(1)
真っ暗な闇の中。
独りぼっちになってしまった僕は言葉を紡ぐ。
『流れ星ってね……、宇宙を旅してて、仲間とはぐれちゃったの。
ずっとずっと一人ぼっちで旅を続けて…。
そうしてるうちに地球を仲間だと勘違いして、落ちてきたんだって。
それが、たまたま、今回はおっきな迷子で、流れ星にならないで、地球に落っこちちゃったの。
母様が言ってたんだ。…ホントだよ?』
まだ夜は、明けない。
光はどこにあるんだろう?
…僕だけの、光は。
20XX年、巨大な隕石の落下により地球は甚大な被害を受けた。
奇跡的に落下点が南太平洋だった為、大陸がひとつ消滅するのはかろうじて免れた。
しかし、生命の循環を、生き物の暮らす環境を壊すには十分すぎたのだ。
衝突の際の衝撃による、激しい地震。
局所異常気象。
地軸の変化。
海水面の上昇による、臨海都市部への津波と低地の水没。
気温の変化が著しいのはいうまでもなく、空気中の成分の大きな変化。
それに塵による日光の遮断と低温。
これらによって、生態系も完膚なまでに破壊し尽くされてしまった。
はっきり言って、古代に恐竜が滅んだのと同じく、人類が滅亡してもおかしくないくらいの被害。
だが、人々は生き残った。
いや、正しくは生き残ってしまった、というべきか。
運よく災禍を逃れ、途方に暮れていた人々に生きる道を与えたのは、皮肉にも、この悪夢の原因だった。
隕石に含まれていた、謎の寄生型生命体。
生ける全てのものに取り憑いたそれら------《星屑》は苛酷な環境を生き延びることができる強靭な肉体を与え、地球上の生物に寄生し始めたのである。
【西病棟三二六号室】
「みずきお姉ちゃん。ほら、できたよ、つる!」
その楽しそうな声に導かれて視線を上げると、ベッドの上で一生懸命折り紙と格闘していた少女が顔を上げたところだった。
雪のように白い肌に、漆黒の長い髪。くりくりの瞳が輝いている。
手には少し皺くちゃになりながらも、何とか形を保っている鶴が乗っていた。可愛らしい顔に浮かぶ笑顔はなんとも誇らしげだ。
「上手に折れたじゃない。すごいすごい!」
私は微笑を浮かべ、少女の頭を撫でる。サイドテーブルにはたくさんの再生紙で出来た鶴たち。
その鶴の群れを見た少女は、ちょっとだけ悔しそうに笑う。
「お姉ちゃんに比べればまだまだだよ。わたしも早く上手に折れるようになりたいなぁ…」
「未来ちゃんならすぐに上手くなるって。すぐに私を追い越しちゃうかもよ?」
「えへへ…。ありがとう、みずきお姉ちゃん。あのね、今度は紙ヒコーキ作りたいな」
褒められてはにかむ未来を見ていると、自分のことのように思えて、嬉しさに目を細める。そして、リクエストに応え、紙飛行機を作ろうと紙を取り出した。
「瑞希、あまり未来に無理させるなよ。未来はまだ病み上がりなんだからな」
病室の戸口から声が響く。
いったいいつからいたんだろう?
半ば呆れたように私達を見る、二十代後半の白衣の長身の男で私達の主治医。
…全然気配に気づかなかった、いつもじゃありえないのに。
「分かってるよ、拓斗兄さ…いや、鈴村先生」
ちょっと強く言われて、少しむっとなってしまう。私のことを気遣っているのは分かるんだけれど。
分かってるけどさ!もっと言い方ってもんがあるじゃない!
