04 剣と王女
「……以上の経緯で、ロズグラシア王国はランカネル王国から独立したのです。地図のランカネル王都はランカナートですが、これは現在のレネートモンド王国の都、レンナートと同じ街です。そしてロズグラシア独立運動時に大本営が置かれた場所が、この王都ローアイズなのです。ここまではよろしいですか」
暖かな日差しが差し込む中、ヘイゼルが尋ねる。ええ、と眠たそうなルシーナが答える。彼女は教科書として使っている本を開き、そのページの地図を見ていた。ロズグラシア王国成立当時の地図だ。周辺国も少し載っている。
「たしか、現国王のダグラス陛下もレネートモンド出身でいらっしゃるのでしょう?」
ルシーナが尋ねた。おっしゃる通りです、とヘイゼルが返す。
「かつては敵対した両王国の友好の象徴として、ダグラス陛下はレネートモンドよりこの国へいらっしゃいました。国交は戦後まもなくからありましたが、レネートモンドのロズグラシア独立認可条約への署名は結ばれていませんでした。ダグラス陛下と今は亡き王后陛下が結婚される際、正式にレネートモンドがこの国を認可したのです」
ふうん、とあまり興味なさそうにルシーナは呟いた。
ルシーナは、昨夜見た夢のことを考えていた。近衛兵の訓練を見る夢だった。なので、今日はもしかしたら座学ではないのかもしれないと期待していた。だが相変わらず部屋にこもっての授業だ。
「なによ、こんなもの……」
先見の力など、たいしたものではないのに周りの者が騒ぎ立てる。そのせいでこんな目に合っているというのに。
「ルシーナ様。座学を好まれないのは承知しております。しかし、この国の歴史くらいは王族である以上は知っておかなければならないことをどうかご理解ください」
困ったようにヘイゼルが言う。ヘイゼルはルシーナの言葉を誤解したようだった。訂正するのも億劫に感じられ、ルシーナは何も言わなかった。
街で小さい頃から働いていたルシーナには、座って何かを学ぶという習慣が身についてない。ほとんどが肉体労働だったからだ。文字は必要なかった。三歳までは修道院にいたそうだが、あまり記憶にはない。宗教学で使われる物語のあらすじを知っている程度だ。しかし、王族ともなれば母国語はもちろんのこと、外国語は少なくとも数か国語を喋れなければならない。さらに彼女には歌やダンスや趣味の部類に至るものまで習得させる必要があった。
「義務だとは分かってるけど、こんなことしなくても生きていけるじゃない。どうして貴族はこんなことしなきゃいけないの?お金もかかるし、面倒くさいし。自分が好きなことでもないのに」
すっかり困った顔をして、ヘイゼルは本を机に置いた。
「どうしてとおっしゃいましても、それがずっと昔から続いてきたのです。あなたお一人だけがどうにかできるものでもありません。どうか私にそんな意地悪をおっしゃらないでください」
そしてヘイゼルはルシーナの目の前に広げてある数冊の本を全て閉じた。驚いているルシーナの顔を見る。
「でしたら、少し息抜きをしましょう。近衛兵の訓練でもご覧になりますか。彼らもルシーナ様がいらっしゃれば、訓練に精が出ましょう」
ほんと、とルシーナが嬉しそうに言う。先ほどまでの倦怠感が嘘のようだ。
「聞いてヘイゼル!昨夜、近衛兵の訓練を見学する夢を見たの」
ヘイゼルが驚く。そして、眉間にしわを寄せた。
「では、私はうまく騙されたということでしょうか。お勉強をしないために、私がそうお誘い申し上げるのを待っていらっしゃったのですか」
ルシーナはむっとした。
「期待してなかったわけじゃないわ。でも、そんなに卑屈にならなくたっていいじゃない!言いだしたのはあなたよ。さあ、早く着替えを持ってきて!」
「なぜです」
「だってドレスが汚れるじゃない」
ヘイゼルは頭を抱えた。
「まさか、ご自分も訓練に参加なさるおつもりですか。そのような夢をご覧になったのですか」
「これはただの思いつき。身体を動かして気分転換するってことなんでしょ」
違います、とヘイゼルはきっぱりと言った。なにが、とルシーナが返す。
「私が申し上げたのは視察です。あなたに訓練に参加していただくなど無理な話です。まず、アルモンド様たちがお許しになりません」
「聞いてみないと分からないわ。聞いてきてよ、早く」
