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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

『カテゴリーD(廃棄物)』と切り捨てられたコンビニ店員のリアル・ゾンビサバイバル 〜ゲーム脳を捨てて無人島を開拓したら、俺を見捨てた『カテゴリーA』の上級国民たちが食料を乞いに来たけれど、もう遅い〜

掲載日:2026/10/16

【御礼!パニック〔SF〕日間・週間・月間ランキング第1位(三冠達成)&年間19位!】

たくさんのブックマーク・評価・リアクション、本当にありがとうございます!

現役イタリア人シェフの知識を詰め込んだ、魔法なしの100%リアルな無人島開拓&料理サバイバル(1話完結)をお楽しみください!


【1日目】


 三千四百時間。


 それが、世界が崩壊するまでに俺がゾンビサバイバルゲームに費やした総プレイ時間だった。


 高校時代の同級生たちが大学を卒業し、エアコンの効いたオフィスでまともな職に就いたり、恋人を作ったりしている間、俺は毎晩モニターの前に座り、仮想空間の缶詰のカロリーを計算し、マウスのクリック一つで銃器を分解し、完璧なバリケードを築き上げていた。


 昼間は眠り、夜は湾岸北部の灰色の郊外にある二十四時間営業のコンビニで夜勤のアルバイトをする。時給九百円のために、酔っ払いやストレスを溜め込んだサラリーマンに怒鳴られる毎日だ。


 俺は負け組だった。そんなことは自分が一番よく分かっていたし、店長も、俺の顔すら見ずにコイントレイに小銭を投げつける客たちも知っていた。


 だからこそ、タバコの棚の上に吊るされた小さなテレビで、アナウンサーが声を震わせながら『急性狂暴化症候群』に関する緊急ニュースを読み上げ始めた時、俺が感じたのは恐怖ではなかった。


 店の大きなガラス窓の向こうで、七月の空は鉛色に澱んでいた。


 客たちは目を血走らせ、顔にサージカルマスクを二枚重ねにして店内に雪崩れ込んできた。まるで不織布の切れ端一枚で、頸動脈を食い千切るほどの噛みつきを防げるとでも思っているかのように。彼らは最後のトイレットペーパーや二リットルの水ペットボトルを奪い合い、通路で押し合いへし合いしていた。


「おい、店員! 裏の倉庫にもうマスクはないのかよ!?」


 スーツ姿の男がレジカウンターを平手で叩きつけ、俺に向かって怒鳴り散らした。


「さっさと確認してこい、ボケ!」


 いつもの卑屈なお辞儀で返事をしようとした、その時だった。


 男の肩越し、ネオンに照らされた歩道を、裸足の女が走っているのが見えた。ブラウスは引き裂かれ、顔の半分はどす黒い血にまみれ、瞳孔の消えた白目を剥いている。


 逃げるために走っているのではない。狩るために走っていた。


 女は赤信号で止まっていた自転車の男の背中に飛びかかると、首の付け根に深く歯を食い込ませ、頭を激しく振って肉を引き千切った。自転車の男が絶叫を上げてアスファルトに崩れ落ちる。目の前のスーツの男は、買い物カゴを取り落として恐怖に凍りついた。


 俺はガラスの向こうで、本物の血が排水溝へと流れ込むのを見つめた。それから、恐怖に引きつる客の顔を見た。


 そして、二十四年の人生で初めて、俺は心から笑った。


 月末に払う家賃の心配はもういらない。終わりのないシフトも、ペコペコ頭を下げることも、自分が最底辺の虫けらとして扱われる社会階級も、全部終わったのだ。


 旧世界は今まさにクラッシュし、新しい世界で攻略本を読んでいるのは俺一人だけだった。


「出て行け」


 俺は自分でも驚くほど静かな声で言った。


「な、なんだと?」


 スーツの男が口ごもった。


 俺はカウンターの裏にあったモップの木製の柄を掴むと、男の胸元に突きつけ、ありったけの力で出口へと押しやった。雑誌コーナーに残っていたもう一人の女性客も一緒に追い立てる。


「店は閉店だ! 今すぐ出て行け!」


 彼らが反論する隙も与えず、街中にパトカーのサイレンが鳴り響き始めるのと同時に、二人を敷居の外へと突き飛ばした。彼らのかかとがセンサーを越えた瞬間、俺は入り口横の操作パネルの鍵を回し、自動ドアのモーターを切って電磁ロックを作動させた。


 心臓が激しく脈打っていたが、パニックではなかった。これは『デイ・ゼロ(初日)』の純粋なアドレナリンだ。何をすべきかは完璧に分かっていた。


 俺はバックヤードに走り、搬入口の重い鉄製シャッターを下ろして内側からかんぬきを掛けた。それから売り場へと戻る。


 コンビニという建物には、構造上たった一つだけ致命的な欠陥がある。全面ガラス張りの箱だということだ。中にいる人間の動きが感染者に見えれば、ガラスが割れるまで押し寄せてくるだろう。


 俺は倉庫から梱包用のガムテープと、折りたたまれた何十枚もの段ボール箱を引っ張り出した。


 四十分もかからずに、内側からガラス窓の隙間を完全に段ボールで貼り尽くし、外からの視界を完全に遮断した。さらに冷や汗を流しながら、飲料コーナーの重いスチール棚から商品をすべて下ろし、ガラス扉の前に次々と倒して二重の鉄のバリケードを築いた。


 最後の棚が鈍い音を立てて床に倒れた時、店内は蛍光灯の低い唸り声だけが響く静寂に包まれた。


 ここは今や要塞だった。何百キロもの食料、水、乾電池、市販薬。そのすべてが俺一人のものだった。


【2日目〜4日目】


 最初の三日間は、思春期の頃に夢想したすべてが現実になったようだった。俺は瓦礫の王になった気分だった。


 まずは賞味期限の短い生鮮食品から片付けた。今まで高くて手が出せなかった高級焼肉弁当、タマゴサンド、生クリームたっぷりのスイーツ、レジ横のホットスナックのフライドチキン。


 クラフトビールの缶を開け、店長室の人間工学チェアに深く腰掛けて机の上に足を乗せ、まるでRPGのアイテム欄を管理するようにノートに食料の在庫を記録していった。


 店の壁の向こうからは、遠くの悲鳴や鳴りっぱなしのクラクション、低空飛行するヘリのローター音、時折響くサイレンが聞こえてきたが、俺にとってはただの環境音(BGM)に過ぎなかった。


 俺はバックヤードにある四つの小さな白黒の防犯カメラモニターを通して外の通りを眺めた。ぎこちなく不自然な動きでアスファルトの上をよろめき歩く影たち。だらりと垂れ下がった腕、大きく開いた口。


「見ろよ、あのバカ」


 二日目の昼、俺はビーフジャーキーを噛み締めながら呟いた。


 モニターの中で、ジャージ姿の若い男がスマホに向かって叫びながら大通りの真ん中を全力疾走し、路地裏から六体の感染者をおびき寄せていた。


「マップのど真ん中を音を立てて走って、スタミナを全部使い果たしてる。ゲームオーバーになって当然だな、お前」


 三日目の夜、テレビの電波が完全に途絶えて灰色の砂嵐に変わる直前、国防警備隊の最後の緊急放送が流れた。


 機械的な音声が、政府指定のセーフゾーン(安全地帯)の座標を繰り返し読み上げていた。内陸部の都市はすべて放棄されたこと。この地域で唯一機能している避難・集結地点は、ここから『南へ七十キロ離れた軍港』であり、そこで海軍のフェリーが生存者を沖合の島々へとピストン輸送していること。


 俺はレジ横のラックから折りたたみ式の道路地図を取り出し、机の上に広げて軍港の周りに赤い丸をつけた。


 七十キロ。ゲームの中なら二十分も走れば横断できるマップだ。現実でも、早足で歩けば二日もあれば着くだろうと計算した。


 だが、急ぐ必要はない。サバイバルの基本ルールは、初期の混乱が収まり、群れ(ホード)が分散するのを待つことだ。俺はこの完璧なシェルターで二週間過ごし、体力を温存してから『メインクエスト』へ出発することに決めた。


 この時の俺は、まだ何も分かっていなかった。


 現実の世界には、プレイヤーを楽しませるために難易度を調整してくれるゲームクリエイターなど存在しないということに。


【5日目〜14日目】


 五日目の午後三時、天井の蛍光灯が二度チカチカと点滅し、消えた。


 壁際の大型冷蔵庫が発していた一定の低い駆動音が、ピタリと止まった。


 段ボールで窓を完全に塞いでいたせいで、店内は一寸先も見えない漆黒の闇に沈んだ。俺は懐中電灯をつけ、「問題ない、アルカリ電池なら箱ごとある」と自分に言い聞かせた。


 だが、俺はゲームには存在しない二つの要素を計算に入れていなかった。熱力学と、バクテリアだ。


 エアコンが止まり、日本の猛暑の太陽に照りつけられた密閉状態のコンビニは、鉄とコンクリートの巨大なオーブンへと変貌した。二十四時間もしないうちに店内の気温は三十八度を超えた。


