ヒロイン登場
カチャン!!
「熱っ!」
「申し訳ございません!だ、大丈夫でございますか!?」
「うん、大丈夫。鈴ちゃんこそ怪我しなかった?」
「はいっ!私は大丈夫……って、吉乃様!指が赤くなってます!す、すぐに冷やすものを…!」
「慌てなくて大丈夫よ、これぐらい大した事ないから」
「いえ!火傷は早く処置しないと痕になりますから!少々お待ちください!」
「あっ、」
……行っちゃった。
いくら熱い紅茶だからだって、指にほんの少しかかっただけなんだから、本当にたいした事なんかないのに。
なんでも一生懸命で、でも抜けてるところもあって、だけどなんだか憎めない。
―――本当に愛らしいヒロイン様。
この前まで、鈴ちゃんが来る前にはこの屋敷を出ていかなくてはなんて考えていたのに、行くあてもない私は結局ずるずると桜の季節になってもここに居座り続けてしまった。
そして、一縷の望みにかけてはみたけれどやっぱりヒロインは登場してしまった。
腰まで伸びた真っ直ぐな黒髪を後ろで三つ編みにして、パタパタ走り回るたびにその尻尾が左右に揺れるのが見ていてとても面白い。そして慣れないメイドの仕事に一喜一憂しながら、クルクル変わる表情は私にはない天真爛漫さを表していて思わず微笑んでしまう可愛らしさだ。
決して美人という訳ではないが、いわゆる愛嬌のある顔でにこにこ笑顔を向けられれば思わず守ってあげたくなる魅力が彼女にはあった。
新しいメイドという事でセツさんに連れられて神田家の方々に挨拶に回ってきた鈴ちゃんが忠之さんの所に訪れた時、幸か不幸か私もその場にいて、意図せず主人公達の初対面シーンを間近で見ることになってしまった。
「す、鈴と申します!い、至らぬ点もあると思いますがよろしくお願いします!」
「そんなに緊張しなくても、とって食ったりしないよ。それとも僕ってそんなに恐ろしい顔してるの?」
「い、いえ、そんな!恐ろしいだなんてっ、と、とっても素敵です!……って、あわわっ!も、も、申し訳ありませんー!!」
目の前で繰り広げられられている光景が、あまりにも原作通りの展開だった事に私は茫然としてしまった。
真っ赤な顔で何度も頭を下げる鈴ちゃんとその姿を呆れた様に見る忠之さん。
それは私には決して見せない冷たい眼差しだけど、それも最初だけの事。二人はこれから共に過ごすうちに互いの魅力に気付き、次第に惹かれ合っていくのだろう。
鈴ちゃん達が去ったあと、何事もなかったかのように中断していた話の続きを始める忠之さんの顔はいつもの優しい顔に戻っていた。
だけど、その時の私は話の半分も頭に入ってきていなかった。
ただ私の頭の中を占めるのは先程の光景のみ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
パタパタと小走りで部屋に戻ってきた鈴ちゃんはなぜか大きな桶一杯の水を運んできた。そして、やはりというか何というか部屋に入ってきた途端、何もないところでつまづいてしまい、見事に私の全身に水をぶちまけてくれたのだった。
すぐに着替えた為風邪を引く事もなかったけど、その騒ぎで私達は火傷の事などすっかり忘れてしまい、後始末を終えた鈴ちゃんが去ったあとやっと思い出したかのように指先がジンジン痛むのに気づいた。
これくらい我慢しようかと思ったけど、この鈍い傷みは地味に辛かったのでこっそりセツさんに手当してもらった。
その時、要らぬ心配をかけたくなかった私は誰にも言わないで下さいって確かに言ったはずなのに――。
「吉乃っ!!火傷したって本当か!?」
どのタイミングで耳に入れたのか知らないが、帰宅してすぐに私の部屋に駆け込んできた忠之さんに問いつめられてしまった。
「忠之さん、大丈夫ですよ。ほらっ、少し赤くなっただけですから……って、ひゃっ!」
「ああっ、吉乃の綺麗な手がこんな赤くなってしまって可哀想に。痛かっただろう?」
驚きつつも安心してもらおうと忠之さんの前にかざした手を突然取られたと思ったら、あろうことか忠之さんはそのかすかに赤くなった指先を口に含んだ。
「た、た、忠之さん!な、な、何を……!」
「…ペロッ、痕が残るといけないから、ね?」
「あ…の……、な、舐めても治らないと、思うんです、けど……んっ…。む、むしろお薬がとれてしまいま、す……」
私の目を見ながらペロペロ指を舐め回す忠之さんの色気が尋常ではなく、チラチラ見える赤い舌がいやらし過ぎて、全身までもが火傷してしまうんではないかと思うほど熱くなる。指を舐められるなんて行為、恥ずかしくてしかたないのに私も忠之さんから目を離す事ができない。
いつまでも指が忠之さんの口から解放されない私はくすぐったさを越えて次第におかしな気分になってきた。
「はぁ…、忠之、さん……」
「こら、動いちゃ駄目だろ?ちゅっ、これは治療なんだから、ね」
「は、はい…、ごめん、なさい……」
どれだけこの状態だったのだろう、やっと指を解放された途端、私は崩れ落ちるように椅子の上に腰を下ろした。
涙目で見上げる私に忠之さんは妖艶な笑みを湛えながら見下ろしてくる。しかもペロリと唇を舐めあげる仕草を見せられた私はお腹の奥の方から得体の知れない疼きが感じられて、思わず目をそらしてしまった。
「……吉乃」
「……はい?」
「君が火傷したって聞いてどれだけ僕が心配したかわかるかい?本当に寿命が縮んだよ」
「ご、ごめんなさい……でも、寿命って、ちょっと大袈裟ですよ」
片膝をついて再び私の手をとった忠之さんは眉を下げながら情けない顔で私を見上げてくる。
しかも、なんとも大仰な事を言うから苦笑いしながら謝ると、軽く睨まれてしまった。
「あのね。僕は吉乃が本当に大切なんだよ。君に何かあったら、きっと僕の心臓は止まってしまうだろうね」
「……」
何という殺し文句。
真っ直ぐに見つめてくる忠之さんの顔を直視できないまま、私はただ真っ赤に染まっているであろう顔でなんとか肯首するしかできなかった。
私がこの屋敷にご厄介になってからずっと忠之さんは私の事をまるで本当の妹のように接してくれていた。とても大切に思って下さっているのは実感しているけども、だけど、きっとそれは私の抱いている忠之さんへの想いとは種類が違う。
彼が私に向ける眼差しはとっても優しい。でも、それは家族に向ける穏やかなもの。それとは違う恋い焦がれて燃えるような熱い視線を彼が向けるのは、誰なんだろうか。
いづれ私はそれを一番近くで見なければならないのだろう。
そんなの耐えられない。
悲しい思いをする前に逃げ出そうかとも思うけど、弱虫な私はもうこの手を自分から離す事などできそうにない。もうそれぐらい私の恋心は育ちきってしまっているのだ。
あなたが、好きです。
お願い、私を好きになって。
私に恋い焦がれて。
他の誰も見ないで。
ヒロインのもとへなんか、行かないで――。