「アルモンド様はただいま、政務の最中でございます。いくらルシーナ様でも無理でございます」
ここまで言うと、さすがにルシーナは諦めた。ヘイゼルはほっとしたのを気づかれないようにした。アルモンドが政務の最中というのは嘘だ。この時間はちょうど、短い休憩がある。アルモンドたちにルシーナがお願いをすれば、あの甘やかし王子たちは拒みはしないだろう。万一王女が怪我でもしたら、ヘイゼルの責任になってしまう。
一時間ほど後、近衛兵第三連隊の練兵場にはルシーナとヘイゼルの姿があった。ルシーナは嬉々とした様子で訓練を見ている。ここにいるのは連隊のうちの二個小隊だった。五〇人ほどが指揮官のもと、剣術の訓練をしている。兵たちは突然の隊長と王女の視察に驚いていたようだったが、いつにもまして気合が入っているようだった。掛け声と金属のぶつかり合う音がする。
ルシーナは目の前の訓練に見入っていた。
「ねえ、毎日訓練しているの?」
彼女がヘイゼルに尋ねた。何を当たり前のことを、とでも言いたげな目つきをしてヘイゼルは答えた。
「そうです。何があるとも分からぬ時です。あなたの身をお守りするため、こうして日々鍛錬しているのです」
本当はアルモンドを守る仕事のはずだったが。王女づきであっても名誉は名誉に違いない。それでもどこか納得できていない自分自身にヘイゼルは腹が立ってきた。
「ねえ、あれ、私もやってみたいわ」
ルシーナが指さす先を見て、ヘイゼルは変な声を出した。そして、むせる。
「いけません!来るときもそう申し上げたではありませんか。お召し物が汚れてしまいます。万一お守りするべきあなたに怪我をさせたとあっては、この連隊がどうなるかご存知のうえでのお言葉ですか」
ルシーナは不服そうだったが、ヘイゼルの言うことが分からないわけではない。すぐに諦めた。しかし、ただ見ているだけというのも彼女には退屈なようだった。
「ねえ、ヘイゼル」
「なんでしょう」
「私は訓練に参加しちゃいけないんでしょう。だったら、あなたが訓練に参加してきて」
ルシーナが訓練している兵たちを指差す。なぜですとヘイゼルは尋ねた。
「だって、あなた前に身体を動かしたいって言ってたじゃない。それに、私を守ってくれる人たちの隊長さんがどれくらい強いのか知りたいわ。私の身の安全に関係することだし、そう思うのは当然じゃないかしら」
ヘイゼルが返答につまる。じっと彼の顔を見たままのルシーナを見ていると、これくらいの頼みごとを聞けないのは申し訳なくも思えてくる。
彼は近くにいた副隊長に命じ、訓練用の剣を持ってこさせた。ヘイゼルが拒否しないことが分かり、ルシーナの表情が明るくなった。
「ねえ、あなたの相手は私が決めてもいいかしら」
無邪気に尋ねる。構わないですよとヘイゼルは答えた。
「誰に相手してもらおうかしら」
そう言ってルシーナは兵たちの顔を見る。
「全員というのはいかがですかな」
近くで二人のやり取りを聞いていた小隊長が言う。なにを馬鹿なことを、とヘイゼルはあしらう。
「それ、いいわね!」
「え!?」
ルシーナが興奮しきった様子で言う。ヘイゼルは悲鳴に近い声をあげた。
「おい、モルトン少尉。取り消せ」
ヘイゼルが小隊長に向かって言う。小隊長は整えてある口ひげを撫でた。
「取り消してもいいのですが、ご覧下さい、この兵たちの張り切った表情を。隊長はここしばらくの間、内親王殿下につきっきりでいらっしゃいました。それがいけないこととは申しません。しかし、せっかく殿下がこのように機会をつくってくださったのです。どうか兵たちの相手をしてやってはいただけませんか。皆、隊長と訓練するのを楽しみにしておりました」
困ったような表情でヘイゼルはルシーナを振り返った。彼女は微笑んでいるだけだ。
「ほんとうに全員とおっしゃるのですか」
ヘイゼルがおそるおそる尋ねる。ええ、とルシーナは簡単に答えた。
「どうしても無理ならいいのよ。ただ、その程度のひとが護衛なんだーって思うだけ」
その言葉にヘイゼルは拳を握った。そして不敵に笑う。
「いいですよ、全員を相手にやりましょう。モルトン少尉、殿下を頼む」
そう言い残し、彼は剣に手をかけた。
「一人ずつなどとは言わない、まとめて全員かかってこい!」