 そして四十八時間が経つ頃には、電源の落ちた冷蔵庫や冷凍庫に残されていたすべて――何百本もの牛乳、精肉、魚、溶けたアイスクリーム、袋詰めのサラダ――が発酵し、腐敗し始めたのだ。


 七日目には、悪臭が充満した。


 単なる生ゴミの臭いではない。喉の奥や衣服にまとわりつくような、濃密で甘ったるく、酸っぱい瘴気だった。暗闇の中、目に入る汗に顔をしかめながら、腐った食品を黒いゴミ袋に詰め込もうとしたが、腐敗ガスでビニールがパンパンに膨れ上がり、次々と破裂した。


 その日の夜、俺はバックヤードの床に初めて嘔吐した。


 そして、口をゆすいでトイレを流そうと洗面所に向かい、蛇口をひねった時、乾いたゴボゴボという音だけが響いた。


 都市の水道網の水圧が落ち、断水したのだ。水も出なければ、トイレも流せない。


 棚にあった猫砂を使って臭いを誤魔化しながらレジ袋の中に排泄し、電池を節約するために真っ暗な四畳ほどの店長室に閉じこもるうち、俺の精神は音を立てて崩れ始めた。


 外のゾンビたちは、ゲームの画面を切り替えた時のように「分散」したりはしなかった。屋上の換気口から漏れ出る腐肉の臭いに引き寄せられたのか、店の周りに留まり続けていたのだ。


 ドンッ。


 カリカリ、カリカリ……。


 すぐ数メートル先のガラスを叩く鈍い音。続いて、割れた爪がシャッターの鉄板を引っ掻く音。


 それは五分で終わって勝利のファンファーレが鳴るようなイベントではなかった。何時間も、昼も夜も、永遠に続くのだ。


 完全な暗闇の中では、ガラスが今にも割れそうなのかすら分からない。スチール棚が軋むたびに心臓が喉から飛び出しそうになり、手が震えて懐中電灯を取り落とし、過呼吸で息ができなくなった。


 自分の状態を示すHPバーなどどこにもない。あるのは、生温かい缶詰ばかり食べているせいで差し込む胃痙攣、ひび割れた唇、酸化した汗でベタつく肌、そして暗闇の隅に動く影を見せる強烈な不眠症だけだった。


 十二日目には、俺はもう笑っていなかった。


 机の下で膝を抱えてうずくまり、両手で耳を塞ぎながら、ガラスを引っ掻くあの音が止むことだけを祈って泣きじゃくっていた。


【15日目】


 十五日目の夜明け、あと二十四時間もここに閉じこもっていれば、発狂するか感染症で死ぬかのどちらかだと悟った。外に出なければならない。七十キロ先の軍港へ向かうしかないのだ。


 その前日、裏路地に面した勝手口の小さなドアスコープから外を覗いていた俺は、自分の愚かなゲーマー脳の最後の火花を散らせるようなものを見つけていた。


 狭い路地裏で、事故の衝撃で倒れたらしい重い飲料用の自動販売機の下敷きになって、一人の地域警察官が動けなくなっていた。


 すでに感染しており、顎の半分が千切れ、黒い液体を喉に詰まらせながら虚空に向かって腕を振り回していたが、骨盤から下は二百キロの鉄の塊に完全に押し潰されていた。


 そして彼の右腰のホルスターには、拳銃が収まっていた。本物の、日本の警察が使用する38口径のリボルバーだ。


『銃だ』と、俺は血走った目で考えた。『あの銃さえ手に入れれば、俺は助かる。出発できる』


 俺は映画やゲームで見た通りの準備をした。


 分厚い漫画雑誌を前腕とふくらはぎに巻きつけ、噛みつきを防ぐアーマーにするために灰色のダクトテープで何重にもぐるぐる巻きにした。リュックサックに水のペットボトル、栄養バー、絆創膏の箱を詰め込む。そして、倉庫の工具箱にあった重い鋼鉄製のバールを握りしめた。


 冷や汗で濡れた手で内側のシャッターを五十センチだけ持ち上げ、勝手口のかんぬきを外して、眩しい朝の光の中へと滑り出た。


 外の空気は暑かったが、二週間もの間ガス室のような店内にいた俺には新鮮にすら感じられた――挟まれた警官に近づくまでは。


 彼から二メートルの距離まで近づいた瞬間、猛烈な悪臭が鳩尾に拳を叩き込まれたかのように襲いかかった。排泄物、太陽に焼かれて凝固した血、そして壊死した肉の臭いだ。


 警官は乾いた頸椎を軋ませながらこちらへ首を回し、黄色く濁った目を見開いて、黒い土にまみれた指を俺の足首へと伸ばしてきた。


「動くな……今すぐ終わらせてやる」


 俺は裏返った声で呟いた。バールを頭上に振り上げ、その頭蓋骨めがけて振り下ろした。


 ゲームなら、鉄パイプで頭を殴れば小気味よい音がして、敵はアイテムを漁るための動かない死体になる。


 だが現実は違った。


 鋼鉄のバールは前頭骨にぶつかって金属音にも似た鈍い音を響かせ、そのまま横に『弾かれた』のだ。衝撃の振動が手首から肩まで突き抜け、危うくバールを取り落としそうになった。


 ゾンビは死ぬどころか、額が裂けてどす黒い血が噴き出し、俺のパーカーの胸元と靴を汚しただけだった。奴はさらに凶暴に宙を噛み鳴らし、万力のような力で俺のズボンの裾を掴んだ。


「うわあああっ!」


 俺は悲鳴を上げた。恐怖にパニックを起こした子供のような、甲高いヒステリックな叫び声だった。


 足を引こうとして汚れたアスファルトの上に膝から崩れ落ち、俺は滅茶苦茶にバールを振り回し始めた。一回、二回、五回、十回。人間の頭蓋骨は悪魔のように硬く、バールはぬるぬるした皮膚や血まみれの髪の毛の上を何度も滑った。


 乳酸で腕の筋肉が焼けつくように痛み、涙で視界が滲む中、頭蓋骨が完全に陥没して奴の指が俺の足首から離れるまでに、絶望的な殴打を五分近くも続けなければならなかった。


 俺は路地裏に膝をついたまま、フルマラソンを走り切った後のように激しく喘ぎ、吐き気で口の中に溜まった酸っぱい胃液を地面に吐き出した。頭のてっぺんからつま先まで震えが止まらなかった。


 銃を手に入れるには「ボタンを押す」だけでは済まない。まだ生温かく悪臭を放つ死体に震える手を伸ばし、硬い革製のホルスターの留め具を外し、店から持ってきたカッターナイフを使って、銃とベルトを繋いでいるワイヤー入りのカールコードを必死にのこぎりのように引き切らなければならなかった。


 特殊警棒も抜き取り、動画サイトの解説で見た通りにリボルバーのシリンダーを開いて真鍮の薬莢を数えた。


『五発』。


 ポケットに予備の弾はない。たったの五発だけだ。


 俺はよろめきながら立ち上がり、両手でリボルバーを構えて路地裏から大通りへと出た。海までの七十キロの旅の始まりだった。


 大通りは、ドアが開け放たれ、割れたガラスがアスファルトに散乱する衝突事故車の墓場だった。


 壁際に沿って二百メートルも進まないうちに、焼け焦げた配送トラックの陰から五体の感染者が姿を現した。作業着姿の男が三人、老婆が一人、そして若い男が一人。奴らはすぐに俺に気づいた。喉を鳴らす不気味な唸り声を上げ、俺の行く手を塞ぐようにこちらへ歩み寄ってくる。


 シリンダーには五発の弾丸。敵は五体。


 最後の、そして致命的な一瞬の間だけ、俺のゲーマー脳が再び主導権を握った。


『五発で、五回のヘッドショット。クリーンに、素早く片付ける』


 俺は銃を目の高さに構え、四メートル先にいる最初の作業員の額に照準を合わせ、引き金を引いた。


 俺は何も分かっていなかった。


 第一に、本物のリボルバーをダブルアクションで撃つ引き金は、コントローラーのR2ボタンではない。信じられないほど重く、何キロもの指の力を必要とする。震える人差し指で無理やり引き金を絞り込んだ瞬間、銃口が自分でも気づかないうちに右へ三センチずれていた。


 第二に、銃声だ。


 ズガァンッ!!


 耳栓もなしにコンクリートのビルに挟まれた通りで38口径を撃つというのは、両方の鼓膜を力任せに平手打ちされるのと同じだった。あまりにも暴力的で凄まじい轟音に、聴覚が一瞬で吹き飛び、脳の真ん中でキィィィンという鋭い耳鳴りだけが鳴り響いた。


 鋭い反動で痛む手首が跳ね上がり、弾丸はゾンビを完全に外れて三メートル後ろの車の窓ガラスを粉々に砕いた。


 黒い波のようなパニックが俺を飲み込んだ。


 五体の感染者は止まらないどころか足を速め、俺の顔に向かって手を伸ばしてきた。画面の照準などどこにもない。耳は鳴り続け、腕は鉛のように重く、心拍数は二百に達していた。


 俺は再び撃った。さらに一発、もう一発。後ずさりしながら痙攣するように引き金を引き続けた。


 バン! バン! バン! バン!


