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私の居場所

 ある朝、私は廊下を走らないように、でも出せる限りのスピードで足をある場所に向けていた。

 時折すれ違う使用人さん達になんとか笑顔で挨拶を交わすも、内心では酷く焦っていた。


「あっ、吉乃様おはようございます!」

「おはよう、鈴ちゃん。こっちの厨房使わせてもらうね!」


 慌てて使用人達が使う方の厨房の前に立つも、そこにはすでに立派なお弁当が鎮座していた。

 毎朝この厨房でお弁当を作るのは私だけだったはずだけど、誰のお弁当だろう。


「あっ、あの!差し出がましいとは思ったんですが、間に合わないといけないと思いまして私が…、勿論吉乃様のお味には劣るとは思いますが、このお弁当では忠之様のお口に合いませんでしょうか」


 ――ガーン!

 なんて事なの。


 何の役も立たない私が唯一忠之さんの為に続けてきたのがこのお弁当作りだったのに、よりによって寝坊したあげくライバルに忠之さんのお弁当を作ってもらうなんて。

 しかも同じ材料を使っているはずなのに、私の作ったものよりずっと美味しそうだ。




 寝坊した私が悪い。

 鈴ちゃんはただ気をつかって、急遽作ってくれただけ。

 頭ではわかっているけど、狭量な自分は悔しくて仕方がない。忠之さんに関する事は全て誰にも譲りたくなんかないのに、よりによってヒロイン様に助けられるなんて。


 もしかして、これもエピソードのひとつで二人を近づけるための演出なんだろうか。だったら私は主人公達の恋のスパイスなの?


 こうやって徐々に私の居場所が、忠之さんの一番近くのいられる場所が奪われていくのだろうか。


「吉乃様?」


 黙りこんでしまった私に機嫌を損ねたとでも思ったのだろうか、大きな目に不安な色を浮かべている鈴ちゃん。


「……ありがとうね、とっても美味しそう。きっと忠之さんも喜ぶわ」


 無理して笑みを浮かべる私の言葉に、「そうでしょうか!」なんて言いながら嬉しそうに頬を染める可愛らしいヒロイン。



 ここには電子レンジはないし、ガスレンジも炊飯ジャーだってない。初めは薪をくべての火加減の調節なんてどうしたら良いのかさっぱりわからなかった。

 それでも、私だってこの3年でそれなりに出来るようになったつもりだ。

 3年前、元の世界に戻れないかもしれないと思い始めた私はとにかくこの世界、いや時代に慣れなくてはと手始めに厨房の使い方を覚えようと思ったのだ。

 神田家の皆様に出す食事を作る調理場は流石に無理だったが、使用人達が個人的に使う簡単な厨房があると聞いた私は手の空いているメイドさんにお願いして使い方を教えてもらった。

 ただでさえ皆忙しいのに誰ひとり嫌な顔もせず私に付き合ってくれたおかげでなんとか人並みには調理できるようにはなったと思う。


 ただ、それをどこから聞いた忠之さんから自分のお弁当を作ってほしいだなんてお願いされた時は「とんでもない!」と固辞したのに、いつの間にやら丸め込まれてしまった私は毎朝忠之さんのお弁当を作るのが日課となった。

 忠之さんは特に好き嫌いもないので、栄養のバランスを考えながら何とか頑張って毎日お弁当を作ってこれたのは、忠之さんが毎日美味しかったよって言いながら空の弁当箱を返してくれるから。

 それが嬉しくて拙いながらも心を込めて毎朝お弁当作りに精を出していたのに。


 目の前で楽しそうにお弁当を包んでいる鈴ちゃんの姿を見ながら私は、恐れていた事態が忍び寄って来るのをひしひしと肌で感じていた。


「吉乃様、そろそろ忠之様のお出掛けになられる時間ではないですか?」


 そう言いながら、お弁当を私に手渡そうとする鈴ちゃんに私は首を横に振る。当たり前のように私にお弁当を渡そうとする鈴ちゃんから他意は窺えないが、私としては自分が作ってもないこのお弁当を私から忠之さんに渡すのはどうしても嫌だったのだ。


「鈴ちゃんから渡してあげて?」

「えっ、でも……」

「折角鈴ちゃんが一生懸命作ってくれたんだもの、鈴ちゃんが渡さなきゃ」


 この小さな出来事が歯車を狂わす事になるのかもしれない。このちっぽけなプライドのせいで、取り返しのつかない事態に陥るとも限らない。


 それともこれは必然で、むしろ私が狂わせていた歯車こそが今から正しく噛み合っていくのだろうか。


 大事そうにお弁当を抱えながら歩く鈴ちゃんの後ろ姿に焦燥感が募りつつも、半分は諦めの思いが私のなかに生まれつつあった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「こんな所にいたのか、探したよ」

「えっ?た、忠之さん!?」



 その日は結局お見送りもせずに、朝から一日のほとんどを裏庭の花壇での土いじりに費やしてしまった。

 やることのない私はいつも本を読んでいるか、奥様のおしゃべりにつきあうか、裏庭に作ってもらった専用の花壇に好きな花を育てるくらいしかすることがなく、今日は何にも考えたくなかったのでひたすら無心に草むしりに勤しむ事にした。

