カラスウリ
鈍色の大地が果てしなく続く。そこから立ち上る濁ったガスが、大気を乾きかけた血の色に染めていた。
俺は抱え上げた小さな体を揺らさないよう気をつけながら、辛うじて形を留める古びた椅子を跨いだ。他の物体がことごとく原型をとどめていない中で、それだけがやけにリアルに、嘗てここで確かに築かれていただろう、人間の文明の名残を感じさせた。
腕の中で、カラスウリが身じろいだ。カラスウリを包み込んだ古びた布をとおして、ぱりぱりと乾いた音がする。カラスウリの体から咲いた花が、崩れる音だ。俺はカラスウリの耳元で囁いた。
「もう少しだ。もう少しだけ我慢してくれ」
カラスウリは小さく頷いたようだった。もとは鉄屑だったのだろう残骸を蹴り飛ばし、踏み砕いて、俺は足を速める。もうカラスウリはながくはもたない。目の前がゆらゆら揺れるのは、地面から立ち上るガスのせいばかりじゃない。喉を塞ぐのは、渇きのせいばかりじゃない。だが、俺が泣いてもカラスウリは喜ばないし、むしろ困らせるだけだ。だから俺はただ先を急いだ。
赤黒い大気の分厚い幕が薄まったのは、それから無言で一時間程歩いた後だった。足元の砂は大分きめ細かくなっていて、汚染域から抜けだしつつあることを示している。鼻をつく酸の臭いの中に、微かだが新鮮な空気の冷たい甘さが混じる。
「――イオリ……」
カラスウリが呟いた。弱々しい声に、驚きが混じっている。久しぶりに聞いた、カラスウリの感情が籠った声だ。俺はああ、と答えながら、殆ど走り出していた。振動がカラスウリの苦になるかもしれない、と少し気になったが、それよりも早くこの汚れた場所から出たかった。
靄は唐突に晴れた。強い風が俺達の周りから塵とガスと、死の臭いを吹き散らす。じゃり、と足元の砂が鳴って、俺達は眩しい空の下にいた。俺はなおも少し歩いてから、地面に座り込んだ。数時間カラスウリを抱いていた腕は、正直に言えばもう限界だったが、俺はカラスウリを離す気にはならなかった。
カラスウリの頭を肩にもたせかかるようにして顔を近付けると、カラスウリが目をぱちりと開いた。そのやせ細った頬に、また一つ、花が咲いた。星型の花弁を広げ、さらにその縁が繊細な糸のように重なり、絡まり合って延びていく。それは残り少ないカラスウリの命をあらわしたかのように、小さく、儚く、すぐにぱらぱらと崩れた。
「ほら、カラスウリ、空だよ」
言いながら俺は上空を見上げた。俺の動きにつられたように、ぼんやりとカラスウリが視線をあげた。その顔を見やり、俺はああ、と思う。こうして明るい光の中で見れば、カラスウリの瞳は鮮やかに赤い。まるでその名のとおり、カラスウリの実のように。
カラスウリの唇が小さく動いた。ソ、ラ――。まるで慣れないおもちゃをいじる子どもみたいに、たどたどしく、無垢に。
「イオリ、目を見せて」
言いながら、カラスウリが腕をあげた。咲いては散る花を纏わせて、その折れそうに細い腕を。冷たい指先が俺の頬に触れて、優しく辿っていく。
俺は無言で顔の上半分を覆うゴーグルをはぎ取った。途端にぽつりと落ちた滴に、カラスウリが仕方ないなあ、というように笑った。見慣れた微笑みに、俺はもう我慢が出来なかった。子どもみたいに泣きながら、カラスウリのあまりにも軽い体を抱き締める。
「そ、ら――は、イオリの瞳の色と同じ……だね」
頬を撫でていた指が、風に乱れた俺の髪に伸ばされる。
「イオリ、ありがとう。私は幸せだった……」
そんなのは嘘だ。俺はその言葉を呑み込む。カラスウリにとっては、真実なのかもしれない。人に作られ、利用され、大地を覆う毒を浄化するためだけに汚染区域にただ一人追いやられた、短い生涯。カラスウリが知っているのは、自分を作った人間と、誰も近付こうとしないこの場所だけなのだ。
「イオリが来てくれて、この名前をくれて、空を見せてくれた……」
だから幸せ、と。まるで幼子に言い聞かせるように、繰り返す。