 カチッ。


 たった四秒で、俺は弾倉を空にした。


 至近距離からパニック状態で撃った五発のうち、一発は空へ消え、二発は作業員の肩と鎖骨に当たったものの奴の足を止めることすらできず、残りの二発だけが――純粋な確率の奇跡によって――老婆の片目と若い男の首の付け根を貫き、アスファルトに沈めた。


 空の銃がカチリと音を立てるのと同時に、残りの三体が俺に覆いかぶさってきた。


 肩を撃たれた作業員が全体重をかけて俺にぶつかり、俺は灼熱の車のボンネットの上に背中から倒れ込み、そのままガラスの破片が散乱するアスファルトへと転がり落ちた。両膝と両肘の皮がズル剥けになり、赤い生肉が露出する。感染者の歯が、漫画雑誌で保護した俺の前腕からわずか二センチのところで空を切り、狂犬のような猛烈さでダクトテープと紙を引き裂いた。


 そこから先に、英雄的なシーンなど一つもなかった。


 泥と血にまみれた、必死で、不格好で、汚らしい乱闘だった。俺は空になった銃を放り投げ、特殊警棒とバールを引き抜くと、地面を転がりながら奴らの脚、膝、首、顔を闇雲に殴りつけた。這い回る死体の腹を蹴り飛ばして拘束を解き、四つん這いで必死に後ずさりしながら、ようやく一体の膝蓋骨を砕き、残りの二体のこめかみを陥没させた。


 どうにか立ち上がった時、俺のズボンは引き裂かれ、両膝からは血が滴り落ち、胃は嘔吐感で激しく収縮し、肺が焼けるように痛んで息を吸うことすらままならなかった。


 だが、最悪の事態は、耳鳴りが少しずつ引き始めた時にやってきた。


 五発の銃声は、死んだように静まり返った街の中で、砂漠で鳴らした鐘のように響き渡っていたのだ。


 脇道から、マンションの一階の割れた窓から、大通りの曲がり角の向こうから、何百ものしゃがれた唸り声の合唱と、何十、何百という足音が地面を引きずりながらこちらへ近づいてくる音が聞こえた。


 俺は地面に転がる三体のゾンビと、砕けた脚を引きずりながらまだ俺に向かって這い寄ってくる二体を見下ろした。たった四体を無力化するのに、すべての銃弾を使い果たし、三度も死にかけ、バールを握る腕すら持ち上がらないほど肉体的にボロボロになっていた。


 役に立たない空の拳銃を地面から拾い上げ、背の高い雑草に身を隠すために鉄道の線路の盛り土へと必死に足を引きずり始めた、まさにその瞬間――ゾンビゲームに熱中していたあの男は、永遠に死んだ。


 俺はヒーローじゃない。伝説のサバイバーでもない。ただの弱くて、鈍重で、やかましい肉塊だ。


 そして俺の目の前には、まだ七十キロの地獄が残されていた。

【16日目〜22日目】


 ゲームの中で七十キロのマップを横断する時は、コントローラーのスティックを前に倒し、キャラクターが休むことなく走り続けるのを眺めていればいい。怪我をしても、白い包帯を三秒間腕に巻きつければ、体力ゲージは緑色に戻る。


 だが現実では、十八日目になる頃には、俺はもう靴を脱ぐことすらできなくなっていた。


 俺は衝突事故車が死の迷路を作っている舗装道路を避け、放棄された鉄道の線路の砂利の上を四晩かけて歩き続けた。


 レジの立ち仕事用にディスカウントストアで買った三千円のスニーカーは、すでに靴底が擦り減って剥がれかけていた。汗と血で硬くこわばった靴下の下で、かかとや足の裏の皮膚は巨大な水ぶくれとなって膨れ上がり、行軍の二日目にはすべて破裂していた。線路の尖った砕石の上を踏みしめる一歩一歩が、焼けたナイフで足の裏を突き刺されるような激痛に変わっていた。


 アスファルトに転倒した時に負った両膝の擦り傷も、治ってはいなかった。砂埃にまみれ、破れたズボンの下に密閉された傷口は化膿していた。かさぶたの周囲は赤く腫れ上がって熱を持ち、黄色い膿が滲み出ては布地と生肉を張り付かせていた。


 俺はもう戦わなかった。嫌というほど教訓を学んだからだ。俺はゴキブリになった。


 風に乗って呻き声が聞こえたり、荒れ果てた畑の向こうに動く影が見えたりした瞬間、イラクサや乾いた泥だらけの用水路に腹ばいになって身を投げ出し、脅威が完全に去るまで二時間でも微動だにせず息を潜めた。


 二十日目に水の備蓄が尽きると、渇きのあまり狂いそうになり、無人の田舎駅のホームにある電源の落ちた自動販売機をバールでこじ開けた。


 震える糸のようになった腕の筋肉を酷使し、できるだけ音を立てないように扉の隙間にバールを差し込んでテコの原理で力を込め、鉄板を曲げるのに丸一時間もかかった。そうしてようやく引きずり出したのは、甘い缶のお茶と、焼けたプラスチックの味がする生温かいペットボトルの水だった。


 昼間は眠った。郊外の駐車場に放置された車のトランクの中に閉じこもり、窒息しないように扉をほんの一センチだけ浮かせておいた。


 二十一日目、古い灰色のセダンの灼熱のトランクの中で胎児のように丸まっていた時、少なくとも三十体以上の感染者の群れが県道を通過していった。


 奴らはあまりにも近くを歩いていたため、俺の背中からわずか十センチしか離れていないリアバンパーに奴らの膝がぶつかる音がした。皮が剥けた裸足がアスファルトを引きずる音、腐りかけた肺が鳴らす濁った水音、そしてゴムパッキンの隙間から入り込んでくる耐え難い死肉の悪臭。


 俺は暗闇の中で九十分間、自分の呼吸音を殺すために両手で口を強く塞ぎ、鼻筋を伝って埃まみれのマットに零れ落ちる涙を拭うこともできずに震え続けた。


『耐えろ』


 空腹の痙攣に胃をねじり上げられながら、俺は祈るように頭の中で繰り返した。


『あと二十キロだ。軍港に行けば自衛隊がいる。医者もいるし、脚の化膿を治す抗生物質も、清潔なベッドも、船もある。マップの端までたどり着きさえすればいいんだ』


【25日目】


 二十五日目の夜明け、ついに海が見えた。


 最後の雑木林の丘を越えると、道路は軍港および商業港の広大なコンクリートの敷地へと下っていた。錆びついたガードレールの陰で足を止め、眼下を見下ろした瞬間、俺は膝から力が抜けて朝露に濡れた草の上に崩れ落ち、歓喜にむせび泣いた。


 セーフゾーン(安全地帯)は本当に存在していた。崩壊していなかったのだ。


 高さ四メートルのプレハブ式コンクリート壁が埠頭の周囲をぐるりと取り囲み、その上にはカミソリ状の有刺鉄線が幾重にも張り巡らされていた。監視塔の上では強力なハロゲン投光器が輝き、暴動鎮圧用の装備とアサルトライフルを携えた国防警備隊の兵士たちが通路を巡回しているのが見えた。


 そして防壁の向こう、メイン埠頭には、白と青の巨大なフェリーが停泊していた。煙突からは黒い煙が立ち昇っている。エンジンはすでに始動しており、いつでも沖合の島々へ向けて出港できる状態だった。


 やり遂げたのだ。俺はこのゲームをクリアしたんだ。


 俺は老人の杖のようにバールに体重を預けて立ち上がった。骨の浮き出た肩に空のリュックサックを背負い直し、少しでもまともな見た目になるように泥で固まった髪を手ぐしで整えると、中央検問所のゲートへと続くスロープを足を引きずりながら下りていった。


 装甲ゲートまであと五十メートルというところで、メガホンで増幅された機械的な声が頭上から響き渡った。


『止まれ! 黄色い線の上で停止しろ! 両手をよく見える位置に上げ、鈍器や武器はすべて地面に捨てろ!』


 俺はすぐにバールをアスファルトの上にカランと落とし、震える両手を頭上に掲げた。警官の空のリボルバーはパーカーの下、背中のベルトに挟んで隠してあったが、それを申告しようと考える気力すら残っていなかった。


『識別窓口までゆっくりと前進しろ!』


 メガホンが命じた。


 俺は右脚を引きずりながら最後の二十メートルを進み、外周壁に埋め込まれた鉄筋コンクリートのブースの前にたどり着いた。そこには扉はなく、鋼鉄の格子で補強された分厚い防弾ガラスと、その下に夜間銀行の窓口にあるような金属製の受け渡し用トレイがあるだけだった。


 防弾ガラスの向こう側、白い蛍光灯に照らされ、明らかにエアコンの効いた涼しげな室内には二人の男がいた。


 一人はヘルメットとタクティカルマスクを着けた兵士。もう一人は、ノートパソコンと紙の台帳が置かれたデスクの前で回転椅子に座っている四十代くらいの政府職員だった。アイロンの効いた白いワイシャツを着て、綺麗に髭を剃り、紙コップから温かいコーヒーをすすっている。


