貸肉屋
【その一・貸肉屋の登場について】
貸肉屋。
わたくしの勤める役所でその単語が出てきたのは、そう昔のことではなかったはずだ――と、記憶している。書類の片隅、余りにもどうでもいい雑多な統計調査の報告書のどこかで、ひっそりと登場してきた。つまらない、本当に無味乾燥で、背中にこびりつく噛肉のような単語。それこそが貸肉屋であった。
わたくしは無論そのような瑣末な単語には全く興味を示さず、あるいはなかったものとして、もしくは統計上の誤差として、今の今に至るまで全くの無視の状態を保っていた。
しかしそれもどうだろう、わたくしのその勤労的作業において、不気味な染みたる貸肉屋が、寄生虫のように肥大していったのだ。
だからわたくしは、意を決してその謎たる貸肉屋に足を運ぶことに決めたのである。これは職務上の義務であり、そして一市民が是非とも知っておかねばならぬこの街の実態の一部なのだから、それを見聞するのはさも当然なのである。すなわちわたくしにはその貸肉屋なる不鮮明なものの実態を把握する責務があると言っても過言ではない。つまりはその統計上の字義から受ける印象としては、ただ単に肉屋と書いていればそれは必然的に肉を売る作業が営まれており、同様に、本屋と書いていれば本を売っている。さらにはこれら字句的な組み合わせによりいかような売業でも生成でき、その数は辞書的に存在するであろうすべての名詞について成り立つ、普遍的な合成であることは明白なのだから。そしてわたくしの世界把握によればその売るという語の省略こそがこの消費社会ひいては資本主義社会の最も正しい表層であり、何も書かれていない屋号とは売るべきものを直接にダイレクトに表す記号的な変換装置なのだ、だからこそ本来は売っていていはいけないものまでもが記号的処理――すなわち屋という字句を付与すること――により、いかがわしさを簡単に払拭して販売されることとなる。強力な操作である。これがわたくし以外の誰もが気付かぬこの社会の真実なのだ。わたくしはこの重大な発見をごく親しい知人に披歴したものの、反応はあまり芳しくはなかった。――そりゃあね、そういうものなのですよ――それ以外では不便が生じますからね――何か不都合でもあるのですか――おそらくは規定の表現なのでしょう――屋号の意味なんて、分かればよいのですよ――分からぬものは存在しないのですよ――役所的ではありませんね――。親しい知人の言うことはさも当然のように聞こえ、そしてそれらは断片的な表現としてわたくしの脳裏に刻まれた。しかし、それもそうだろう、貸し借りが生じるすべての業態において、それらの記号的処置は何ら意味をなさない不気味なものとなり、前提たる肉屋と貸肉屋の比喩が崩壊してしまうからだ。すなわち、文節に組み込まれるわずかな記号によりその意味がまるでガラリと変わり、思いもつかぬいかがわしいものになる。――これが、貸肉屋の醸す雰囲気だった。
昼になり、わたくしは役所の共同喫茶に向かった。規定の時刻に規定の場所で規定の食事をとる。これこそが決して変わらぬ役所的な記号であり、役所そのものの象徴なのだ。無論、その昼食中の片時もわたくしの脳裏には貸肉屋の一語がこびりついていた。規定の温度のコーヒーを嘗めながら、わたくしは増して貸肉屋について没頭していた。多種多様な貸肉が陳列されている貸肉屋の軒先、そこからワラワラと這い出す貸肉、目の前を闊歩するであろう大量の貸肉、多脚で面妖なる謎生物としての貸肉、規定の午後のまどろみと規定の温度による夢うつつの幻想の内部にのみ存在できる貸肉の群れたちは、わたくしの今までの全ての想像をはるかに超えていた。標準、規定、共同という厭らしい言葉を離れ、その貸肉屋の活躍は続いた。そして規定の午睡ともいうべき一齣は貸肉屋の発する強烈な匂いに彩られ、悪夢のフルコースにまで進化した。貸肉業の意味せんとするところ、その正体がミルクと砂糖入りのコーヒーの香りに乗ってわたくしの鼻からわたくしの内部そのものに入り込んでくる、そしてわたくしに注入される、従ってわたくしは貸肉になる――。つまりはそのような作用をもつ――そのような作用しかもたぬ――白紙というべき存在であり、そもそも、存在からして不定形の貸肉なのだ。あらぬ想像が肉の泡となって脳裏を支配し、そのパレードに登場する畸形どもの群れは水平線の彼方まで続いている……。
