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彼の事情2

 ある日、周りの友人とも言えない奴等から散々噂の美女について質問攻めにあった日の事。そこは若者だけの飲みの席という気安さからか、かなり出来上がっていたそいつらはかなりしつこく噂の美女(吉乃)について探ってきたのだが、どうもこいつらが吉乃について興味を持っているのが気に入らない僕はそんな女はいないと言い残し早々に酒の席を切り上げてひとり帰路についた。

 その車中ではあまりに現実とかけ離れた噂話の内容に呆れながらもふと僕は噂話以外で奴等がしていた悪趣味な話を思い出していた。


 *****


『やはり女というのは貞淑なのが一番だな』

『いやいや、それは時代遅れと言うもんだ。この時代男と共に世に出て働く強い女性もいるんだぞ、そんな女を屈伏させるのが男の醍醐味ってものだろう』

『うーん、私は育てる楽しみというのもあると思うが』

『ほう、紫の上か。だが君は光源氏になる前に頭が光りそうだな!』

『なんだと!!』

『まあまあ、酒の席の戯れ事だ、少し落ち着きなさいよ。だが育てるというのも有りかもしれんぞ』

『貴様はそんな経験があるっていうのか?』

『ああ、今の細君は年の離れた幼馴染みだからな。彼女が幼い頃からずっと妹のように思って接していたのだが……お前達、女というのは恐ろしいぞ。毎日見ていた筈なのに、ある日突然一人の女に見える時が来るんだ。まるでさなぎが蝶に孵化するように一瞬でな』

『何だそれは、突然姿形が変わるっていうのか?』

『いや違う、外見は何も変わっていないんだ。だがその日から到底妹には見えなくなってしまうんだ。……すまん、うまく言えないがそういう事もあるって話だよ』

『ほう、いまいちよくわからないがそういう事もあるんだな』

『……もしかしたら女じゃなくて男の方なのかもな』

『どういう事だ?』

『俺もうまく言えんが、お前はずっと己の目に覆っていた彼女は妹だという薄膜を無意識に剥がしたのかもしれないぞ』

『なるほどな、そして明るくなった視界の先には大人の女がいたという訳か』


 *****


 ……何故今こんなモテない男共の女性談義を思い出したのかは知らんが、ふむ、薄膜か……面白い、少し試してみるか。

 そんなことを考えてしまうぐらい僕も酒に酔っていたのだろう。車から降りて玄関の扉を開けるとその先には調度良いことに件の吉乃が使用人と話しているのか後ろを向いて立っていた。


「……あっ。忠之さん、おかえりなさい」

「!!?」


 振り向いたのは確かに吉乃だ、それは間違いない。清楚な桜色のワンピースを着てこちらに体を向ける吉乃の髪の毛は多少伸びてはいるが真っ直ぐな黒髪は何も変わっていない。顔も薄化粧はしているものの相変わらず小動物のようなやや幼い顔つきのままだ。なのになんでだ?最初に出会った頃のもさったい印象や怪しい素性についてを一旦忘れて、つまりあいつらが話していたように薄膜なるものを取り除いてみた所、そこで僕が目にしたのは紛れもなく一人の美しい女性ではないか。そしてその彼女と目があった瞬間僕の鼓動は大きく跳ねたのだ。


「……?忠之さん、どうかしましたか?」


 くそぅ、僕は目の薄膜は剥がしたが耳掃除までした覚えはないぞ。なんで声を聞いただけで動悸が止まらないんだ、名前を呼ばれただけで胸が震えるほど嬉しいと思ってしまうのは何故なんだ!


「う、あ……そ、その……ただいま」

「はい、おかえりなさい」

「くっ……!」


 まずい、このままでは吉乃の前で醜態を晒してしまう。

 いつもの'優しい忠之さん'の仮面を保てないと判断した僕は情けない事に吉乃と録に目もあわせないまま足早に自室へと戻ってしまった。


 おかしい、こんなのは何かの間違いだ。忠之よ思い出せ、あの吉乃は田舎者丸出しの全く垢抜けない娘ではなかったか。僕の周りには比べ物にならないぐらい美しく洗練された女性がたくさんいるはずたぞ、なのに何で今産まれて初めて女性を見て胸が高鳴ってるんだ!?