 俺は乾いた血がこびりついた指を鋼鉄の格子に押し当て、そのコーヒーの紙コップを砂漠の蜃気楼でも見るかのように見つめた。


「助けてください……」


 インターホン越しに絞り出した俺の声は、喉がカラカラに張り付いて紙やすりのように掠れていた。


「お願いします、北から七十キロ歩いてきたんです。噛まれていません、調べてくれて構いません。ただ膝の傷が化膿していて……医者に診てもらいたいんです」


 白いワイシャツの職員は、パソコンの画面から目すら上げなかった。苛立たしいほどゆっくりとした動作でコーヒーの紙コップを置き、マイクのボタンを押した。


『氏名、年齢、家族構成、および証明可能な職業資格を述べよ』


 俺は混乱して瞬きをした。


「え……?」


『時間を無駄にさせるな』


 ガラスの向こうの男は、退勤間際の郵便局員のような退屈そうな声で言い放った。


『緊急避難プロトコルでは、社会的有用性のランクに基づく選別が定められている。氏名、年齢、職業だ』


「俺は……二十四歳です」


 朝の暑さにもかかわらず、背筋に氷のように冷たい悪寒が走るのを感じながら俺は口ごもった。


「家族はいません。仕事は……コンビニで働いていました。夜勤のアルバイトです」


『技術資格は? 医学、機械工学、農学、化学の学位、あるいは警察・自衛隊、重機建設の経験はあるか?』


「いえ、俺は……レジ打ちと品出しをしていました。でも働けます! 何でもやります、荷運びでも、床掃除でも……」


 ようやく、職員が顔を上げた。分厚いガラス越しに、俺を頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように見た。黒ずんだ汚れのついたパーカー、ダクトテープが巻かれた骸骨のように細い腕、まばらに伸びた無精髭、そして落ち窪んだ目。


 男の顔には、憐れみも嫌悪も浮かばなかった。ただ、歩道に放置されたゴミ袋を見る時のような、完全な無関心だけがあった。


『対象、男性、二十四歳、非熟練労働者。カテゴリーD』


 職員は隣の兵士に低い声で記録を指示すると、再びマイクに向かって口を開いた。


『乗船申請を却下する。安全圏内の島々は居住および農業生産のキャパシティが厳しく制限されているため、受け入れはカテゴリーA、B、Cに限定されている。カテゴリーDの民間人は内陸部の収容キャンプへ向かえ』


「内陸のキャンプなんかもうどこにもない!」


 俺は防弾ガラスを両手のひらで激しく叩きながら叫んだ。


「街は死んだんだ! 外にはあの化け物しかいない! ここまで十日間も歩いてきたんだ、見捨てないでくれ! あの船を見てくれよ、甲板は半分も空いてるじゃないか、まだ乗れるスペースはあるだろ!」


『フェリーの残りのスペースはすでに割り当てが決まっている』


 職員は、俺の手の脂が防弾ガラスに付着したことに不快そうに眉をひそめて答えた。


『エンジンを切らずに待機しているのは、東の海岸線から最後の優先車列が到着するのを待っているからだ。二時間遅れている保健委員会の桜井副局長と、そのカテゴリーAのスタッフたちのための予約席だ。たとえ船室が十室空いていたとしても、コンビニのアルバイト一人を養うために島の貴重な食料配給を浪費することはない』


 その言葉は、38口径のリボルバーの反動よりも強く俺を打ちのめした。


 俺は防弾ガラスに両手を張り付かせたまま凍りつき、喉の奥で息が詰まった。


 パンデミックの初日、俺は笑ったのだ。


 狭い自室に閉じこもっていたガキの惨めな妄想の中で、世界の終わりがすべてをリセットしてくれたのだと本気で信じていた。金も、学歴も、ブランド物の服も、社会階級も、文明と一緒に燃え尽きたのだと思っていた。


 だが、現実はこれだ。


 厚さ四センチの防弾ガラスの向こう側で、エアコンの風に当たりながら温かいコーヒーを飲み、誰に呼吸する権利があり、誰がアスファルトの上で腐り果てるべきかを決めている。


 俺は時給九百円でいつでも交換可能な人間のクズとして終末の世界に入り、茶碗一杯の米の価値すらない『カテゴリーDの廃棄物』として弾き出されたのだ。


『荷物を拾って外周壁から三百メートル以上離れるのに、六十秒与える』


 職員はマイクのボタンから指を離しながら締めくくった。


『六十一秒目には、監視塔の狙撃手が貴様を感染者と見なして発砲する命令になっている』


 隣の兵士がレバーを引いた。金属製の受け渡し用トレイがガチャンと乾いた音を立てて外側へせり出した。


 中に入っていたのは、緑色のビニールで密封された小さな袋がたった一つ。軍用の非常用乾パンが二枚だけ入っていた。吠えて邪魔をする野良犬を追い払うために地面に投げ与える、施しの餌だった。


 頭上の監視塔から、スナイパーライフルのボルトを引く金属音が聞こえた。俺の右手の甲の上に、赤いレーザーサイトーの点が浮かび上がった。


 俺はもう何も言わなかった。泣きもしなかった。涙なら三日前、あの車のトランクの中で全部枯れ果てていた。


 俺はトレイに手を突っ込んで乾パンの袋を掴み、足を引きずりながら戻ってアスファルトの上のバールを拾い上げると、軍港に背を向けた。


【26日目】


 その夜は、軍港から東へ二キロほど離れた、海に切り立つ石灰岩の崖に空いた自然の洞窟に身を隠して過ごした。


 石膏のように硬く、何の味もしない軍用の乾パンを一枚だけ奥歯で噛み砕きながら、暗闇の中でまだ埠頭に停泊し続けているフェリーの白い明かりを見つめていた。船はまだ出港していなかった。本当にあの『カテゴリーA』の大物とやらを待ち続けているのだ。


 二十六日目の夜明け、俺はコンクリートの壁と狙撃手から少しでも遠くへ離れようと、断崖に沿った古い海岸道路を歩き始めた。俺の胸の中にはもう、恐怖も希望もなかった。ただ冷たくて重い、静かな虚無だけがあった。


 松の木が並ぶ見晴らしのいい上り坂を三キロほど進んだ時、急なヘアピンカーブの向こうから、焦げたゴムとラジエーター液の鼻を突く臭いが漂ってきた。


 俺はすぐに足を止め、木の幹に身を寄せてバールを構えた。


 道路の真ん中には、即席の検問所か、あるいは失敗した待ち伏せの残骸が散乱していた。頭蓋骨を砕かれた三つの死体がアスファルトに転がり、その少し先では、ダッシュボードに青い回転灯を乗せた黒塗りの大型政府公用車が死体を避けようとしてスリップし、ガードレールを突き破って崖の岩壁にぶつかり、横転していた。


 車から四十メートルほど離れた道路上では、首や顔に深い噛み傷を負ってすでに感染者と化した防弾チョッキ姿の護衛官が二人と、森から出てきたボロボロの服を着た三体のゾンビがうろついていた。ひしゃげた公用車のボンネットから立ち昇る白い煙に引き寄せられ、ゆっくりと車へ近づいている。


 奴らを避けて森の中を大きく迂回しようとした、その時だった。横転した車の内部から、鈍い音が響いた。


 ガン、ガン、ガン!


 誰かが内側から、空に向かってハッチのように上を向いている助手席の窓ガラスを叩いていた。


 俺は茂みに身を隠したまま数歩近づいた。公用車は防弾仕様だった。ガラスは分厚く、衝突の衝撃にも耐えて中央に白いひび割れの蜘蛛の巣を作っているだけだった。だが、岩壁に激突した際、道路標識の重い鉄柱が折れ曲がって上側のドアの上に覆いかぶさるように倒れ込み、ドアノブに引っかかって中から押し開けるのを完全に防いでいたのだ。


 ひび割れたガラスの向こうに、五十五歳くらいの男の顔が見えた。


 白髪交じりの髪をオールバックに撫でつけ、額には汗を浮かべているものの傷一つなく、水色のシャツの上に仕立ての良いグレーのオーダースーツを着ている。そして首から下げた金色のストラップには、胸元で誇らしげに輝く赤いラミネート加工のパスが揺れていた。そこには大きな文字でこう印字されていた。


『A』。


 桜井副局長。海軍のフェリーが一隻まるごと、二十四時間もエンジンを切らずに待ち続けている男だった。


 男が首を回し、車から五メートル離れた木々の間に立つ俺の姿を見つけると、その目が輝いた。だが、それは感謝の光ではなかった。タクシーを長時間待たされた客が見せる、傲慢な苛立ちの色だった。