つかつかと拓斗兄さんは未来のベッドに近づくと軽く腰掛けた。
「先生、みずきお姉ちゃんは悪くないんです。あたしがお願いしてここに居てもらっているから…。だから、お姉ちゃんをゆるしてあげてください」
泣きそうになって弁明する未来に兄さんは苦笑すると、頭をポンポンと叩いた。どうやら、本気で兄さんが怒っていると思ったみたいだ。
…素直でかわいいなぁ。
「そんなことを言わなくても…、未来、俺は瑞希のことを怒っていないから大丈夫だよ。俺は、未来も瑞希も、ここにいるみんなが心配なんだ。こうやって、今生きていることはとっても幸せなことなんだぞ」
未来を見つめて言う、拓斗兄さんの言葉には、とても重みがあった。
惑星の半数ほどにものぼる人間が命を落として、生き残った中でも自我を保っているのが決して多いはとはいえない現状。この病院の患者も大半は帰らぬ人となったか、生前の姿を残していない。
それもこれも、《星屑》の侵略が物凄い勢いで進んだから。
《星屑》の精神侵食は、現代を生きる私たちにとって、最大の弱点を突いた攻撃だと思う。強い《生きる意志》がない限り、小さな侵略者たちは意志を蝕み、獣の血肉を啜る異形と成り果てるという。闇に生きる異形は地上や地下を徘徊し、私たちを無慈悲にも襲う。
「まあ、顔色もいいみたいだし、元気なことはいいことだ。どこか具合の悪いところはないか?」
その問いに未来は少し思案げな顔をする。一瞬、私は硬直したが未来はまた笑顔を見せたからほっとした。
「ううん、大丈夫。ほら、ずっと眠ってたから、調子がいいんだよ、きっと」
「ならいいんだが…。具合の悪いところがあったらちゃんと言うんだぞ?」
「はーい、先生」
浮かぶのは安堵。
未来は、ついこの間まで…そう、三年間眠り続けていた子だった。交通事故で脳を損傷し、二度と目覚めることがないといわれていたらしい。
そんな彼女が目覚めたのは奇跡としか言いようがないと思う。《星屑》の副作用のおかげで脳機能が改善されたらしい。寄生者にとっては、ただ単に暮らしやすい環境を作ろうとしただけなんだろうけど、未来にとってはかなりの恩恵だった。
しかし、彼女が目覚めたときには、一番喜んだであろう両親は、すでに他界。記憶に穴を空けてひとり残された未来はそのまま病院で暮らし、何かと私も世話をしたり遊んであげることも多かった。
「…それと瑞希、君も病人なんだ。子供たちと遊んであげるのは嬉しいが…」
「自分の体のことは一番良く分かってるつもり。紙飛行機を作ってあげたら部屋に戻るよ」
「そうしてくれれば助かる」
拓斗兄さんは気遣うように言ってくれるけど、私はすぐさま紙飛行機作りを再開した。といっても、一分も経たないうちに作り終え、サイドテーブルに置くと椅子を立った。
「未来ちゃん、あんまり遊んであげられなくてごめんね。また明日来るから、いい子にしてるんだよ?」
「うん、わかった。だけど、また折り紙教えてね、約束だよ?」
にこりと微笑むと手を振って、先に腰を上げた拓斗兄さんに続く。そして、ベッドの上から元気な声。
「バイバイ、みずきお姉ちゃん!」
その声を背中に受け、二人で病室を出た。遊びまわる子供たちの間を縫って、病棟の奥へ。
「みんな元気そう……病気で弱っていたなんて、嘘みたい」
しみじみ呟いた。
私を含め、何かしらの病気を持ってベッドから出られなかったり、歩けなかった子供たちも大勢いたんだ。生まれつき心臓が弱かったのに、元気に廊下を走り回っている子もいるし、植物状態から意識を回復した未来のような子もいる。隕石の落下で得たものは確かに大きい。
しかし。
この病院の大人の入院患者の多くや、子供たちの親たちは命を落としていた。子供たちのほとんどが孤児なのだ。
でも、目の前の辛い病気から解放された子供たちの笑顔を見ていると、こう考えてしまう。いや、考えずにはいられない。
この刻がいつまでも続くといいな、と。
【中央渡り廊下】
西と東の病棟をつなぐ廊下の窓から外の様子が伺える。枯木の下を歩く無数の影を見、思い出したことがあった。
「そういえば、さっき自警団の人達が着ていた。なんでも、実弾が大量に手に入ったから地下の掃除をしたいらしい」
「地下の…?」
傍らを歩くハトコは怪訝そうな顔をした。
この病院の地下には、ほとんどの病院と同じく霊安室や手術室といった陰気な場所が多い。また、取り残された人達も多いらしいという、噂の場所。封鎖されてかなりの時間がたつが、いまだに物音が絶えないところを見ると、まだ生きているらしい。
まあ、基本的に栄養素は《星屑》が使い回しをしてて、俺らが食事をあまり必要としないのと同じ原理なんだろうが。