 まさか……まさか、まさか!そんな馬鹿な事があるか、こんなのまるで僕が吉乃に恋をしているみたいではないか!!



「忠之さん?吉乃です、あの……少しよろしいですか?」


 あんな素っ気ない態度を取ってしまったから気になって来たのだろうが、一度も来たことのない僕の私室にまで足を運ぶなんて相当気に病んでいるんだろう。だが駄目だ、今は吉乃と顔を合わしてもまともな応対ができるとは思えない。

 僕は吉乃の前では大人で冷静な神田忠之でいなければならないんだ。それなのにこんな狼狽えた姿を見せるわけにはいかない。


 僕からの返事がない事をどう思ったのか、しばらくすると遠慮がちに叩かれていた扉をノックする音が止んだ。


「……お疲れの所、失礼しました。おやすみなさい」


 扉の前から消える気配に僅かな安堵と大きな罪悪感が僕を襲う。今すぐにでも扉を開けて吉乃を追いかけたい衝動にかられるが、未だ彼女の素性が知れないという事実を思い出す事で自らを強く戒めた。

 いいか、アレは間者の可能性もあるんだぞ、なのに僕が彼女に囚われるなど敵の思う壺ではないか。そうだ、これは何かの間違いなんだ。きっとただの思い違いに過ぎないはずだ……うん、吉乃の作った弁当を食べたいと思ったのも、どんなに甘やかしてもある程度の距離から近付いてこない事をもどかしく感じていたのも、他の奴等がたとえ噂話だとしても吉乃に興味を持つのがこんなに腹立たしかったのも全ては僕の気のせいに決まっている。


 恥ずかしながら今まで自分から女性を求める事のなかった僕はこれが正真正銘、神田忠之の初恋だということに気づく事はなかった。いや、というより頑なに認めようとしなかったのだ。



「昨日はすまなかったね、少し飲み過ぎたみたいで調子が悪かったんだ。あんな態度を取られて気分悪かっただろう?本当に申し訳ない」

「い、いえ!私こそ調子が悪かったとは気づかすにお部屋まで押しかけてしまってごめんなさい!」


 次の日の朝、なんとか一晩で冷静さを取り戻した僕はいつもの'優しい忠之さん'の顔で夕べの事を謝罪すると吉乃は明らかにホッとした顔で答えた。顔色が少し悪いように見えたのはもしかしたらよく眠れなかったのかもしれない、そう思うと胸がズキリと痛んだが本当の事を言うわけにはいかない僕は何事もなかったかのように吉乃と朝食を取ったのだった。


 その後は時折女の顔を見せる吉乃を見て勝手に早鐘を打つ胸に焦るものの、意地でもそれは気のせいだと言い聞かせる日々が続いた。



「忠之様、吉乃様の事で少々お耳に入れたい件があるのですが」


 ある休日の昼下がり、吉乃は母の部屋へと連れていかれてしまった為僕は一人で読書をしていた。その時そっと近づいてきたのは特に吉乃の動向を気にするよう申し付けていたメイド頭のセツだった。


「なにっ!?……あっ、いや何でもない。それで吉乃がどうかしたのか?」


 吉乃の名に過剰に反応してしまいセツには不審な目で見られてしまったが気を取り直して詳しい話を聞いた所、それは今の自分には衝撃的な内容であった。



 先日、ウチに出入りしている業者の一人と吉乃が人目のつかない所でコソコソと話している姿が目撃されたというのだ。それを聞いてやはり吉乃は敵の間者だったのかと自分が予想する以上にショックを受けていたのだが、どうやら話の続きを聞く限りそれとは少し違うようだ。というのも吉乃は小声で話しているのに対し、相手の男は普通に世間話をするように周りを気にしない音量で話しているため、現場を目撃した使用人も二人の会話を断片的にだが聞く事ができたようなのだ。



『……働き場所ねぇ、そりゃ無いことはないですけどお嬢さんみたいな人ができる仕事じゃねえですよ』

『―――――――』

『そこまでおっしゃるなら、おいらの知ってる店にでも今度聞いといてみるが、本当によろしいんで?』

『―――――――』

『へえっ!?住み込みって、本気ですかい?』



 ……働き場所?……住み込み、だと?何だそれは!?