それらすべては、つまりはわたくしの職務上の単純作業たる統計資料に登場する、質屋なり、リサイクルショップなり、骨董屋なり……という各種の業態についてである。手元の帳票を確認しつつもその事態の把握に至った。規則が充填しすぎていて余りにも退屈な環境こそ、その手の絡まりを考える場所としては最適だろう。この退屈な帳簿では物品についての詳細は全く省かれ、それらは単にものとしての性質のみをあらわにした質やリサイクル品や骨董という無味乾燥で湿っぽい記号にまで置き換えられている。この記号的操作を眼の前にわたくしの統計資料は危険を察して唸るが、それでも語的統合を阻む役所的作業全体の前にはわたくしは膝を屈するほかなかった。それはそれとして、ありとあらゆる剥奪され脱臭され漂白された存在、それらが統計的な調査の俎上にまで登場しているというのは、いささか驚きの発見であった。わたくしが作業中・勤務中でなければ、小躍りして職場のわたくし同様の灰色の同僚を驚かせ、然る後に然るべき場所へと移動させられていただろう。しかしわたくしはそのような夢想的空想的なことはせずに、わたくしのこの地動説かの重要な発見をわたくしの脳内にとどめるに踏みとどまった。これも潤滑なる偉大な職務遂行のためのエッセンスであると信じつつ、その統計資料に没入したのだ。その間も、わたくしの脳裏からは貸肉屋という語がこびりついて離れなかった。そもそも職の生成について非常に合理的であり、それはすなわちただの浮遊した名詞たる単語に屋なり業なりを付与すれば成り立つ、たったそれだけの形而上的作業にて職業が完遂し完成せしめる、この手軽さはわたくしの行う気楽な作業にも通じるところがあり、その簡単さ、あまりの容易さに少々拍子抜けするところまである。そしてもっと奇態なのは名詞が売買の対象ではなくなる時点あるいは業態であるということにも、わたくしはわたくしの狭くも整頓された几帳面な机の上で気付いたものだ。わたくしは(職務上の理由で)机の上の手の届きやすいところにおかれたこの街の地図を手に取り、それを業務的目的をもつように丁寧にそして迅速に、そう、いつものように開いた。そこには多種多様な道が記されてはいるが今はその道や道路や通路は関係なく、そこに記された様々な職業についての物理的一覧・物理的配置が最も重要であり、そしてこのいつもの作業に見える作業がわたくしの本来の職務とは全く異なるべき種類のものであろうことには、職場すなわち役所の同僚や善良なる市民の全員には全く存じ上げぬところであろう。この二次元的に配置された職態の総覧において、わたくしには今まで見落としてきたすべての要素を詰め込んだ新しい地図が見えるようになった。すなわち、貸肉屋である。つまりはその簡便な操作において生成される職以外のもの、正道から外れたもの、資本主義的レジームから疎外された一切の、点在する特異点、それらが散りばめられた宝石箱のように映るのだ。わたくしのこの以下にいも神経質そうな指先が示すところによればそれはレンタルという冠詞が付いており、それは旧来の記号操作では生成できぬ業務であり、そして何よりもそのレンタルという語がもののものたる所以を奪っている作用にほかならぬのだ。そこでは何が問われるのではなく、どのように――が直接問われる業態であるからだ。それでもなおレンタルCDやらレンタルビデオやらの小さい名詞がこともなげに付与されてはいるが、レンタルという語の持つ破壊力には勝てぬ。それを最大にまで推し進めた場所がこの街にもあるようで、そこには単にレンタルショップとのみ記されていた。これも一種のものの敗北であろう――、わたくしは直感した。その売買の手順を超越してしまった所にものはものとしての尊厳を剥奪され、ものの名前も付されず、そしてものはそれを代理する全く別の記号で呼ばれることとなるのだ。質や骨董のように。そしてその教義の中央こそが、貸肉屋である。わたくしは直感した。