「みんな、こんなことになるまではおんなじ人間だったのに…」
瑞希のため息とともに吐き出される呟き。
横顔は悲しみに暮れ、瞳は人外となってしまった者達への深い憐れみが含まれている。
「自警団の人達についてはあまりいい話は聞かないしな。なるべく関わらないほうがいい」
外の様子をもう一度見ながら言った。今度ははっきりと完全武装の男たちが二・三人いるのが確認できた。
自警団は人に害なす異形---《甲化》した者を狩る実戦部隊。もともとは危険から人々を守ることが第一に結成された組織だった。しかし、主な構成員が異形に恨みを持つものが多く、一切容赦はしない。
一度だけ、討伐を行なっている現場を見たことがあった。
彼らは、怨嗟と怒りにより統制され、慈悲など持ち合わせない氷のような双眸をし、銃器を使い《星屑》を駆る様子は、まさに夜叉のようだった。その凶暴性があって、殺戮集団と恐れられている。
しかし、それはどうでもいいこと。俺は瑞希や未来、それにほかの子供達を守ればいい。
俺がここにいる存在理由は、それだけだ。
「とにかく、君は少し体を休めたほうがいい。…この病院の中でも体調が優れないほうなんだからな」
「うん、そうするよ。心配かけてごめん」
珍しく素直にそう答えた瑞希は自分の病室の前で立ち止まった。
瑞希は足りなくなった看護士達の変わりによく子供達の面倒を見てくれている。しかし、もともと彼女はかなりの重症患者で、彼女の両親から何とか病気を治してほしいと託された。
大人びた雰囲気を持っているが彼女はまだ高校生であり、この特殊な環境におかれてからは精神面での負担が大きいようで、体調を崩しやすかった。それにほかの人達と違って、彼女にはあまり《星屑》の副作用 健康面の改善が現れていないような気がする。
「じゃあ、俺はほかの子供達の様子を見てくる」
部屋に入った瑞希に戸口から声をかける。それに彼女がひらひらと手を振り、応じてベッドに転がり込んだのを確認してから扉を閉め、巡回を再開した。
【西病棟三二六号室】
外から入ってくるつめたい風なんかほっといて、あたしはお姉ちゃんに作ってもらった紙ヒコーキで遊んでいた。
夜になると明かりがなくなっちゃうから、今遊ばないと、また明日ってことになっちゃうし。
「みずきお姉ちゃんのヒコーキはよく飛ぶなぁ……」
折りかたをマネして作ってみたんだけどなぁ。
あたしが作った紙ヒコーキは、なかなかあっちまで飛んでいかないけど、お姉ちゃんが作ったのは、ずっとふわふわ飛んでる。本当はお姉ちゃんの紙ヒコーキをばらしてみたいんだけど、開いたら元にもどせない気がするし・・・。
明日教えてもらおうかな。
「ま、いっか」
自分で作った紙ヒコーキはくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。
手元には、いろんなところにぶつかって形がくずれたお姉ちゃんの紙ヒコーキ。もっと大空を飛べればいいんだけどなぁ。部屋のすみによってみると、この部屋でもけっこう広いみたい。ろうかまで出て遊ぶとおこられちゃうけど、ここだとおこられないし、もっと飛べるかな?
「…えいっ!……って、あ~!」
そういえば窓が開いてたことをすっかり忘れてた。勢いよく飛び立ったおねえちゃんの紙ヒコーキは、元気に、ホントに空までいっちゃった。
追いかけても間に合わなくって、ゆっくり紙ヒコーキは中庭へと落ちていく。
「どうしよう…?」
せっかくお姉ちゃんに作ってもらったヒコーキが…。まさか、無くしたなんていえないよう…。
「まだ明るいし、すぐにもどればおこられないよ…ね…?」
ろうかを見て、誰もいないのをかくにんしてから、ヒコーキを探しにろうかを走り出した。
【東病棟三五九号室】
「瑞希っ!未来が来ていないか…!」
「……え…?」
扉を開く音とともに、血相を変えた拓斗兄さんが入ってきたのを、知覚するのに数秒。そして、その言葉を理解するのに、さらに数秒。
眠りから覚めたばかりの、ぼけっとした脳に一気に血が逆流した。
「未来ちゃんがいなくなった!?何でまた…」
「わからん…!」
不安を隠せない拓斗兄さんは、病室を出ようと急ぎ足で踵を返す。
病院はこの階とひとつ下の階だけで世界が完結していた。一歩この世界から出ると、死と隣り合わせの場所となってしまう。普段から、子供たちには絶対に出ないようにといっていたんだけど…。
まさかとは思うんだけど…。
どうやら一人で兄さんは未来を探すつもりみたいだけど、黙ってみているわけにもいかない。急いでベッドから起き上がろうとするが、貧血のせいで動きがのろく感じる。
ああっ、病気であることが恨めしい!
