約束してたなら朝に忠之さんがなんとか言うと思うんだけど、今朝は別に来客の予定なんて言ってなかったし。他のメイドの人達も来客の準備をするような気配なかったけどな。
「や、約束はしてないけど良いじゃない!わたくしは忠之さんの許嫁なんですから!!」
急に怒ったように声をあげる香弥子様に私もどう対応したら良いかわからず困ってしまう。
どうやら突然の訪問のようだけど肝心の忠之さんはいないし、他に人の気配もないから誰かに助けを乞う事もできない。
うーん、困ったな。わざわざ来てくれた人を帰すのも悪いし、でも勝手に屋敷にあげても良いんだろうか。
個人的には忠之さんの許嫁なんて帰ってほしいけど、それはそれで後で怒られそうだし。
「吉乃さん、何の騒ぎかしら?」
「奥様」
その時、声をかけてくれた奥様―令子様の登場に私はほっと息をつく。
どこかにお出掛けになる予定なのか、外出着で現れた奥様からは相変わらずしっとりとした色香が漂っていて、流石の香弥子様もぽーっと奥様に見とれていらっしゃる。口が開いてますけど、折角の美人が台無しですよ。
こうやって見ると、流石少女漫画の世界だ。私の周りは本当に美形が多い。鈴ちゃんは例えるなら向日葵のような溌剌とした可愛らしさで、香弥子さんは清楚な百合の花ってとこかな?ちなみに奥様は妖艶な胡蝶蘭だな、お歳は伺った事はないけど忠之さん達ご兄弟の実のお母様というからには中々のお歳のはずなのにあの美貌。ご兄弟は嫌がるけど彼等とお出掛けになる時なんかまるで夫婦だものね。
「お客様かしら?」
「はい、宮森香弥子様がいらっしゃいました」
香弥子様の姿が見えるように私は横にずれた。
「あらまぁ、お久しぶりね香弥子さん。すっかり大人の女性になられたわねぇ」
「御無沙汰しております。この2年は女学校に通っておりましたの、久方ぶりに令子様に会えまして嬉しいですわ」
疑ってたわけではないけど、香弥子様が忠之さんの許嫁っていうのは本当みたい。奥様と挨拶をかわす姿はとても自然で昔からのお付き合いがあったのがよくわかる。
「そうね、折角いらして下さった事ですしお茶でもいかが?……お茶を飲む時間くらいあるわよね」
後半の台詞は後ろに控えている側仕えの田中さんに向けられたものだ。神田財閥の御当主夫人として毎日何かしらのお誘いがあるようで、やっぱり今日もお出かけの予定だったらしい。
問いかけたわりに返事を聞くことなく奥様はスタスタと応接間の方へ歩いて行ってしまった。
香弥子さんも当たり前のように奥様の後をついていく。
玄関にひとり残された私はその後ろ姿をただ見ている事しかできなかった。
忠之さんは彼女の事どう思ってるんだろう。原作通りにいけば婚約解消する事になるとはいえ、今は香弥子様はれっきとした忠之さんの許嫁。今まで彼の口から香弥子様の名前を聞いたことはなかったけど、どうやら昔からの知己の様だしそれなりに大切に思ってるんだろうか。
私が皆様にいくら可愛がってもらっているからって、所詮私は娘のような者、妹のような者であって家族なわけじゃない。
その証拠に私は外部の人とはほとんど接触する事が許されていない。別に禁止されているわけではないけど、来客時は部屋にいるよう申し付けられるし、外出もごく稀に奥様の買い物に付き合うぐらいだ。忠之さんの交遊関係も知らないし、もちろん紹介された事などない。
だけど、香弥子様は違う。あの歴としたご令嬢は忠之さんと共に堂々と社交の場に繰り出すんだろう。
どうも香弥子様の存在は自分の立ち位置の不確かさを気付かせてくれたようだ。
鈴ちゃんと香弥子様、忠之さんに関係する二人の女性の出現でいとも容易く私の足元は不安定なものにさせられてしまった。
最近よく思うのは、私がここにいる意味。
何のために私はここに、忠之さんの所に来てしまったんだろう。
平面のあなたになんか恋などしなかっのに――。
一度触れてしまったら、離れられるわけないのに――。