「……ねえ、最後にお願い。キス、したいな」
泣いてぐずぐずになった情けない俺に、カラスウリが言う。まるで子どもみたいに小さくなってしまったカラスウリの顔には、艶やかな笑みがあった。こめかみに、またも花が咲き、結晶化してぱらぱらと崩れる。それが、えも言われぬほど綺麗で、俺は小さく息を呑んだ。
ゆっくりと顔を近付けて、カラスウリにくちづける。カラスウリの唇は渇いて冷たく、まるで陶器みたいだった。
それが最期だった。
唇をそっと離すと、カラスウリの瞳は既に閉ざされていた。がくんとカラスウリの頭が傾いで、首が力なくのけぞる。その肌の表面がざわつくと、限界まで毒素を取り込んだカラスウリの全身から、一斉に花弁が弾けた。花は幾重にもカラスウリの体を包み、繊細な糸のような触手を伸ばし、そして先からさらさらと崩れる。何度も何度もそれを繰り返して、やがてカラスウリという存在そのものが、俺の腕の中で消えていった。残ったのは、カラスウリの体を包んでいた、古ぼけた布切れ一枚だけだった。
涙の筋に、頬が引き攣れる。カラスウリが残した指先の感触だけが、鮮やかだった。俺は上空を見上げた。雲一つない、見つめれば深淵に引き込まれるような心地になる碧空が、どこまでも広がっていた。
この世界は壊れ続けている。何時から、なんて記憶はないから、俺が生まれた時には既に壊れていて、今もなおゆっくりと崩壊を続けている。それでも別に世界が滅んだわけじゃないし、この先も滅ぶわけじゃないだろう。人間はやはり生きて地上の主として君臨しているし、動物も植物も、生息域を大きく奪われてはいても、やはり存在している。
俺の知識は、生きてきた年数に比べれば心許ないほど少ないが、それでも大方の人間よりも世界の形が見えているのだろうとは思う。俺がその記憶の殆どはじめから続けていること、それはこの世界を放浪することだ。人間が住む場所に立ち寄ることもあるが、その多くは固いシェルターや壁に囲まれていて、俺が潜り込むのは些か難しい。それに加え、長く人間のもとに留まれば、いずれ俺の体がもたなくなるし、そうなれば俺がどういう生き物なのかが人間に知られる危険もある。そのため、俺が渡り歩くのは人間が生きることが出来ない汚染区域ばかりだ。
嘗て人間は巨大な文明を築いていたというが、それは嘘ではないだろう。地上の半分を覆う汚染区域には、確かに嘗て人間が住んでいただろう形跡がある。それがどのようにして壊れたかは俺もよくは知らないが、大方人間自身が壊したのだろうと、これは今の人間の有様を見ていればおのずとわかる。
汚染区域に住むことは不可能だが、嘗て程ではなくてもやはり人間は繁栄している。そして人間はこの世界を諦めてはいない。自らを脅かす汚染区域を減らすため、人間はカラスウリのような者達を作り出した。
大地にしみ込み、大気を汚染する毒素を吸収し分解する生き物。人間が彼らをどのように呼ぶかは様々だが、同じ人として見てはいないだろうことは明らかで、彼らの多くは作られてから必要最低限の知識しか与えられず、汚染区域へと放り込まれる。あとは体に毒素を取り込んで浄化し、体が限界を迎えれば命を終える。
彼らはカラスウリのように人間と同じような姿をしていることもあれば、四本足の獣のような姿をしていることもある。時には意思も何もない単なる肉の塊みたいなものもあるが、多くは自由に動ける姿だ。その方が不安定に移動する毒素を追って動くことが出来るという意図なのだろう、と俺は思っている。
人の姿が多いのは、人間と同じように意思持つ存在を獣の姿にするのはどうか、という人道的な見地から、とも言われているらしいが、それが果たして真実人道的なのかどうか、甚だ疑問だ。汚染区域を浄化するためだけに命を作り出している時点で人道的などではないし、そもそもこの世界で人道なるものは優先されるものでもない。それよりも、最低限の意思疎通を可能とするために、人語を話すことの出来る身体構造を選んだ、という説明の方が納得出来る。