 男は金の指輪をはめた拳でガラスを叩き、歪んだドアのゴムパッキンの隙間から、くぐもっているがはっきりと聞き取れる声で怒鳴りつけた。


「おい、そこのお前! 若いの! 突っ立ってないで何を見てるんだ!?」


 俺は凍りついた。その声色。その抑揚。


 それは初日、俺のレジカウンターを平手で叩きつけ、マスクを出せと怒鳴り散らしたあのスーツの男と全く同じ声だった。


「手に鉄のバールを持ってるだろうが!」


 桜井副局長は防弾仕様の箱の中から喚き続け、道路上の五体の感染者が三十メートル以内まで近づいてきているというのに、自分の頭上に倒れ込んでいる標識の鉄柱を指差した。


「さっさとそれをテコにしてドアの上の鉄柱をどかせ、バカ者! 私を誰だと思ってるんだ!? 保健委員会の桜井副局長だぞ! 港では私のためにフェリーを出港させずに待っているんだ! 今すぐ私をここから引っ張り出して、埠頭まで私のブリーフケースを運べば、警備兵に言って私の個人助手として船に乗せてやってもいい! さっさと動け!」


 俺はドアの上の鉄柱を見つめた。


 引っかかっているのは浅い部分だけだ。俺の持っている鋼鉄のバールを使えば、文字通り三秒力を込めるだけで横に滑り落とせるだろう。感染者たちはまだ遠く、動きも鈍い。


 このドアを開け、この男を引きずり出し、あの金色のパスを掲げて白いワイシャツの職員の窓口まで歩いていけば、あいつが真っ青になって安全地帯のゲートを開ける様を見られるだろう。


 そうすれば俺は助かる。清潔なベッドも、薬も、船の席も手に入る。


 こいつの鞄持ちとして。カテゴリーAの飼い主のために棒を咥えて持ってきた、カテゴリーDの忠犬として。


 俺は木々の間から二歩踏み出し、アスファルトに出て公用車のボンネットのすぐ横に立った。


 桜井は俺が命令に従うものと思い込んで笑みを浮かべ、すでに内側からドアに肩を押し当てて開ける準備を始めていた。


「そうだ、それでいい、あの化け物どもが近づいてくる前に早くしろ!」


 俺は鉄柱の下にバールを差し込まなかった。


 ズボンのポケットに手を突っ込み、昨日砂埃の中に投げ与えられた、最後の軍用乾パンが入った緑色のビニール袋を取り出した。そしてそれを、副局長の目の前、傾いた車のルーフの上にそっと置いた。軍のスタンプがはっきりと読める向きにして。


 男の顔から笑みが消えた。


「な……何をしている? 早くその鉄柱をどかせ!」


 俺は左手を背中に回し、乾いた血にまみれたパーカーの下から、警官の38口径リボルバーを引き抜いた。五つの空の薬室。なぜ自分がそんなものを七十キロも持ち歩いてきたのか分からなかった、八百グラムの無用な鉄の塊。


 今、その理由が分かった。


 桜井が顔を押しつけているサイドウィンドウは防弾フィルムで繋がっていたが、岩壁に激突してすでに半分陥没しているフロントガラスは、最後のひび割れたガラスの層一枚で車内と外を隔てているだけだった。


 俺は空のリボルバーの銃身を握り、ハンマーのように高く振り上げた。


 桜井はすべてを悟った。両目を大きく見開き、綺麗に髭を剃った頬から一瞬にして血の気が引き、声にならない悲鳴を上げて口を開いた。


「ま、待て! 金を払う! 望むものは何でも――」


 俺は体に残っていた最後の力をすべて込め、損傷したフロントガラスのど真ん中に鋼鉄のグリップを振り下ろした。


 バキィッ!! ガシャアァンッ!!


 乾いた強烈な破壊音が断崖の岩壁に反響した。フロントガラスは一気に限界を超えて内側へと崩れ落ち、不透明なガラスの破片の雨を降らせながら、ダッシュボードの真ん前に直径五十センチほどの大穴を開けた。


 俺はその開いたばかりの穴から、役に立たない空の拳銃を車内へとポイと投げ入れた。


 ガラスの砕ける轟音を聞いて、道路上の五体の感染者が飢えた咆哮を上げて一斉に駆け出し、丘の上の森の中からも新たな唸り声がいくつも上がった。今まで密閉された車内に閉じ込められていた副局長の新鮮で生きた肉の匂いが、朝の空気の中へと一気に広がったのだ。


「やめろ! 貴様、やめろぉっ! 助けてくれ! 警備兵! 誰かぁぁぁっ!」


 俺は極めて冷静に踵を返し、バールを肩に担ぎ直すと、歩調を速めることすらなく上り坂の道路を歩き始めた。


 背後から桜井のヒステリックな絶叫が聞こえ、続いて公用車のボンネットに複数の肉体が飛び乗る鈍い音、割れたフロントガラス越しに高級スーツが引き裂かれる音、そして最後に、もはや人間のものとは思えない押し殺したような水音が響いた。


 軍港では、これからもまだ何時間もフェリーのエンジンをかけたまま、双眼鏡で道路を睨みつけ、彼らの貴重な『カテゴリーA』の市民の到着を待ち続けることだろう。


 二百メートルほど進むと、海岸道路は誰もいない展望広場へと出た。


 俺は断崖の端に立ち止まり、太陽に照らされた大海原を見渡した。


 政府のフェリーの航路からは遠く離れた、入り組んだ海岸線からわずか三、四キロほどの青い海の上に、小さな岩だらけの島の荒々しい輪郭が浮かび上がっていた。濃い緑の木々に覆われ、古い放棄された段々畑が見える。そこには投光器も、コンクリートの壁も、サイレンも、社会的有用性のランク付けもなかった。


 潮風が額の汗を乾かしていくのを感じた。


 旧世界は死に、それと同時に旧世界の支配者たちも死んだのだ。


 今や、やるべきことは一つしか残されていなかった。道具を手に入れ、あの海を渡り、そして本当の意味で生き始めることだ。


【26日目〜28日目】


 これまでの三週間、俺は追われる獣の目で世界を見ていた。暗闇の中で丸呑みするための調理済み缶詰だけを探し回っていたのだ。


 だが、岩だらけの岬から軍港の十キロ先にある小さな海辺の集落『黒潮』へと下りていく間、俺の頭の中は全く別の動き方をしていた。


 今夜をしのぐための一食を探しているのではない。これからの人生を築き上げるための「レンガ」を探していたのだ。


 集落は、避難の初期段階で住民たちが慌てて放棄した場所だった。車を持っている者は皆、軍港へと走り去っており、メインストリートにある三軒の小さなスーパーマーケットは窓ガラスが割られ、調理済み食品の棚は完全に空っぽになっていた。


 だが、パニックに目が眩み、政府が自分たちの面倒を見てくれると信じ込んでいた避難民たちは、それ以外のすべてを無視していた。


 俺はまず、町営の薬局から始めた。


 バールで裏口をこじ開け、懐中電灯を歯で咥えてバックヤードに入り、何よりも先に自分の身体の手当てをした。リノリウムの床に座り込み、ハサミを使って生肉に張り付いた汚いズボンを切り裂き、化膿した両膝の傷口にヨード液の消毒薬を直接ドボドボと注ぎかけた。


 溶けた鉛を浴びせられたかのように焼けつき、顎が震えるほど奥歯を噛み締めたが、うめき声一つ漏らさなかった。


 滅菌ガーゼで黄色い膿を綺麗に拭き取り、抗生物質の軟膏をたっぷりと塗りたくって清潔な包帯を巻き、少量の水で広域抗生物質(アモキシシリン)の錠剤を二粒飲み込んだ。それから棚にあった大型のスポーツバッグを二つ手に取り、引き出しの中身をすべて詰め込んだ。何十箱もの抗生物質、消炎剤、鎮痛剤、経口補水塩の粉末、医療用の縫合糸と針、ピンセット、消毒用エタノール、そしてマルチビタミンのボトルをケースごと回収した。


 二番目の目的地は、通りの角にある建設作業員や林業従事者向けのワークウェア専門店だった。誰一人として足を踏み入れた形跡すらなかった。


 俺は血まみれのボロ雑巾と化した三千円のスニーカーを脱ぎ捨て、隅に放り投げた。極厚のメリノウールの靴下を履き、つま先に鋼鉄の先芯が入った防水オイルドレザーの登山兼作業用ブーツに足を通した。靴紐を固く締め上げた瞬間、この一ヶ月で初めて足首がしっかりと守られている感覚があった。


 防刃・耐摩耗生地のカーゴパンツ、保温インナー、多機能ポケット付きの厚手のマウンテンパーカーを身につけ、さらに倉庫用の大型四輪台車の上に、夏用と冬用の着替えを五セットずつ、牛床革の作業手袋、日よけの帽子、雨用の防水カッパ、そして冬用の寝袋二つと一緒に分厚いキルティング毛布を六枚積み上げた。


 俺は人気のない通りに沿って台車を押し、町の書店と、集落の外れにある巨大な農業協同組合(JA)兼ホームセンターへと向かった。


 書店では、かつて俺の人生のすべてだった漫画や小説の棚には目もくれなかった。実用書コーナーへ直行し、プラスチックのコンテナ二箱を俺の新しい『攻略本』でいっぱいにした。『農業と家庭菜園の実践大百科』『日本の食べられる野草・山菜図鑑』『農村建築と木工大工の技術書』『ロープワークと沿岸漁業の手引き』、そして分厚い大学病院向けの『救急医療マニュアル』だ。