わたくしはこの貸肉屋のことを念頭に入れつつ地図や統計資料やその他諸々の職務的資料に目を通して、その貸肉屋の一すべき地図上の記号――いわゆる住所――を徹底的に記憶し(とはいうものの簡単すぎる記憶と銘記ではあるが)、後日、改めてその貸肉屋たる蠱惑な場所に赴いてみようと決心した。この種の決心はわたくしが数年来行わなかった運命的なものであり、その運命を駆動させたのはやはり貸し肉という一種異様で不気味で面白そうな語に惹かれてのことであり、あるいは発見してしまったごく少数のものの義務であり、一市民としてのまっとうな責務でもある。これに至るまでの経緯は異様なまでに緊密に組み上げられた記号としての文脈である。当然の行いであると信じて疑わぬ行為、そのような愚直すぎる行いがこの世の中には確実に存在し、そしてそれを喰いものにするやはり愚劣で賢いものも、やはり確実に存在する。その息苦しいまでに緊張した構成から逃れるように何らかの通路を見出すもののそれもデッドエンドに直結するかのような悲惨が待ち構えており、その先々に同等の息苦しさが待ち構えている。総じて一市民が体験すべき標準的な嫌さが詰められた宝箱として、一市民のそれぞれに抜かりなくプレゼントされている。
わたくしは最近の冬のよく晴れた寒い日に、それなりの格好をしてそれなりの金銭を携え、わたくしの街を歩いた。いかにも小市民的ないでたちであり、記号化された市民でもある。一目見て無害な一市民だと直感されるべき記号を纏った。これこそが充填された記号である。ただの記号はそれだけでは純粋な記号であり、内部が存在せぬ。そこに何らかの表象が付け加わることにより内部が構築される。ここのわたくしは記号的な充填が施され、いわゆる小市民という記号を纏った記号そのものにまで昇華される。これが記号の充填であり、わたくしがわたくしたる意味そのものとなる瞬間なのだ。
そして目指すは、もちろん貸肉屋である。住所は一字一句頭の中にある。迷うべき道はない。貸肉屋の秘密と謎を解き明かすための散歩に出発するのだ。まずわたくしが用意したのは、愛用のナイフであった。貸肉屋という語が醸し出す雰囲気はその手のものの所持を促す要素が込められていたからだ。肉といえばそれは切断され分解されるために有るべきであり、それ以外の増殖などは念頭に置かぬから、まさか成長促進剤などは持ってゆく必要はあるまい。肉とナイフ――これほど分かりやすい組み合わせもないだろう。肉をバラバラにして適した小ささまで加工する、それがナイフのもつ記号的意味であり、わたくしが求める安心感でもある。これは念のためでありお守りであり護符でもあり、わたくしをいざという時に貸肉屋や貸肉そのものから守ってくれるであろう正当な所持品なのだ。そしてその正当性が通過したあとはわたくしの内部において細切れの貸肉が充填されることになり、それが一種の暗示する目的として挙げられるかも知れない。そのようなものの用意が終わって初めて、貸肉屋なる場所に赴く準備が出来たと実感できるのだ。それが貸肉屋という語のもつ魔力であり、わたくしを準備にいざなう原動力でもある。
記号を周遊するが、その央点には決して到達できぬ――という哀れさがある。貸肉屋だけではなく、全ての記号的存在においてそれが成り立ち、わたくしもその例には漏れない。表層のみを嘗めるだけ、本質にはけして立ち寄れぬ足をもっている。すなわちそれが業態説明のための無味乾燥なラベルでありレッテルである。貸肉屋の意味するところ、そしてそれが配置されているであろう物理的場所、そこにたどり着くまでの地理的な通路。それらの発見は資料的なものによってもたらされるべき情報ではあるが、その結実として確実に貸肉屋が見つかるかと言えばそうではない。むしろ、貸肉屋に相当する屋号をもつすべての屋は接近できぬ影に置かれている販売所なのではなかろうか。そもそも卵の自動販売機が地図上に記載されているわけでもなく、そしてすべての自販機が地図に記されているわけでもない。