どう美辞麗句を並べても、彼らは人間に作り出されたもの――使い捨てられる道具なのだ。
俺が出会った彼らの多くは、孤独で、従順で、そして薄命だ。彼らは決して人間に歯向かわないし、汚染区域を離れようともしない。前者は人間に作られたことによる刷り込みのせいであり、後者は単純に彼らの生きる糧が毒素だからだ。汚染区域を離れると、彼らは生きる糧を失い力尽きる。動物というよりも、陽の光と水がなければ生きていけない植物に似ているのかもしれない。毒素と水があれば、彼らは生きることが出来、実際、彼らは水分を補給する以外には、食べるという行為を必要としない場合が殆どだ。彼らの浄化の力は強いが、それ故に短命で、五年も生きられぬ者が多い。
カラスウリに初めて会ったのは三年程前で、まだ彼女に名前はなく、姿は幼い少女だった。暫くして再びこの地を訪れると、少女は美しい女になっていた。毒素を分解し結晶化して体外に排出する。その仕組みは彼らによくあるものだが、彼女のそれは並外れて美しいものだった。彼らの中には、毒素が全身を覆う腫瘍となって排出されるような者もいて、それは本人にとっても見ている者にとっても辛く苦しいものだ。
俺は彼女と再会して、この地に留まった。彼女に乞われたせいもあるが、確かに俺自身が彼女に惹かれたせいもあった。長く彷徨ってきて、そんな感覚は久しぶりのことだった。恋をするには俺は疲れ過ぎていたし、長く生き過ぎていたが、それでも短い生をひたむきに生きる彼女の傍にいることは喜びだった。
最低限のことしか話せなかった彼女に俺は言葉と文字を教えた。俺が教えられるのはそれぐらいしかなかったからだ。彼女は体の成長速度と同じように、知識の吸収もはやかった。俺が持っている数少ない本を読み始めるまでそう時間はかからなかった。その中でも彼女が特に気に入ったのが、古びて色あせた図鑑だった。そこに載っている花が、彼女が作り出す毒素を浄化した結晶に似ていると言って、無邪気に笑った。カラスウリと、その花の名で呼び出したのはほんのいたずら心からだったが、それが彼女を殊の外喜ばせた。
幸せとはこのようなものだったか、と。排出されるガスで空さえ見えない空間で、地中の穴の中カラスウリと二人身を寄せ合いながら、俺はそんなことを思った。
カラスウリが急速に衰えはじめたのは一月程前のことだ。それまではゆっくりと毒素を吸収し、花を咲かせていたが、ある日を境にそのサイクルがはやくなった。そして、カラスウリの体は急激に老いていった。それに気付いてカラスウリはどこか寂しそうに、限界かな、と呟いた。
限界――すなわち死だと、俺もカラスウリも十分過ぎるほど知っていた。
黙りこんだ俺にカラスウリは言った。空が見たい、と。
カラスウリが死んだ日、俺は汚染区域からほど近い場所で一夜を過ごした。星明かりの下浮かび上がる砂丘は、仄かに白く発光しているようだ。その中で、汚染区域はぽっかりと空間を呑み込んで、黒い炎のようにゆらりゆらりと揺らめいている。俺が訪れた多くの汚染区域と同じように、この場所も浄化されるまでには膨大な時間が必要とされるだろう。そして遠からずして、カラスウリの次に浄化の役目を担う者が送られる筈だ。
俺には、きっとこの地を再び訪れる勇気はない。もしかすると次に送られる者もカラスウリと同じ姿をし、同じ声で語り、同じ響きで笑うのかもしれない。そしてあまりにも短い命を呆気なく散らす。それを、再び傍らで見ることなど耐えられないだろう。
翌朝、俺はその地を去り難く、ぐずぐずと出立を延ばしていた。去ってしまえば、カラスウリとの思い出が過去の記憶へと変換されそうで、それが怖かった。我ながら情けないと思うが、別れを幾つ繰り返しても、この感覚に慣れることは出来なかった。