「待って、私も行くっ!人手の多いほうがいいはずだから」
何とか上着を羽織り、後に続く。
拓斗兄さんは心配そうな顔をしていたが、場合が場合なため、何も言ってこなかった。
太陽が傾いて緋色の光が差し込むなか、子供たちに未来の行方を知らないか訊ねて回る。しかし、一向に手がかりは掴めない。
子供たちは人をよく観察をするのが得意で、普段あまり見ないような人を見るとわかるもの。なのに、みんな口を揃えて未来のことは見ていないていうんだ。
「そっかぁ…。うん、ありがとうね」
「瑞希姉ちゃん、役に立てなくてごめん。未来に会ったらすぐに教えるから」
「わかった。お願いね」
今回も空振りに終わり、とうとう病棟の端まで来ちゃった。
拓斗兄さんは西病棟とひとつしたの階を探しているはず。そろそろ階段の前で落ち合う時間になっているんだけど…私は階段とは違う方向にある洗面所へとふらふらと足を進めていく。
口の中に広がる、鉄の味。
ここ最近治まっていた症状に追い討ちをかけるように、激しい目眩と立ち眩みが体を襲う。
「こんなところで……!」
さっき起きてから、なんか身体の調子がおかしい。
何とか洗面所の流しの前まで達すると、口の中の痰を吐き出す。歯茎から出血した薄い紅色の血が数箇所から出ている。鏡に映った顔は蒼白だった。
それが、未来がいなくなったということであせっているのが原因なのか、それとも病気のせいなのか…。
けど、そんなことを考える余裕などまったくなかった。
【エレベーターホール中央階段】
無人のエレベーターホールに自らの踏み鳴らす、カツカツという音だけが鳴り響く。
待ち合わせの時間が少し過ぎただけだというのに、気持ちが落ち着かない。膨らんだ焦りが収まらない。
それだけ事態は深刻だった。
二階に住む患者が一階に降りていく少女を見た気がするというのだ。
いっそのこと、彼女を置いてこのまま…。
「ごめんなさい、待った…よね?」
小走りでやってきた彼女は息を切らしてそう言うと、壁に手を突いた。相当苦しいらしく、肩で息をしている。
窓がなく、薄暗い此処でも雫の顔色ははっきりとわかった。
見るものが言葉を失ってしまうほどの、血の気が失せた蒼白。まるで生気がない。
「そんな顔色で、君は……」
「私は大丈夫、だよ。…それよりも、未来ちゃんの居場所は?」
自分の身体の調子など棚に上げ、何事もなかったかのように尋ねる瑞希に閉口する。
ハトコは病気に罹ってからというものの、他人を助けるために自らを犠牲にするのを厭わなくなっていた。あたかも、自分を心配する人などいないかのように振舞うのが、とにかく癪に障る。
「大体わかったが……君は部屋で休んでいなさい。これは医者の立場としての忠告だ。わかったな?」
彼女の目をしっかり見つめ、強い口調でそう告げる。だが、案の定、瑞希は唇を噛み締め、反論しだした。
これは彼女を巻き込んでしまったときから、覚悟していたことでもあったが。
「兄さんが一人で行くって言っても、私も一緒に行く。未来ちゃんは私が面倒見るって決めたんだもん」
「君は子供か?さっき、自分で自分のことは一番わかっていると言っただろうが。そういうことは今の君の身体のことをよく考えてから言え」
こんな冷たいことを言う羽目になってしまったのは、ひとえに俺の過失だったのはいうまでもない。瑞希に伝えさえしなければ、こんなことにならなかっただろうに。もっとも、そんな後悔をしたって状況はちっとも良くならない。
それどころか瑞希は俯き、涙をこらえるように言葉を吐き出し始める。