卵でも一種の缶詰でもよいし煙草でもよい、それらの自販機の位置が帳票上に記載されているとは限らぬ。そして世の中には逆自動販売機としての、人間を封入すべき場所すらもある。ポストと自販機の関係性の果てに垣間見える不気味さは、人間という肉に置き換えた場合の不気味さなのだ。そしてそれらはすべて知っている人間だけがたどり着ける場所に置かれているか、それともごく自然に、余りにも気をとめぬような心理的盲点に置かれている。その場所こそは、いつもの――としか表現できぬ類の空気を漂わせている。ありがちな比喩では、――探しても探しても見つからぬ――しかし足もとに――という陳腐さをも兼ね備えた、いわゆる一種の暗喩として、貸肉屋がひっそりかつ堂々と営業しているのではなかろうか。
このような周遊を繰り返した後に、わたくしはなんとかしてその看板を見つけた。その小さな商号には、やはり小さく貸肉屋の文字が並んでいた。わたくしは喜ぶことも驚くことも嘆くこともなく、当然がごとくのようにその屋号を眺めていた。この形態すらも記号であろう。何の変哲もないただの商店街の一角の店のように感じるその建物は、その表札たる屋号という記号のみでこの世ならざる貸肉屋に変貌しているかのように直感できたからだ。古ぼけた壁、古ぼけた窓、古ぼけた道、古ぼけた商号。きっと中には古ぼけた人間が鎮座ましましているのであろう、そのような既視感すらも覚えさせるような、よくある造りなのだ。わたくしは一種の安心感をもってその店をしばし眺めることができたのだ。ここでは何ら謎は行われていない、なんら訝しむべきことは行われてはいない、古ぼけた健全の住まう社である、と。わたくしはその何の変哲もない――変哲がなさすぎて逆に怪しいくらいの――古ぼけた扉を開け、貸肉の内部へと入った。
【その二・貸肉の内装について】
貸肉の内部は、外部からは想像もつかぬほど絢爛な装飾が施されていた。ほんのりと朱がさしたロココ調の設えだった。壁やら家具からは丸い文様が幾重にも生えている。スライスした生肉の内部を闊歩する緊張感がある。その奥の、一目見て中央と呼ぶべきところに、この貸肉の主人と思しき人物が座っていた。貸肉の内部に位置し、貸肉とその客を操作すべき人物であった。それ以前に、貸肉そのものの存在意義を知っていて然るべき人物である、わたくしはその人物に最大限の注意を向けないわけにはいけなかった。わたくしはその人物を最大限に警戒した。店主もわたくしを警戒した。ピンクの椅子に座ったまま、その店主はわたくしに挨拶した。何かの、御用ですか――と。その発話の意味するところ、つまりは背後に隠された記号的文脈的意味をいろいろと模索しながらも、わたくしは、ええ――とだけ曖昧に答えた。ここは答えるべき行為が絶対的な正解であり、わたくしはポケットの中のものを強く握りしめた。それでは――と店主がいい、部屋の中を、建築された内臓かのような部屋を促した。どれにしますか――というのが、それに続いた店主のその言葉であった。店主と貸肉とわたくしの意図が一致せぬところにこの場があるのだ――、と理解した。わたくしは懐から用意した少々厚い封筒を取り出し、これで――と差し出した。柔らかそうに見えるが実際には大理石の硬さを持つであろう霜降りのロココ机の上にそれを置き、店主はその中身を確かめるまでもなく、今――と、同時に立ちあがった。おそらくは年代物あるいは新作であろう豪勢でおしとやかな棚を開いて、店主は内装に直結したかのような所作で、ひとつの貸肉を棚から取り出した。