漸く旅立つことを決意して歩き出した時、俺はその物音に気付いた。このような場所ではまず聞くことがないと思っていた物音。人間がたてる音だ。すぐに頭にあげていたゴーグルをかぶり、顔の上半分を隠す。程なくして、一台のジープが土煙をたてて走って来た。かなりの旧式だが、よく整備されているのか、その走りは滑らかなものだ。方角的に、砂漠を越えた先にある街から来たのだろう。
どうしたものかと思いながらも、俺はその場に留まった。あまり人と接触するのはよくないとは思うが、好奇心の方が勝った。ジープは汚染区域のかなり手前で止まった。それ位離れていなければ、風向きが変わった場合あっという間に有害なガスに呑まれかねないからだ。俺が立つ位置からは三十メートル程離れていて、一段高い岩の上にいるせいかジープに乗っている人間が俺に気付いた様子はなかった。
ジープから降り立ったのは四十半ば程の女性だった。清潔な白い作業衣のようなものを羽織り、黒いパンツスーツがその下から覗いている。どうやら一人で運転してきたらしいが、このような場所に女性が単独で来ることは珍しい。理由は単純に危険だからだ。汚染区域の周囲に人は少ないとはいえ、全くいないわけではない。性質の悪い流れ者がいる場合もあって、そういう奴らに遭遇した時は命も危ない。実際、俺にも苦い経験の一つや二つはある。
女性はきびきびとした動作で車から離れると、真直ぐに汚染区域に向かって歩いて行く。俺はその後を追って行った。女性は立ち止ると、じっと汚染区域の暗がりを見つめていたが、不意に小さく頭を下げた。静かに佇む姿に、それが黙祷なのだろうとわかった。
ああそうか、と俺は思う。女性はカラスウリを作り出した研究者なのだろう。カラスウリが死ねばそれがわかるように、何かしらの仕掛けを彼女に施していたのだろう。
女性が再び顔をあげて踵を返す前に、勿論俺は立ち去ることも出来たが、そうしなかった。振り返った女性は初めて俺に気付き、ぎくりと体を強張らせた。さっと白い上着の中に手を伸ばすと、銃を取り出して俺へと向ける。俺は咄嗟に両手をあげた。見てくれは流れ者そのもので、盗賊と思われても仕方ないが、問答無用で撃たれるのは勘弁してもらいたい。
「あなたは誰。このような場所で何をしているの」
問われた声は硬く、滑らかな響きには知性が感じられる。問いかけは些か性急ではあったが。このような場所で女性が一人、怪しい男と対峙していれば、平常心を保てないのも無理はないだろう。
「単なる旅の者だ」
よくある公用語で助かったと思いながら、俺は用心深く答えた。
「ここは汚染区域に近過ぎます。面白半分に近付く場所ではないわ。早急に離れなさい」
警戒を崩さずに、しかし女性は諭す口調で言った。どうやらこちらをお遊びで危険な場所に近付く若造だと思っているらしい。俺はそれには答えず、逆に問い返した。
「あんたは、誰かを弔っていたのか?」
女性の肩が僅かに震える。動揺が顔にあらわれていた。それを見ながら、俺は必死に自制する。だが、言葉を止めることが出来なかった。
「彼女なら、昨日死んだ。全身に花を咲かせて、一瞬だった。跡形もなく消えてしまった。最期まで綺麗で、強かった」
驚きからか、女性が瞠目する。
「どういうこと? あなたはここにいた浄化者を知っているの?」
浄化者か。これはまた驚くほど捻りの無いネーミングだ。
もうやめろ、と内心の声が告げるのに、俺はさらに続ける。涙は枯れて、口調は自分でも驚くほどに平坦だったが、俺の中で何かの箍が外れたように、言葉がとめどなく零れ落ちていく。
「あんたらは、どうして彼女をあんなにも美しく作った。毒素を浄化するだけなら、別に花を咲かせる必要なんてない。使って捨てるだけの存在に、何故言葉を教えた。そんな風にして、何故孤独であることを知らしめた」
俺の言葉に女性は怪訝そうに瞬く。
「単なる道具として作ったくせに、何故黙祷を捧げる。何故、その死を悼む。そんなことをするくらいなら、はじめから作り出さなければいい」