 ホームセンターと農協の資材館では、二十七日目の丸一日を費やし、スーツを着た「教育のある」連中が見向きもしなかったものを機械のような正確さで徹底的に集め回った。


 フルタング構造の炭素鋼サバイバルナイフを二本、スイスアーミーナイフ(多機能ポケットナイフ)を三本、粒度の異なる砥石を数種類、薪割り用の斧を二丁、折り畳み式のノコギリ、藪を払うための鉈(なた)、鍬(くわ)を二丁、スコップ、ハンマー、そして鋼鉄製の釘や木ネジの箱。


 さらに船舶用ロープのロール、軍用パラコード三百メートル、銀色のダクトテープ二十巻、針金のリール、そして雨水を集めるための巨大な青い防水ブルーシートを五枚追加した。


 園芸コーナーでは、種子の陳列棚を空にした。アルミ袋に真空パックされた何百袋もの種――ジャガイモ、高カロリーなサツマイモ、大根、大豆、冬カボチャ、トマト、タマネギ、ホウレンソウ。


 屋外の苗木売り場では、壊れたスプリンクラーが水たまりを作っていたおかげで、暑さに耐えて生き残っていた緑の苗を見つけた。俺は鉢植えのミカンの苗木を四本、すでに芽が出始めている種芋の袋、イチゴとローズマリーの苗を、有機肥料の袋と一緒に台車へ積み込んだ。


 だが、必需品だけで終わりにはしなかった。無人島では、どんなにくだらないガラクタや日用品でも、生死を分けるか、あるいは正気を保つための鍵になることを知っていたからだ。


 使えそうなものは手当たり次第に回収した。鋳鉄製の鍋、アルミのやかん、裁縫用の針と糸のセット、ボタン、手鏡、太陽で火を起こすための虫眼鏡、何十個ものライター、水に濡れても火花が出るフェロセリウム製のファイアスターター(火打ち石)を三本、ロウソクの箱、固形石鹸のケース、漂白剤、洗濯バサミ、プラスチックのたらい、保護メガネ、海洋双眼鏡。


 そして最後に、防災グッズの棚から、一般放送だけでなく軍の短波放送も受信できる『手回しダイナモ&ソーラーパネル充電式の防災ラジオ』を手に取った。


 それから、俺は自分の武器を選んだ。


 骨に当たって跳ね返るような野球バットや単管パイプではない。建築資材コーナーから、コンクリートを砕くために片方の先端が円錐状に鋭く尖った、長さ一・五メートルの焼き入れ鋼製の重い『六角カナテコ(鉄梃)』を選び出し、手が滑らないように中央の握り部分にダクトテープを幾重にも巻きつけた。


 二十八日目の夜明け、満載にした二台目の台車を押して湾の奥にある小さな漁港へと向かう途中、埠頭に面した小さな交番の前を通らなければならなかった。


 割れたガラス扉の奥から、俺の台車の車輪が軋む音に引き寄せられて、感染した一人の警察官がよろめきながら出てきた。


 背が高くがっしりとした体格の男で、夏用の制服の上にまだ軽量の防弾チョッキを着ていた。首は気管が見えるほど深く食いちぎられており、白目を剥いて口を大きく開けながら、足を引きずってこちらへ歩いてくる。その右腰には、カールコードが無傷のまま繋がれたホルスターに、官給品のリボルバーが収まっていた。


 十三日前、これと全く同じ光景を前にして、俺は子供のように泣き叫び、血まみれになりながら五分間も闇雲にバールを振り回し、危うく死にかけた。


 だが今回、俺の心拍数は少しも上がらなかった。


 俺は台車を止めた。先端の尖った鋼鉄のカナテコを両手でしっかりと構え、登山ブーツを履いた両足を地面に踏ん張り、ゾンビが街灯と埠頭のコンクリート塀の間の狭い隙間を通らざるを得なくなる位置まで二歩下がった。


 感染者が一・五メートルの距離まで近づき、こちらへ両腕を伸ばしてきた瞬間、俺は武器を頭上に振り上げて無駄な体力を使うようなことはしなかった。


 肩の体重をすべて鋼鉄の棒に乗せ、真っ直ぐ前方へ、鋭く一度だけ突きを放った。円錐状の鋭い穂先が、奴の右目の眼窩を正確に捉えた。


 ゴスッ。


 鋼鉄の先端は目の奥の薄い骨を容易く貫き、十センチ奥の脳幹へと直接突き刺さった。


 ゾンビはコンセントを抜かれたテレビのように一瞬で機能を停止し、前へと崩れ落ちた。俺は素早くカナテコを引き抜き、俺のブーツから一メートル先のアスファルトに死体を転がした。血しぶきは一滴たりとも俺に触れなかった。


 所要時間、三秒。乱れた息、ゼロ。


 俺は震えることなく死体の横にしゃがみ込み、サバイバルナイフでカールコードをスパッと切り落として、シリンダーに五発の弾が入った38口径リボルバーを回収した。


 さらに無人の交番の中へ入り、デスクの下にあった金属製の銃器保管庫をバールでこじ開けて、二十五発入りの灰色の弾薬箱を二箱と、手錠、そして新品の特殊警棒を見つけた。俺は拳銃と計五十五発の銃弾をリュックにしまい込んだ。ゾンビに対して使うつもりは二度とない。万が一、どこかの『人間』が俺の邪魔をしに来た時だけ使うためのものだ。


 漁師たちの私有桟橋には、俺が望んでいた通りのものがあった。


 全長六メートルの頑丈な白いFRP(繊維強化プラスチック)製の和船だ。荷物を積める幅広の船底を持ち、木製の長いオールが二本と、ヤマハ製の4ストローク船外機がついている。係留場所の横にあるトタン屋根の小屋の中には、劣化防止剤入りのガソリンが満タンに入った二十リットルの携行缶が六つ、エンジンオイルの缶、刺し網、ナイロン製の釣り糸、鋼鉄製の釣り針の箱、三又の銛(もり)、そしてネズミ除けの密閉プラスチックドラム缶の中に、『三十キロ入りの玄米の袋が三つ』と、四十キロの『天然の粗塩』が保管されていた。


 船に荷物を積み込むのに三時間かかった。


 玄米の袋、ガソリン携行缶、本、衣類、毛布、工具、苗木、そしてありとあらゆるガラクタを船首から船尾まで隙間なく積み上げ、その上から青い防水ブルーシートを被せて船舶用ロープで固く縛り上げた。あまりにも荷物を積んだせいで喫水線は船縁からわずか十五センチのところまで上がっていたが、朝の海は油を流したように穏やかな凪だった。


 俺は係留ロープを解き、船外機のスターターロープを引いた。エンジンは二回目でかかり、低く規則正しい駆動音を響かせた。


 俺は舵を沖へと切った。船首が青い海を切り裂き、四キロ先に浮かぶ緑の島の輪郭へと向かって進んでいく間、俺は一度たりとも本土を振り返らなかった。


【29日目〜180日目】


 その島には、観光マップに載るような名前すらなかった。


 全長一キロにも満たない火山岩の塊で、三方を海に切り立つ黒い岩壁に守られており、風を避ける南側の狭い玉砂利の入り江からしか上陸できない天然の要塞だった。


 浜辺から続く小道を登り切ったところ、古い石積みの段々畑の真ん中に、世間から隔絶されて暮らしていた老夫婦のものらしき石と杉の木で造られた一軒の農家があった。


 二人は台所の内側に閉じ込められた状態で、何週間も前に感染者に変わっていた。おそらく、どちらかが船で島に戻る前に本土の町で噛まれたのだろう。


 俺は扉を開ける必要すらなかった。台所の窓の木格子を叩いて音を立て、二人が格子に押し寄せてきたところを、先端の尖った鋼鉄のカナテコで正確に二突きして安らかな眠りを与えた。その後、裏山の松の木の下に二人を敬意をもって埋葬し、土饅頭の上に白い石を二つ置いた。


 その日から、島は俺のものになった。そして、俺の人生で最も過酷で容赦のない「学校」が始まった。


 抗生物質と消毒薬のおかげで、十日もすると両膝の化膿は完全に引き、ピンク色の大きな傷跡が二つ残るだけとなった。だが、痛みが消えたわけではなかった。痛みは手のひらと背中へと移ったのだ。


 俺は農家の木のテーブルの上に『農業の実践大百科』を広げ、毎晩ロウソクの明かりで勉強し、夜明けとともにそのすべてを実践に移した。


 段々畑の土は、腰の高さまで伸びた雑草に覆われていた。俺は八月の灼熱の太陽の下、一日十時間、何週間もかけて鉈で根を断ち切り、鍬で硬い土を掘り起こし続けた。


 プラスチックのマウスをクリックすることしか知らなかった、白くて柔らかい元コンビニ店員の手のひらは、初日の午後には血豆だらけになった。血豆が潰れると、手のひらに布切れを巻きつけ、歯を食いしばって鍬を振り続けた。一ヶ月が経つ頃には、皮膚は硬化し、革靴の底のように分厚く黄色いタコの層へと変わっていた。