――記号の内部で記号そのものに接触する機会などは存在せず、それは形而上の夢空間において可能であり、しかしその夢想的な行動はこの貸肉屋の内部たる貸肉においてなら可能でありそうな気がした。それこそがこの貸肉屋と貸肉の意義であり、存在理由ではないか。貸し借りという口実や建前を以て、この貸肉という記号の内部の奥深くまで潜り込めるのが貸肉屋の存在意義ではないか――とまで形容できそうな貸肉が、登場した。わたくしの封筒――今は店主の封筒――の横にそれとなく置かれた、瓶詰の貸肉。貸肉でありながらジャムのような水分を保った不定形の謎。脳を溶かしこんだ塩漬け。それらの料理的な形容が頭に浮かび、それがこの貸肉の内部ではさも当然かのように振舞っている。貸肉だからと言って、異彩を放ちはしなかった。あくまで部屋の誂えの一部として、完全に調和していた。ただただ肌色のロココ机の上に在る、それが貸肉であった。そしてわたくしもさも当然かのようにその貸肉の充填した大き目の瓶を手に取り、――おそらくは何か言ったのだろうが――何かをつぶやき、その貸肉屋を――去った。つまり、貸肉の内部から切断された貸肉そのもの、それがわたくしの手の中にある貸肉の瓶詰であり、今はまだ封印の解かれておらぬ、瓶という遮蔽によってこの世界から切り離されている記号そのものだと気付いた。切り離してはならぬものを切り離し世の中に放つとき、それは天地逆転という混乱に似た混沌を招きかねず、従ってわたくしはそれを解放すべきではない、という一時的な結論にまで達した。すなわちそれら貸し出し業の極限はまさに貸し借りするという行為のみだからだ。貸し借りして、それをどうにかする――というもの(すなわち用途と物品の用)は、記号的成立からは奇妙なほどにズレている。純粋な貸し借りのみが行える場所が貸肉屋でななかろうか、貸し借りすること自体が目的、それ以外の目的を持たぬ業態である。純粋な商売として肉屋があり、そこから売という記号が省かれている以上、わたくしはこの瓶詰の記号を世界に解き放つ役割を担っているとは思えない。一歩ごとに揺れる瓶詰の貸肉のたゆみを見ていると、どうもこれがあの貸肉という内部を思い起こさせて本能的な嘔吐を催す。つまりは記号実体であり、本屋における本などとは明らかに別格の用途を提供する、純粋な物体なのだ。貸し借りのみが根本的な資本主義の結実であり、そのための用途は用意されていない。それのみに使える純粋な存在。それが瓶詰にされているというだけでジャムと見分けがつかぬような形態にまでなっているが、そうなのだ。店主は――借りますか?――という言葉を発したようにも思える、それほどに貸すことにこだわっただけの純品であろう。用途が無く、それでいて用途が有る。つまりはその物品を媒介にして資本主義が成り立ち、だからこそ貸肉屋という屋号が成り立ち、貸肉屋という業態も成り立つ。つまりは、貸し借りすること自体を販売しているのだ! そのサイクルにおいては何らかの価値が棄損されているようには見えないが、貸されたという事実が消えるわけではない。そこなのだ。しっかりと棄損されている。この屋号たる貸肉屋の本質的な意味は、腕の中の瓶詰の貸肉にある。その棄損の補填は何によって遂行されるかは考えるまでもない、直感すべきことだったのだ。これをひと呑みしてしまえばその意味に接触できるのであろうが、わたくしにはその自身はない、無論それをしてしまえばわたくしが新たなる商売道具たる貸肉にまで転じてしまう可能性が強すぎたからだ、それでなくとも時期店主にまで祀り上げられてしまう可能性がある、そこはそういう場所だ、わたくしのような哀れな駄肉を待つ肉の巣だ、貸肉に囚われた人間を作り出す崩壊の場だ。
いわば男根の象徴の物語として与えられている断片があり、アーサー王の剣の挿話は明らかに男根獲得の小噺である。逆に、ヤマトタケルとトールは去勢という記号であり、性がまだ未分化であった時代の古き良き牧歌なのである。このような果てしない記号的操作の末に誕生したのが男性女性という記号ならば、貸肉という記号においても何らかの過程があってもよいはずだ。つまりは、貸肉屋の内部に呑まれ、その店主に呑まれ、小腸の中の消化物という蛹となり、最終的には別の記号を纏って排泄される。そのような変貌を遂げるための装置として、わたくしの手元の貸肉はわたくしに向かってわたくしにしか聞こえぬように囁き続けている。――貸肉は、百二十六年前に、とある街にて誕生しました――その発祥の地は今では爆撃により存在しませんが――このようにして貸肉業と貸肉は発展していったのです――その発展には五代目の公爵夫人たるお方の尽力と――戦争においても大きく活用され、周知の事実となったのが貸肉です――今では職場のみならず、一般のご家庭にも常備されるほどの常識的な商品にまで――年間の売上高は一億二千六百――。