まるで子どものような言い分だと自分でも思う。だが、言わずにはいられなかった。
「あんたらは残酷だな」
女性の腕がゆっくりとさがる。銃口が逸らされたことに安堵するよりも先に、俺は相手の傷ついたような表情に怒りを抱いていた。俺に、そんな怒りを感じる権利など、ないというのに。
「そう……あの子は、最期まで美しかったのね」
あの子、と囁くように言った言葉は、痛々しかった。
「あの子を作り出したのは私です。確かにただ浄化するだけなら、どんな形でもよかった。醜くてもよかった。でも、あの子は生きていた。それならば、せめて美しいものを教えてあげたかったの。あなたは美しいのだと、世界にはまだ美しいものも残っているのだと、伝えたかったのよ」
俺は虚を突かれて黙りこんだ。カラスウリから、彼女を作り出した研究者の話を聞いたことはない。総じて従順な彼らの中にも、自分を生み出した存在に対する憎しみや怒りを抱く者もいないわけではないが、カラスウリはむしろ作り出されたことを感謝しているような節さえあった。俺は、それが刷り込まれたものだと勝手に思い込んでいたが、そうではなかったのか。
「……でも、何を言っても私が残酷なことをしていることは変わらない。あなたが言う通りね。私があの子の死を悼む資格などないわね」
俺は耐えられずに視線を逸らした。自己嫌悪に、己を罵倒したくなる。多くを語らなかったカラスウリの沈黙の中に、この女性への愛情があったのかもしれない。俺の言葉はあまりにも浅薄で、己の鬱憤を込めただけのものだ。カラスウリとの思い出からはかけ離れて、歪で惨めで、ちっぽけな俺そのものだ。
「……そんなことはない。きっとカラスウリは喜ぶ」
気付けばぽつりと呟いていた。女性はまじまじと俺を見つめ、小さく笑った。それが、驚くほどカラスウリの微笑みに似ていることに気付き、俺は小さくはない衝撃を受けた。
「カラスウリ、と名乗っていたのね。あの子にぴったりね」
俺は顔を背けると、踵を返した。これ以上この場に留まれば、さらに情けない言葉を吐き出してしまいそうだった。
「待って! あなた、どこに行くの? そっちはまだ大きな汚染区域がいくつもあるから危険よ。行く場所がないなら、私が住んでいる街に来なさい」
どこまでも若造扱いの呼びかけに、俺は振り返る。
「言ったろう。俺は旅人だと。どこにでも行くさ」
女性は迷うように俺を見つめていたが、はっとしたように言った。
「あなた、あの子とともに過ごしたようなことをさっき言っていたわね? 浄化者はあの汚染区域から出ることはない筈なのに、どうして? ……普通の人間があの中で生きることなど出来ないのに……」
女性の表情が怪訝なそれから次第に戸惑い、不審へと移り変わる。その思考が、新たな認識への階へと至る前に、俺は再び歩き出した。走り出しそうになりながら、それを耐える。喋り過ぎた自分を今度こそぶん殴りたい気分だが、ここで挙動不審になってさらに疑惑を深めさせるわけにはいかない。
背後の気配から女性が追って来る様子はなかった。俺はそれに安堵しながらも、暫くはこのあたりには来ないようにしようと改めて決心する。小さな疑惑の目が、いずれ俺を追い詰めることは、これまでも何度かあった。多くは俺が迂闊なせいではあるのだが――やはり人間とは厄介だ。それでも彼らほど逞しい生き物もまた他にはいない。
太陽はじりじりと空を渡り、凶暴なまでの光であたりを満たしていく。それは俺には少し眩し過ぎた。ゴーグルの上から、さらに目深にフードをかぶり、足元ばかりを見て歩く。
歩くほどに、カラスウリとの思い出が静かに胸の内に沈んでいく。俺の内に記憶の層というものがあるなら、それは深く、深く、幾重にも折り重なっているだろう。
――空はイオリの瞳の色と同じだね。
カラスウリの囁きが聞こえる。
世界は今日も壊れ続けている。そんな世界の片隅で、小さく咲いて散った花を、俺は決して忘れないだろう。俺自身が、世界を諦めないために。