02 王女と公爵
馬車から鉄道に乗り移り、再び馬車に乗って王宮に到着したのは明け方近くだった。ルシーナはすっかり眠っていた。肩をつつき起こされ、眠たげに彼女は身体を起こした。だが、半分閉じかけていた目も一瞬で見開かれた。
「ここが王宮……」
広い庭がある。木々のせいで正門が見えない。白い壁が朝日に照らされ、うす赤く色づいている。重厚なつくりだ。一番東と西の塔には黄金の鐘がぶら下がっている。東の金が、朝日を反射する。まぶしい光が空へ帰る。
朝早いせいか、人は衛兵しかいない。兄王子たちに両側に立たれ、彼女は中に連れて行かれた。自分の着ている服があまりに地味に思えた。城内に入ると女官たちに風呂場へ直行させられ、窮屈な黄緑のドレスを着せられた。そしてひとまず、アルモンドの部屋へ通された。そこにはアルモンドとイライアスがいた。ドレスを着せられ、雰囲気の変わったルシーナを見て、イライアスが顎に手を当てて呟いた。
「馬子にも衣装、か?」
「兄上、似合っていると素直におっしゃってくださいよ。可愛いよ、ルシーナ。勝手に作らせたドレスだけれど、よく似合っている。サイズがちょうどぴったりのようで良かった。もし合わなければ、すぐに作り直させようと思っていたんだ」
ありがとうございます、と礼を述べ、彼女は恐縮した。こんな服、着たことがない。遠い誰かが着ていて、絵のなかにしか存在しないのではないかとも思っていた。
「ルシーナ様。今日一日はお休みください。明日、ダグラス国王に謁見していただきます。お父君にご挨拶ください。他の貴族たちへのご挨拶はまだ未定ですが、すぐに準備を整えてまいります」
ヘイゼルが淡々と述べた。ダグラス国王と聞いた瞬間、彼女が一気に青ざめる。すると、彼女の肩にアルモンドが手を置いた。
「心配しなくていい。私たちも一緒に行くよ」
その言葉を聞き、ほっとしたようにルシーナが胸を撫で下ろす。その時、後ろから声がした。
「兄上方、こちらでしたか。お探ししました」
金の髪を掻きながら、青い目の大きな愛嬌のある男性が立っていた。ルシーナに気付き、きょとんとする。アルモンドが耳打ちした。ただでさえ大きな目が、ますます大きくなる。
「ええ!ルシーナ!?ほんとに!わあ、会いたかったよ、妹よ。僕はエリオット・ロズグラシア。君よりは三つ年上だね」
彼はこの国の第三王位継承者だった。改めて挨拶をし、ルシーナは彼を見た。だんだんと実感がわかなくなってくる。本当にここにいていいのだろうか。手違いで連れてこられたなんてことはないだろうか。ルシーナなんて名前、この国ではそう珍しいものでもないのだから。
イライアスたち三人は、ルシーナに聞こえないよう何かを話していた。することがなく、ルシーナは部屋を見ていた。壁は本で埋まっていた。ルシーナは少ししか文字が読めない。ベンソン夫妻は文字が読めず、教えてもらうことはできなかった。たまに近所の友達に習ったが、あまり覚えていない。自分の名前くらいは書けるようにしようと思ったが、覚えるまでに随分時間がかかったため、他の文字は諦めたのだ。それに、文字が読めないことは珍しくもない。
ぼうっと考えていると、三人はすでに話し終えていたようでルシーナを見ていた。いつの間にかヘイゼルも戸口に立っていた。恥ずかしい気持ちを隠しながら、再び彼女は本を見て言った。
「すごい本ですね。たくさんあるけど、どんな本なんですか」
一冊の分厚い緑の本を手に取り、彼女は尋ねた。アルモンドが彼女の隣に来た。
「これはずっと東方の国のことを記してある探検記だ。この作者がロズグラシアに立ち寄ったとき、話を聞いてね。東方の国に興味を持ったから本を揃えたんだ。ルシーナは文字が読めないそうだけど、読み書きの教育は必ず受けてもらうからね。読めるようになったら貸してあげよう」
ルシーナは呆気にとられてアルモンドの話を聞いていた。するとイライアスが口を開いた。
「さて、重要な問題だ。ルシーナ。今日からは王族に相応しい言動をすべく、特訓をしてもらう。教育係はヘイゼル、お前だ」
「ええ!?」
ルシーナとヘイゼルの二人が同時に声を上げる。不満か、とイライアスが尋ねた。
「だって、今日は休んでいいって……」
「お待ちくださいイライアス様。それではアルモンド様の警護ができません」
イライアスは黙って二人の言葉を聞いた。
「ルシーナ、お前には休みがてらでも勉強してもらう。それからヘイゼル。命令だ。護衛も兼ねてルシーナの教育係を務めるように。アルモンドも了承済みだし、その間の警護は他の者に頼んだ」
「そんな……」
またしても二人の声が重なる。
「まあ、せいぜい精進するがよい、二人とも。明日には陛下への謁見も控えているし、言葉遣いや立ち振る舞いは少しでも正しておけ」
イライアスはそれだけ言うと、部屋から出て行った。
「なら、僕も仕事へ行こうかな」
エリオットも席を外した。それなら私も、とアルモンドまで部屋を出ようとする。それをヘイゼルが呼び止めた。
「アルモンド様。失礼ながら、私は本日、近衛隊第三連隊の訓練の指揮をとる予定です。訓練はもうすぐ始まってしまうので、練兵場に向かわねばならないのですが」
