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彼の事情

 ――なんだこの愛らしい生き物は。

 もう怒ってないと言っているのに、絶対に離すまいと僕の背中に回した手でギュッと上衣を掴んでいる姿は抱き返したくとも訳あってまだ抱き返してやれない僕の理性を試しているとしか思えん。しかも、油断すると不埒に動きそうな手を叱咤しなんとかこの艶やかな黒髪に手を滑らすのみで耐えている僕を嘲笑うかのように吉乃は自分の顔を僕の胸に押し付けてくるではないか。その様子にむしろ憎らしくすら感じてしまうのも仕方のない事だろう。

 お前の顔が見たいと言っているのに全くしょうがない奴だ。そんな風に安易に男を煽るような真似をしおって……これはお仕置きの必要があるな?他の男の前など言語道断だが僕の前だけならいくら泣いたって良いんだからな。いやむしろ、めいっぱい泣かせてその泣き顔を堪能するのもまた良いだろう。クククッ、今はまだ我慢するしかないが、その時が来たらどうやってお前を泣かせてやろうか。

 …………おいそこでニヤニヤしている馬鹿者(克己の奴)め。お前は後で本当の仕置きをしてやるから覚悟しておくんだな。



 吉乃―――この名を呼ぶのに僕がどれだけの愛おしさをのせているか、お前は気付いているだろうか。


 あの日、突然僕の目の前に現れたみすぼらしい女にここまで心を奪われるなんて思いもしなかった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「あの……本当に、よろしいんですか?」

「ああ勿論だ。元はと言えば此方が悪いんだから気にする事はないよ。記憶が戻るまでウチで暮らすと良い」


 化粧もせず髪の毛は無造作にひとつに纏め、とても妙齢の女性が着るものとは思えないまるで農夫のようなみすぼらしい衣服を着た女。それが僕が最初に抱いた吉乃の印象だった。

 どこの田舎から来たのかは知らないがあまりお近づきになりたい人種ではないのは確かだったが、突然フラッとウチの自動車の前に出てきたとは言え避けきれずに当たってしまったのは間違いなくこちらの手落ちだ。よって、それ相応の補償はしてやらねばならない。


「ありがとうございます……」


 だからと言って、こんなどこの馬の骨とも知れぬ者を神田家の屋敷に住まわすだなんて他の者が聞いたら僕の気が触れたとしか思わないだろう。実際、弟の和之は猛反対し吉乃に向かって言える限りの暴言を吐いていたな。使用人達も表立っては何も言わなかったが皆一様に顔をしかめていたと記憶している。ただ、両親は共に「そう(か)」と言うだけで反対も何もしなかった。あの底知れぬ二人の考えなど窺い知れぬが、今となればあの人達が(主に母だが)黙認してくれたお陰で和之も黙るしかなくなり、現在こうして吉乃の居場所ができたわけだが。


「でも、どうして……?」


 それは今でも答えようがないな。あえて言うならその日はたしか珍しく会議が時間通りに終わった事で僕の機嫌が少しばかり良かったからだろうか。まあはっきり言って気まぐれとしか言いようがないな。つまらない日々に飽きていたんだろう。

 神田財閥の次期当主という肩書ははたから見ればそれは大きな蜜と重圧を含んだものだろうが僕にとっては何の旨みもないし重圧なんぞ感じた事はなかった。仕事はそれなりに面白いがそれだけだ、所詮父が一代でここまで大きくした新興財閥でしかないのを自動的に長男の僕が必死に守っていく必要性が感じられなかった。別に僕じゃなくても弟の和之でも良いし、更に言えば親族じゃなくても他の優秀な人間を当主に据えたとしても傘下の会社や従業員には何の問題もないわけだしな。

 辟易とした毎日を送る僕の前に突如現れたこの田舎くさい女を手元に置いてどうこうしようとか何も考えてはいなかった。和之の言う通り数多いる敵の間者かもしれんし、ただ単に神田財閥の蜜に群がる馬鹿な女なだけかもしれない。前者ならこんな女を寄越す時点で大した敵ではない、たまたま僕の気まぐれで屋敷に入れたが普通はどう考えても適当な金を渡して警察に引き渡して終わりだ。こんな悪手を出す敵など相手にもならない。後者にいたってはこの女が僕に少しでも媚を売るような真似をした時点で叩き出してやれば良い。どちらにせよ多少の暇潰し位にはなるだろうという気持ちでいた。