「私は…未来ちゃんのことが本当に心配なの。だけどね…それと同じくらい、拓斗兄さんも、心配。だって…これから一階に降りるんでしょう?」
「……ああ、そうだ」
手にしていた非常用簡易電灯を見て気付いたのだろう。嘘をついてもしょうがなく、俺は素直に頷いた。
未来の目撃談は、ただ影のように見えただけで本人かどうかはわからないという。もしかしたら本当なのかもしれないし、見間違いなのかもしれない。
だが、どちらにせよ《星屑》が積もっている、危険な場所までは病人である瑞希を連れて行くわけにはいかなかった。
あの《星屑》は、人の判断を狂わせる。
「未来を助けるために瑞希まで危険に晒すわけには、いかない。未来は必ず連れて帰ると約束する。だから、部屋で待っていてくれ」
力を込めた説得。
これで駄目だったらどうしようかと考えていたが、彼女は小さくうなずいた。
「そこまで言うなら……わかったよ。さすがに、この体調だと足を引っ張りかねないし、ね。だけど……絶対に約束だよ?」
こんなに静かなのに、消え入りそうなほど小さな声で彼女はそういうと、顔を上げて無理やり笑顔を作った。
涙を流しながら。
「わかってくれてよかった…。それじゃあ、行ってくる」
いたたまれない気持ちになってほとんどその顔は見れずに、俺は非常階段の入り口に入っていく。
立ち入り禁止のテープを跨ぎ、悪夢の広がる地へと降り立とうと歩みを進める。
【一階総合待合室】
足が重い、息が苦しい、頭がくらくらする。
もう、歩けない。
「…みずきお姉ちゃん、こわいよぉ…。助けて……」
真っ暗で、怖くて、思わずなみだが出る。
何とかしたに下りれる階段を見つけて、一階まで来たまでは良かったんだけど、真っ暗やみで何にも見えない。少し歩くだけでも、足元がすべりやすいから、すぐに転んじゃう。それに、ここがいったいどこなのかもわからなくなっちゃった。
よく考えてみたら、あたしはこの病院の一階を歩いたことがなかったんだ。救急車で運ばれてから、ずっと目が覚めなかったから。
ホコリまみれのゆかに座り込んで、口を押さえてから深呼吸する。ホコリは吸っちゃいけない気がした。
「あぁ…、だれか……」
お姉ちゃんたち、たぶん心配してるよね…。
きっとこれは、お姉ちゃんのヒコーキを落としちゃって、だれにも何も言わないで探しにきた、あたしへの神様のおしおきなんだろうなぁ…。
なんか、体がつめたく感じる。指先の感覚もなくなってきた。まるで、あたしの体じゃないみたい…。
「……らい…!」
空耳かな。だれかの呼ぶ声が聞こえるような気がした。
呼びかけに応えたい。
でも、もう力が出ない。大きな声も、でない。
壁にぐったりと寄りかかると、自分の体を見た。
周りにたくさんあったホコリが、うでに集まっていた。うではみがいた鉄の表面のようにてかてか光っていて、なんだか気持ち悪い。
だけど、それが当たり前のような気がしてきて、おどろく気持ちは、ない。
「あぁ……あぁァァァァァ…!」
声が勝手に出て、急に頭にぼんやりと雲がかかってくる。体は思うように動かせない。石になっちゃったみたいに。
パタパタとかけてくる足音。
急にひらける視界。
周りが暗く感じない。
「………未来…!」
あぁ、みずきお姉ちゃんが見える。
うれしい…、うれしいんだけど…。
「…きちゃ、ダメ…!」
声はでた。必死に、お姉ちゃんに呼びかける。
でも、こんなちっちゃな声だと、きっと聞こえない。
心に、届かない。
「こない…で…」
助けに、来てくれたのは、とっても、うれしいよ……。
だけど、今、お姉ちゃんを、近くて見たら、あたしは、きっと…。
きっと、お姉ちゃんを、たべちゃう。