 家の横には岩盤の湧き水に繋がる古い深い井戸があったが、それだけでは満足しなかった。大工の技術書に従い、竹と青いブルーシートを使って屋根の上に雨水収集システムを作り上げ、砂と砂利と木炭を重ねた濾過装置を通して、大型のプラスチックドラム缶に真水が溜まるようにした。


 芽出しした種芋、サツマイモ、大根と大豆の種を植えた。南向きの石垣に沿って四本のミカンの苗木を定植した。


 本を見ながらロープの結び方を覚え、入り江の岩場に刺し網を仕掛けた。最初の数日は海藻や食べられない小さなカニしかかからなかったが、三週目には真鯛や鯖、タコが獲れるようになった。すぐに食べない分は岩場で内臓を抜き、海水で洗ってから粗塩をたっぷりとすり込み、針金と竹で作った干し網に並べて潮風で干物にした。


 船に積み込んできたガラクタのおかげで、放棄された農家は快適で強固な要塞へと生まれ変わった。


 ハンマーと釘とコールタールで屋根の割れた瓦を修理し、冬に備えて窓の隙間風を塞いだ。薪のかまどの上に鋳鉄の鍋を据え、服の破れは針と糸で自分で縫い合わせ、斧で割った乾燥した薪の山を軒下にたっぷりと蓄えた。


 秋が訪れ、自分の汗で育て上げた最初のサツマイモと白い大根を黒い土から引き抜いた時、俺はそれを井戸水で洗い、石垣に座って生のままかじりついた。


 パリッとした食感とともに、甘くて瑞々しい汁が口いっぱいに広がった。生まれてから初めて、俺は「食べ物には本当の味がある」ということを知った。


【210日目(7ヶ月目)】


 二月になると、凍えるような北風が海の上を吹き荒れ、白い泡を立てる大波が島の黒い断崖に激しい音を立てて打ちつけた。


 だが、俺の石造りの家の中は暖かかった。


 薪ストーブには火が赤々と燃え、鋳鉄の天板の上では、玄米と塩漬けの魚、サツマイモ、そして山で掘った野生のゴボウを入れた濃厚な雑炊の鍋がグツグツと煮えていた。


 俺は町から持ってきた分厚いキルティング毛布を敷き詰めた床の上であぐらをかき、厚手のウールのセーターに身を包んで、規則正しいゆっくりとした動きでサバイバルナイフの刃を砥石に滑らせていた。


 俺の身体には、もう傷一つなかった。


 何年ものジャンクフードとパソコンの前の夜更かしで蓄えられた青白くぶよぶよした脂肪は完全に消え去っていた。オールを漕ぎ、薪を割り続けたことで肩幅は広くなり、前腕は鋼鉄のワイヤーのように逞しく盛り上がり、腹は引き締まり、ハサミで整えた濃い髭が顔を覆っていた。


 毎晩一度も悪夢を見ることなく八時間ぐっすりと眠り、カモメの鳴き声とともに目を覚ます。俺は幸せだった。こんなにも静かで、満ち足りて、揺るぎない幸福がこの世に存在するということすら、昔の俺は知らなかった。


 月に一度の暇つぶしとして、俺は棚の上に置いた防災ラジオに手を伸ばし、緑色のLEDランプが点灯するまで二分間ダイナモのハンドルを回すと、周波数のダイヤルを政府の短波放送に合わせた。


 普段なら、宇宙の風のような空虚なホワイトノイズが流れるだけだ。だがその夜は、ザザッというノイズの合間から人間の声が浮かび上がった。


『……こちら安全群島・臨時司令部からの特別通達を繰り返す……沿岸部および内陸部で聴取しているすべての生存者へ告ぐ……』


 俺はナイフを研ぐ手を止め、半分笑みを浮かべながら少しだけ音量を上げた。


『緊急政令第四十四号により、管理委員会はA、B、C、Dの功績ランクによる階級制度を公式に廃止することを宣言する。繰り返す、カテゴリーDに対する制限は即時撤廃された。感染しておらず、肉体労働が可能なすべての市民は、軍港の北埠頭へ向かうか、毎週月曜日の夜明けに海岸線で白い狼煙(のろし)を上げて現在地を知らせてほしい。我々の哨戒艇がただちに回収へ向かう……』


 ラジオの声がそこで途切れた。


 七ヶ月前の、あの冷たくて機械的で退屈そうな声ではなかった。マイクの向こうの男は明らかに息が 上がっており、必死の緊張感で原稿を読み上げているのがはっきりと分かった。


『政府コロニーは現在、農作物の栽培、給水設備の維持管理、漁業、および生物学的廃棄物の処理を行う労働力を緊急に必要としている。出頭し、肉体労働の能力を証明した者には、即座にカテゴリーBの地位と共同宿舎、および一日二倍の食料配給を保証する。お願いだ……我々には働き手の腕が必要なんだ。外で一人で孤立しないでくれ。国家は君たちを必要としている』


 俺は小さなプラスチックのラジオを見つめた。


 それから、ストーブの上で湯気を立てる雑炊の鍋、部屋の隅に積まれたジャガイモいっぱいのカゴ、天井の梁から吊るされた干し魚の袋、そして分厚いタコができた清潔で力強い自分の両手を見た。


 連中は、飢え死にしかけているのだ。


 カテゴリーAの大病院の院長や高級官僚、政治家、銀行家、裁判官だけを連れて黄金の島に閉じこもり、軍の缶詰が永遠に続くか、あるいは三枚複写の申請書類にハンコを押せば畑から勝手にジャガイモが生えてくるとでも思い込んでいたのだろう。


 そして今、凍てつく土を鍬で掘り起こし、素手で下水道の汚物を汲み出さなければならなくなって初めて、自分たちがゲートの外に置き去りにして化け物の餌にした『人間のクズ』を必死に探し回っているのだ。


 俺は木のお玉を手に取り、湯気の立つ雑炊を茶碗によそうと、指を二本伸ばしてパチンとラジオの電源を切った。


 二度とスイッチを入れるつもりはなかった。


【365日目(1年後)】


 コンビニのシャッターを下ろしたあの日の午後からちょうど三百六十五日後、七月の太陽が再び海の上を焦がすように照りつけていた。


 俺は島の最上段にある段々畑の真ん中で、上半身裸に麦わら帽子をかぶり、ズボンの裾をふくらはぎまでまくり上げて立っていた。


 俺の周りでは、トマトの畝が赤く艶やかな実をたわわに実らせ、大豆の蔓が竹の支柱に絡みつき、四本のミカンの木は新しい若葉と小さな緑の実をつけていた。俺の肌は太陽と潮風に焼かれてチーク材のように黒光りし、腰のベルトには常にサバイバルナイフと、完璧に油を差して弾を込めた38口径リボルバーの革ホルスターが下がっていた。


 夕食のために完熟したトマトと新ジャガをカゴに収穫していた時、ふと海に目をやると、午後の潮流に流されて灰色の小さな点がこちらへ漂ってくるのが見えた。


 俺はカゴを地面に置き、松の枝に引っ掛けてあった双眼鏡を取ってピントを合わせた。


 船体に『国防警備隊』の色褪せた文字が書かれた、灰色のFRP製救命ボートだった。船尾の船外機は焼け焦げてスクリューが失われており、船上には三人の人影がいて、折れた一本のオールで不器用に船を操ろうとしていた。やがて波に押されたボートは、俺の島の入り江の入り口へと真っ直ぐに流れ込み、砂利を擦る音を立てて浜辺の玉砂利の上に座礁した。


 俺は先端の尖った鋼鉄のカナテコを手に取り、ホルスターの拳銃がいつでも抜けることを確認すると、急ぐことなく石の小道を下りていき、波打ち際から十メートル離れた岩陰に立ち止まった。


 救命ボートから、浅瀬へと三人の男が転がり落ちた。


 感染者ではなかったが、本土で相手にしたゾンビよりもはるかに死体のように見えた。重度の日焼けで赤くただれ、水ぶくれができた皮が骨に張り付いた骸骨のような姿。頬はこけ、目は熱に浮かされたように濁り、唇は塩と脱水症状で真っ白にひび割れていた。


 彼らが身につけていたのは、かつては高価な服だったであろう汚いボロ布だった。引き裂かれた麻のズボンと、油と煤で灰色の雑巾のようになったワイシャツ。


 そのうちの一人が、濡れた玉砂利の上を四つん這いで這いずりながら、俺の方へと顔を上げた。


 男はまず俺の鋼鉄入りの登山ブーツを見て、次に岩場の天然の生け簀に浸けてあった新鮮な真鯛がいっぱいに入った網を見て、最後に俺の足元に置かれた、赤いトマトとジャガイモが溢れんばかりに盛られた籐のカゴを見た。