 そして、お昼を過ぎてまだ夕刻には早い時間、花壇に水やりしていると突然背後から私の体は大好きな温もりに包まれていた。


「おかえりなさい、今日は早かったんですね」

「うん、早く吉乃の顔が見たかったからね。……朝は顔が見れなくて寂しかったよ」

「う、……ごめんなさい」


 後ろから私の体を覆うように抱きこまれているから、忠之さんが喋るたびにうなじに忠之さんの落ち着いた低音が響くいて、私の体をゾワゾワとした震えが体を走り抜ける。


「……今朝はどうしたんだ?」

「あ、あの……それはっ、」

「んっ?」

「ご、ごめんなさいっ!寝過ごしてしまいました!!」


 ただでさえ役に立ってないというのに、唯一と言っても良い私の仕事(弁当作り)をしくじるなんて。しかも、理由が寝坊だなんて、忠之さんに呆れられても仕方がない。

 生憎しっかりと体をホールドされているため、頭を下げる事はできなかったが、大声で謝罪しながら心のなかで頭を下げた。



「ねえ、吉乃……最近、元気がない時があるね?」

「!!」


 確かに鈴ちゃんが来てからというものあれこれ思い悩む時が増えたけど、なるべく暗い顔は見せないように努めていたはずなのに。

 忠之さんは私が思っている以上に私を見ててくれてたようだ。


 嬉しい――


 それが妹に向ける愛だという事はわかっている。

 私と同じ想いを返してもらおうなんて望んじゃいけない事もわかっている。


 切ない、辛い。

 だけど……、どんな形であれ今は私が忠之さんの一番近くにいるんだ。


 それが別の女性に替わられるその日まで、私はあなたのそばにいても良いですか?

 その日がきたら多分祝福はできないけど、邪魔はしないように頑張るから。


「心配かけてごめんなさい。季節の変わり目でちょっと体調がおかしかったのかもしれません」

「……そうか。気をつけるんだよ」

「はい」


 忠之さんが後ろにいて良かった。きっと顔を見ながらではこんな嘘簡単に見抜かれてしまっただろうから。


「困った事があったら、なんでも言ってくれよ。この前も言ったが、吉乃の事は本当に大事に思っているんだからな」

「……はい、ありがとうございます」


 まだ少し疑っているようだけど、忠之さんは私が頷いた事で一応納得してくれたみたい。



「だからさ、もし毎朝弁当を作るのが負担なんだったら、無理しなくても良いんだよ?」

「…………え?」

「勿論吉乃の作ってくれるお弁当は美味しいから毎日食べたいよ。だけどね、それのせいで吉乃の体調が壊れでもしたら元も子もないんだからね」

「あ、あの……でも、」

「幸いにもうちには使用人がいるんだから、吉乃もたまには甘えても良いんだよ?ね、今日みたいにさ」

「!!」



 息が止まるかと思った。


 お弁当を作らなくてもいい?どうしてそんな事言うの、最初にあんなに作って作ってってうるさかったのは忠之さんの方なのに。


 うちには使用人がいる?今日みたいに?

 それって鈴ちゃんがいるから、彼女に色々してもらうから私は必要ないって事?


「……吉乃?」


 この3年ゆっくりと穏やかに築いてきたものが、少しずつ崩れ始める音が聞こえる。


 今まで一度も寝坊しなかったのに、その小さなチャンスをヒロインはいとも容易く引き寄せたとでも言うの。


「吉乃?どうした?」

「……ありがとうございます。でも、まだ私に作らせてもらえませんか?お願いします、今日はちょっと失敗してしまいましたけど、忠之さんのお弁当作りは私の楽しみでもあるんです」


 お願い、私の居場所を奪わないで。


「そうか?それだったら良いけど、無理だけはするんじゃないよ」

「はい」


 折角、忠之さんの温かい腕に包まれているというのに私の体と心は驚くほど冷たい。


「あー、お腹すいた!吉乃の玉子焼きが食べたいなー」


 私が纏うおかしな空気に気づいているのかいないのか、まるでそれを払拭させるかのように忠之さんは突然明るい声をあげた。


「わかりました、すぐに用意しますね。でも、お昼を召し上がったばかりじゃないんですか?とても美味しそうでしたよね」


 私も馬鹿だな、わざわざ自分の傷を抉るようなセリフを吐かなくてもいいだろうに。


「あー、うん、確かに美味しかったけど――」

「……」

「やっぱり僕は吉乃の味の方が好きだな」

「!?」


 今……何て?


「ははっ、やっぱり前言撤回するよ。吉乃の弁当、毎日食べたいなー。あっ、でも無理だけはするなよ?」

「……」


 忠之さんはずるい。

 さっきまで底辺まで落ちていた私の心を簡単に引き上げてしまうんだから。


 回された腕にそっと手を添えると、かすかに力が込められたのがわかる。

 それだけで私はもうここから逃げ出す気など無くしてしまう。



 ――忠之さん、大好きです。


 ――僕も好きだよ。



 きっと今、私が想いを告げたとしても、あなたはそう返してくれるでしょうね。


 だから私はあなたに想いを告げる事はしない。


 本当に私はあなたを愛しているから――。

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