 ……クク、まさか優しげな仮面の下でこんなことを考えていたなんて吉乃は知らないだろうな。だが確かに当時の僕にとって吉乃の存在はそれだけのものでしかなかったんだ。



「わからない……ですか?」

「ああ、あちこち手を尽くしてみたんだが吉乃さんの家族や住所の情報が見つからないんだよ」

「そ、そうですか……あ、あの、お手数おかけして申し訳ありません……」


 僕の中で吉乃の存在が米粒ほどだが形作られたのはこの時が初めてだろう。

 ウチの優秀な隠密に探らせても全く見つからない吉乃という女の素性に疑問は抱いたがそれなりの人物なりが後ろについていればそれも可能性は低いがない話ではない、だがそれを聞いた吉乃の反応があまりに素人過ぎて嘘をついているのが丸わかりだったのだ。本人はシラを切ってるつもりのようだが調べてもわからないに決まっていると表情と態度が如実に語っていた。

 吉乃ひとりの計画だとしたらウチの隠密に調べられない訳がない、と言ってウチの隠密にも情報を掴ませないほどの大物から派遣された間者にしては出来が悪すぎる。捨て駒にするつもりかもしれんがここまでのズブの素人を使っていれば下手をすれば僕に逆襲される恐れもあるのだからそれも考えにくい。

 どうも吉乃という人間に関してしっくりする答えが出てこないのには流石に気持ちが落ち着かなかった。



「忠之さん、いってらしゃい」

「ああ、行ってくるよ吉乃、僕が帰るまでいい子で待ってるんだよ」

「はい……」


 善人の仮面を被った僕にすっかり騙されている吉乃の目は案の定僕に好意を伝えてくる。自分で言うのもなんだが神田財閥の名前がなくても僕のこの容姿にすり寄ってくる女は後を絶たない。だからあえて大袈裟に甘やかす僕の態度に触れて、吉乃がこちらに好意を向けてくるようになったのは想定の範囲内だ。吉乃が何者か未だ掴めないが、どちらにせよ僕に惚れさせとけば後々の処遇も扱い易くなるとの思惑からの行動だった。

 しかし想定外な事もあり、それには僕も困惑させられた。まず、決して吉乃は自分からは僕に近付いては来ないのだ。媚のひとつでも売ってこれば更に油断させて本当の事を白状させてやる自信はあったのに、常に一歩下がった距離を保っているものだからこちらから先手を打ちにくい。それでも隠れて家捜しでもするのかと思いきや、いくら見張っていてもそんな気配は微塵も見せないのだ。

 何を考えているのかさっぱりわからない。もしや本当にただの記憶喪失者なのか?とも考えたがやはり吉乃の態度からは何かを隠しているのは確かなのだ。

 そんなある日、吉乃が厨房を使いたいと言い出した。自分から何かをしたいと発信してくるのは初めての事だったから勿論僕は表面上は快く了承をして、使用人達に厳しく監視するよう命令したのだが、その後の報告に僕は更に頭を悩ませる事となってしまった。吉乃は厨房の使い方を全くと言って良いほど把握しておらず一から人に教えてもらわなければならない有り様だったそうだ。なのに、包丁の扱いや味付けなどは驚くほど手際が良いと聞いた時にはその整合性のなさに疑問は益々膨れ上がった。



「今晩は付き合いで飲んでくる予定だから大分遅くなるな」

「……そうなんですか、お体に気を付けて下さいね」

「ああ、ありがとう」


 今更'優しい忠之さん'の仮面を外す事もできず、なのに一向に距離を縮めてこない吉乃の態度にもしや吉乃は素人なんかではなく逆に凄腕の間者なのではないかとすら思い始めてきた僕はそろそろ彼女の存在をもて余すようになっていた。

 その頃、というか始めからなのだが吉乃の存在は屋敷内だけの秘密にしており当然外出はおろか来客との接触をも禁止していた。それは勿論吉乃の素性がはっきりしていないからであったのだが、やはり人の口には戸は建てられぬようで世間に神田忠之が囲っている女の噂が語られるようになっていた。

 さる華族のご落胤だ?妖艶な美女だと!?ハッ!なんだそのあり得ない噂は。そんなもの一体何処にいると言うんだっ、まさかそれがあの吉乃の事だとでも言うのか?あいつのどこが妖艶な美女だ、と………んっ?…………むむっ!?


 …………お前は誰だ?




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