わたくしは意識をもっと外部に向け、その声ならぬ声を聴かぬように努めた。散らばった断片とそれを組み上げることの危険、そのような断片や挿話が点在していることの危険、ばら撒かれた地雷か核兵器の部品のような危険、それらはいくら忌避しようとも影のように付いて回る忌々しい種類だ。そのようなまとわりつきがわたくしの抱えているこの大き目の瓶詰の貸肉に添加され、わたくしはその瓶を今にもすぐ捨てて割ってしまいそうになる。
貸し借りが可能な肉。貸肉と貸肉屋。その語義と充填されるべき中身について、わたくしは何も知らぬ。知らぬが故にそれが存在を吹き飛ばすほどの危険であっても気づかずに迷い込んでしまう。貸肉屋とその店主とその内装、これほどまでに危険な充填された内部はそうそう無いにも関わらず、わたくしは午睡の延長としてそこに足を運ぶように運命づけられていたのだ。致命的な充填が行われ、その瓶が鈍く光るように中の貸肉が微笑みかけている。抑えきれぬのは危うい硬さのこの瓶であり、社会に発散せんとす貸肉が今にもわたくしを充填せんと機を窺っている。否、貸し出されるだけの用を背負った、ひどく純粋な微笑みだ。
【その三・わたくしが次であることについて】
わたくしは瓶詰の貸肉を返すべく貸肉屋を探したが、辿りつけなかった。文芸的約束であり、一種の記号的なパターンである。それもそのはずであろう、わたくしは今この胸に貸肉そのもの――硝子という緊張した薄膜で隔てられただけの貸肉そのもの――を抱いている。それの世界への作用は計りしれぬ。わたくしという一個人にとっては太陽以上の大きさである。わたくしは、蠢く肉の波間に漂う意味なき意味を抱えているのだ!
人畜の派遣やデリバリーといういかがわしさを超えて、単に貸すだけの業態が、世の中には存在する。販売ではなく貸すだけであり戻しはしない、貸し借りという言葉の裏側を捉えてそこを充填するかのように蔓延った粘菌、それらの結実がこの貸肉であろう。わたくしは蟻の巣から出入りを繰り返す派遣されるべき人畜の群れを想起し、その語的間違えを正すことなく貸肉屋に接触してしまったようなのだ。これらの詳細はいかなる文書にも載らぬであろう秘密であり、わたくしと店主のみが知りうる公然の秘密でもあるのだ。レンタルや骨董やリサイクルという言葉を超えて、わたくしの腕の中に存在してしまっているもの、それが貸肉なのだ。だからこそ貸肉の自動販売機などは存在せず、それと同様に貸肉ポストなども存在しえない。貸すことはまさに一方通行であり、そこには屋号をもつ店屋が必ず存在せねばならぬ。そして、貸肉屋である以上は、誰かが誰かに貸さねばならぬ。それが、貸肉の貸肉たる由縁だったのだ。
貸し借りではなかった。純粋に貸すだけ、だからこその、あの屋号である。どうやら次の店主あるいは貸肉はわたくしである。次に瓶詰されるのはわたくしである。わたくしはそれらの事実に恐怖かつ戦慄しつつも、待ち焦がれた眼でこの貸肉を眺めた。
このweb小説は、筆者の規定する一種のルールに従っています。すなわち行頭インデントと改行についての独自なルールです。紙上、とくに原稿用紙におけるいわゆる作法とは異なる旨をあらかじめ宣言しておきます。Web小説にはそれ独自の表層をもつべきであり、筆者の考える規定はこの小説の中に埋め込まれており、それらは行頭インデントとその代理の改行に結実しております。すなわち筆者はその様式がもっともweb文章に適したもの――blog文章術にも通ずる方法論――として認識しており、これは横書きと縦スクロールを基礎とする現行のコンピュータに最適であると結論しています。つまりは行頭インデントの代わりに空白行を設けることこそが系に適合した表層であり、これは文章そのものの利便という目的にもっとも合致した方法であると自負しています。
また、この文章には多少の造語が含まれています。