 少なくとも三十キロは痩せ落ち、かさぶただらけの薄い髪と伸び放題の髭に覆われていたが、俺は一瞬でそいつが誰なのか分かった。


 軍港の防弾ガラスの窓口にいた、あの四十代の政府職員だ。アイロンの効いた白いワイシャツを着て、温かいコーヒーをすすっていたあの男だった。


 だが、向こうは俺に全く気づかなかった。気づくはずもない。


 彼にとって『カテゴリーDの廃棄物』に顔などなかったし、何より、鋼鉄の槍を手にブロンズ像のように微動だにせず目の前に立ちはだかる、背が高く筋肉質で日に焼けた男は、一年前に自分が追い払った骸骨のように震える小僧とは何一つ共通点がなかったからだ。


「水……」


 元職員は玉砂利の上に膝をつこうとしながらカエルのような声を絞り出し、震える指で俺の食料のカゴを指差した。


「食い物だ……やっぱり本当だったんだ。双眼鏡でお前の煙突の煙が見えて……本当にここに稼働している農場があったんだな」


 俺は一ミリも動かなかった。鋼鉄のカナテコの鋭い先端を男の胸元に向けたまま、静かで低い声で言った。


「そこで止まれ。浜辺から一歩でも前へ出るな」


 後ろの二人の男は石の上に倒れ込んだまま激しく喘いでいたが、職員はプライドを刺激されたように肩を震わせた。黒く汚れた鳥の足のような手で、かつて白かったワイシャツの破れた胸ポケットを探り、青いラミネート加工の身分証を取り出して、護符のように俺の前に突き出した。


「その武器を下ろしなさい、市民!」


 男は命令口調で言おうとしたが、声は乾いた咳き込みに変わって裏返った。


「私は群島管理委員会の主席監察官、谷口だ! 本島の政府居住区は……崩壊した。我々は生き残った最後の役人だ。緊急戒厳令に基づき、委員会の必要のため、この船舶およびお前の収穫物を公式に徴発する!」


 俺は五秒間、無言で男を見下ろした。


「感染者に突破されたのか?」


 鋼鉄の穂先を下ろすことなく、俺は尋ねた。


 谷口はトマトに視線を落とし、出ない唾を飲み込んだ。


「いや……感染者じゃない。軍の備蓄食料が一月に尽きたんだ。警備隊のバカどもが、我々役人に対する配給まで減らし始めて……誰も畑仕事なんかやりたがらなかったし、時化(しけ)の海に船を出そうともしなかった、そんなのは自分たちの仕事じゃないと言ってな! そのうち給水ポンプが壊れたのに修理できる作業員が一人もいなくて、赤痢が蔓延した……最後は残った米袋を巡って銃撃戦になったんだ。我々は三日前、倉庫が燃える中で脱出してきた……」


 男は再び俺へと目を上げた。そして、俺の右手の人差し指がホルスターのリボルバーのグリップに触れているのを見た瞬間、官僚としての傲慢さは一秒で溶け去り、卑屈で絶望的な泣き声へと変わった。


「お願いだ!」


 谷口は両手を合わせ、濡れた玉砂利の上に額をこすりつけてむせび泣いた。


「四日間、何も食べていないんだ! 水と、その魚をくれ、頼む! もし我々を君の家に置いてくれるなら、私は……私は君の備蓄を管理してやれる! 台帳をつけられるし、東京との連絡が回復し次第、君を『カテゴリーAの農業局長』に任命する政令に署名してやることもできる! ボートの中に金の腕時計もある、全部お前にやるから!」


 俺は波打ち際の泡の中で二つに折れ曲がっているその男を見下ろした。


 一年前、厚さ四センチの防弾ガラスの向こう側で、こいつは俺に大学の学位や役職がないというだけの理由で、俺の命には茶碗一杯の米の価値すらないと決定した。


 そして今、魚が泳ぎ回る海と肥沃な大地からわずか三メートルの場所で、こいつは飢え死にしかけている。自分の両手で現実の何かを生み出す方法を、何一つ学んでこなかったというだけの理由で。


 俺は玉砂利の上を一歩前へ踏み出した。谷口は俺がカゴを差し出してくれるものと期待して、涙に濡れた顔を上げた。


 だが俺は、歩道に放置されたゴミ袋を見る時と全く同じ、完全な無関心さで男を上から見下ろし、暗記していたあの文言を口にした。


「氏名、年齢、および生存に有用な職業資格を述べよ」


 元職員は凍りつき、目を瞬かせた。


「え……?」


「時間を無駄にさせるな」


 俺は一年前のあいつと寸分違わぬ、退屈そうな声色で言った。


「八月の太陽の下で、気絶せずに十時間硬い土を鍬で耕せるか? 魚の内臓を抜き、破れた網を繕い、斧で薪を割り、台風の中で屋根の瓦を修理できるか?」


「わ、私は……帝国大学法学部の卒業生で、兵站部門の責任者だった人間だぞ。肉体労働などしないが、指揮を執ることなら――」


「対象、男性、四十二歳、完全に無用な非熟練労働者。カテゴリーA」


 俺は氷のような声で遮った。


 俺は左手をカーゴパンツのサイドポケットに突っ込んだ。そして、三百六十五日間ずっと丁寧に折りたたんで保管していた小さな緑色のビニール片――『軍用乾パン二枚の空袋』を取り出した。


 それと一緒に、カゴの中から乾いた泥がこびりついた小さな生のジャガイモを一つだけ掴み出し、野良犬に骨を投げ与えるのと全く同じ手つきで、男の膝の前の石の上に両方とも放り投げた。


 谷口は自分たちの軍港のスタンプが押された緑色の空袋を凝視し、それから恐怖に見開かれた目をゆっくりと持ち上げて、俺の顔、むき出しの両膝に残る白い大きな傷跡、そして俺のホルスターに収まった警察のリボルバーを順々に見た。


 飢えで霞んでいた男の脳内で、パズルのピースがようやく一つに繋がった。男の顔から完全に血の気が引いた。


「お、お前は……あの時の……」


 男は口ごもり、救命ボートの船首に背中がぶつかるまで両手で後ずさりした。


「上陸申請を却下する」


 俺は入り江の静寂の中で、はっきりと告げた。


「お前たちの紙切れの世界では、エアコンの効いた机の後ろに座っている寄生虫どもが、誰が生き、誰が死ぬべきかを決めていた。だが、あの世界は終わったんだ。ここでは、土はお前たちのラミネート加工された身分証など読まないし、海は金の腕時計など受け取らない。この島には、自然の法則がたった一つだけある。『ここで生き残れるのはカテゴリーDだけだ』。俺が血を流して育てた食べ物を、役立たずの官僚三人を養うために浪費することはない」


 俺はホルスターから38口径を抜き、岩場にカチャリと金属音を響かせて撃鉄(ハンマー)を起こすと、銃口を男の眉間に真っ直ぐ突きつけた。


「そのジャガイモを拾い、ボートに戻って潮の流れに身を任せて沖へ出るのに、六十秒与える」


 俺は声を荒らげることすらなく締めくくった。


「六十一秒目には、貴様らを感染者と見なして発砲する」


 六十まで数える必要はなかった。


 谷口は泥だらけのジャガイモを両手でひっ掴んで胸に抱きしめると、純粋な恐怖から生まれた必死の力で、他の二人の生存者とともに救命ボートへとよじ登った。折れたオールの柄と素手をパドル代わりにし、血が出るほど岩壁を押しやって船体を入り江の外へと滑り出させると、すぐに海峡の強い潮流がボートを捉え、外海へと一気に押し流していった。


 救命ボートが夕暮れの黄金色の靄(もや)の中で見分けのつかない小さな点になるまで、俺は浜辺に立ち続けていた。


 それからリボルバーの撃鉄を静かに戻してホルスターに収め、ゴミ箱に捨てるために地面から緑色の空袋を拾い上げると、トマトのカゴと魚がいっぱいに入った網を小脇に抱えた。


 俺は石の小道を登り、自分の家の前のテラスへと戻った。


 自分の手で組み上げた木のベンチに腰を下ろし、カゴから赤いトマトを一つ取って袖で拭うと、真っ赤な太陽が水平線へと沈んでいくのを眺めながらガブリとかじりついた。温かくて甘い果汁が口いっぱいに広がった。


 ふと、あの二十四歳の若者のことを思い出した。


 暗い部屋に閉じこもって三千四百時間もモニターのピクセルを見つめ続け、夜はコンビニの人工照明の下に立ち、自分と目すら合わせない客に向かってロボットのように『ありがとうございました』と繰り返し、ビニールに包まれた餌を食べ、ただ日々が過ぎ去るのだけを待っていたあの男のことを。


 俺は果てしない水平線を見つめ、潮の香りと、焼けた薪の匂いと、湿った土の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。


 そして、笑った。


 テレビのニュースは、最初からすべて間違っていたのだ。


 パンデミックが、生きた人間を歩く死体に変えたのではない。


 世界が終わる前、あの場所で、あの蛍光灯の下で――『ゾンビだったのは、俺の方だ』。


 世界の終わりは、俺を殺さなかった。ようやく俺を、生き返らせてくれたのだ。




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また次の物語でお会いしましょう!グラッツェ!


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