 ふ ざ け る な!!

 こんな情報だったらまだ敵と内通していたと報告された方がよっぽど良い!どういう事だ、つまりは吉乃は僕の元を離れようとしているっていうのか!!あれだけ甘やかして優しくしてやったっていうのにその僕を置いてどこに行く気だ!?

 お前は僕の事が好きなんじゃないのか!!


 業者の男の言葉から判断するに吉乃はこの家を出てどこかの店で住み込みで働くつもりらしいが、そんなことは到底看過できるはずもない。

 突然僕の前に現れて、いつの間にか人の心を奪っておきながら勝手にいなくなるだと!?……ああそうさ、認めるよ。僕は吉乃が好きだ、離したくない。吉乃が僕の目の届かない所へ行ってしまうと思っただけで胸が苦しくてたまらないんだ。




「吉乃、何か困ったことはないか?」


 僕はすぐに吉乃と話していた業者へ手を回し彼女に仕事は紹介できないと言うように命じた。勿論そいつはウチへ出入り禁止にし、二度と吉乃と接触などさせぬようにした。そして、使用人達には吉乃が外部の人間と接触する機会を作らぬよう申し伝え、最近は緩くなりつつあった監視の目を再び厳しくするよう強く命じた。


「不満があれば遠慮なく言うんだよ」


 吉乃が敵の間者だというならそれでも良い。僕が恐れているのは吉乃が僕のそばから居なくなる事だけだ。


「いつまでもここに居れば良いんだからな」

「忠之さん…………ありがとうございます」


 そうだ、その目だ。お前の目に僕への恋慕の情が映っている限り、どんな思惑があろうとも僕はお前を離しはしない。


「えっ…?あ、あのっ、ちょっ……た、忠之さんっ、」


 お前の肌はこんなにも柔らかく手触りの良いものだったんだな。知らずに過ごしてきたなんて本当に今まで僕は勿体無い事をしてきたものだ。だが吉乃、覚悟をしておけよ。今はこうやって頬に触れるだけで我慢してやるが近いうちにお前の全てを手に入れてやるからな。



 と言ったものの、その後両親に吉乃を娶るつもりだと告げると認めてほしければ次期当主としての力量を世に知らしめろと言われてしまった。つまりは妻の実家の力など必要としない甲斐性を見せろという訳か。全く面倒で厄介極まりなたい事だが仕方がない、もう僕には吉乃を手放すなどという選択肢はないのだからその条件も飲まねばならないのだろう。

 だがついこの間に母から言われた事は未だに納得がいかない。


『周りの地固めが終わるまで吉乃さんへの過度の接触は許しませんからね』

『はあ?何故そんな事まで言われなければならないのですか』

『あら、だって今の忠之さんてば涎を垂らした猪にしか見えませんもの、鎖で繋がなくては吉乃さんの貞操が危ないじゃない』

『結婚するのだから構わないでしょうが』

『駄目よ、私達が出した条件はそんな簡単な事ではないのよ。あなたが挫折した場合はもっと素敵な男性の所に吉乃さんを嫁がせるんだから簡単に手を出さないで頂戴』


 全く我が子に対して何て言い草だ。そんな勝手な制約など守る気はなかったが、今は少しでも敵を作らない方が得策であるし特に母の機嫌を損ねるのは色々とまずいのは予想に難くない。

 確かに今の僕は一度吉乃に逃げられそうになった事実もあり、おそらく少しでも箍が外れたら吉乃を孕むまで部屋から出さないかもしれないな。そんな目にあわせるのは僕の本意ではないし、吉乃も幸せとはいえないだろう。


 仕方ない、しばらくの間は'優しい忠之さん'のままでいてやるか。

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