構わないよとアルモンドが言った。
「第三連隊は当面の間、ルシーナ王女の護衛に回ってもらう。私の警護は別の隊に頼んである。第三連隊の副隊長には伝えてあるし、今頃連隊の者は知っているだろう。今日の訓練も副隊長が務めるようにと命じてある」
返す言葉がなく、ヘイゼルが口をぱくぱくさせる。酸欠の魚のようだ。
「では、私たちの妹姫を頼んだよ。部屋は以前指示したところを使えばいい」
ばたんと扉が閉まった。ヘイゼルの伸ばしかけた手が力なく下がる。そして彼は赤い目でにらむようにルシーナを振り返った。だが、それも一瞬のことだ。諦めたように小さくため息をつくと、静かに跪いた。
「僭越ながら、本日を持って殿下にお仕えいたします、公爵ヘイゼル・クランバートと申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
「あ、こ、こちらこそ!」
流れるような動作に思わず見とれていたルシーナは、焦って返答した。赤い瞳と目が合う。ふとルシーナは疑問に思った。多くの人が青や緑の目をしている。赤い目は外国にも聞いたことがない。そんな彼女の胸の内を見透かしたのか、ヘイゼルは微笑んだ。
「クランバート家にはかなりの確率で赤い目の者が生まれるのです。なぜだかは分かりませんが、我が家系では珍しいものではありません。初めてご覧になったらびっくりなされるでしょうが」
「そうなんですか。綺麗だと思って」
ルシーナの答えに、彼は少し驚いた顔をした。唇を噛み、視線を逸らす。何かまずいことを言ったか、と彼女は心配したが、ヘイゼルの頬に少し赤味が差していた。
「殿下……褒めても、私のこれからの特訓は易しくなりませんからね」
立ち上がった彼がルシーナを見つめて言う。
「特訓?」
「お忘れですか。明日の謁見に間に合うよう、ともかく口上を丸暗記していただきます。それから歩き方、礼のしかた、宮廷作法、覚えることはいろいろあります!」
ルシーナが扉との距離を確認した。走って逃げられないだろうか。だがヘイゼルは簡単に彼女の考えに気付いたようだ。
「逃げようなどとお考えくださいますな。王宮を熟知した私の方がいつでも上手に参れます。なんなら試してもようございます。さあ、部屋へご案内いたします」
彼女を引きずってでも行きそうなヘイゼルに、彼女は出来る限りの作り笑顔を向けた。
「あの、でも私も少し疲れてますし……ほら、あなただって疲れてるんじゃないですか?だいたい説明が不十分です。私にとってここは知らない人だらけだし、いきなり家族と離しておいて何なんですか!私のことなんて人形くらいにしか思っていないんじゃないですか。先見の力が政治や戦争に必要だからって、それって必要なのは私じゃなくてその力ってことでしょう。勝手に引っ張り出して、大変な思いをするのは私一人!それでも貴族なの?私は別に豪華な服を着たいとか、ぜいたくな生活をしたいとか思っていないの。ただ、毎日普通に過ごしたいだけなの!」
勢いづいたのか、彼女は早口で喋った。ヘイゼルが困ったように視線を向ける。そしてきわめて冷淡な口調で言った。
「今更無駄なことですよ。私がお話した経緯が全てです。それに、大変な思いをしているのはあなた一人ではありません。兄上様方はあなたの存在を知って以来、なんとか居場所を突き止めようと三年の間、尽力していらっしゃいました。あなたを一人の家族としてずっと探しておいででした。それは近くにいた私がよく知っています。軍の諜報部も動きました。多くの方が、あなたが宮廷に戻っていらっしゃる日を楽しみにしていたのです。それに、今まで育てていただいていたベンソン夫妻には改めて国から謝礼もします。あなたが望むなら、もう少しして会いに行かれることもできるでしょう」
ほんとに、とルシーナは目を輝かせた。ええ、とヘイゼルが微笑む。
「大変な思いは私だってしているんですよ。あなたの教育係に任じられ、訓練に参加できない、馬に乗れない……アルモンド様からこんな命令を下される日が来ようとは!」
だんだんと頭を抱え始めるヘイゼルの顔色をルシーナがうかがう。
「ですから、おとなしく申しあげることをお聞きくださいますね?」
彼の声にははいとしか言いようのない色があった。ルシーナの心拍数が一気に上がる。
まずい。これは思っていた上流階級の生活と全く違う。かと言って逃げ場はないし……。
彼女はひたすら考えていた。だが、もう諦めるしかない。目の前には悔しそうな悲しそうな表情をしたヘイゼルがルシーナを見ている。がっくりとうなだれ、彼女はヘイゼルに従うことにした。
そして昼前から、ヘイゼルによる猛特訓が始まった。雰囲気は互いに非常に暗い。
「こんなの……どっちにとっても良いことないじゃない」
「言葉遣いを丁寧になさってください!」
ルシーナの呟きに、ヘイゼルが指摘をする。うんざりした顔でルシーナが謝った。思わずため息が漏れてしまう。今頃、ロンデニアの家族はどうしているのだろうか。窓の外に目を向けても、揺れる木々が見えるだけだった。